第10章 消えた二文字
桐島玲子(42)/主任弁護人
2039年9月某日午前2時過ぎ 桐島法律事務所
深夜二時を過ぎていた。
事務所には玲子一人だった。デスクの上に資料が積み上がっていた。上條から受け取った段ボール三箱分の資料——議事録、法制局の内部記録、委員会資料、当時の新聞記事、関係者への聞き取りメモ。それに加えて国会図書館で複写してきた審議録が、さらに二箱分ある。
上條を訪ねたのは三週間前だった。それから毎日、資料を読んでいた。
仕事は並行して続けている。他の依頼人の案件、打ち合わせ、期日。それをこなしながら、空いた時間を全てこの資料に充てた。事務員の藤本には「申し訳ないが当面は夜遅くなる」と伝えた。藤本は何も言わなかった。ただ「気をつけてください」と言った。
この夜は、法制局の内部記録を読んでいた。
草案の変遷を追っていた。第四十七条がどのように形を変えていったか。
第一稿。第二稿。第三稿。修正案。再修正案。
一枚一枚めくっていった。
深夜一時を回ったころ、玲子は手が止まった。
第四稿と第五稿の間に、一枚の修正指示書が挟まっていた。
「第四十七条第一項の条件規定について、適用範囲を拡張するため、以下の通り修正すること」
修正前。
「認定後に本人が重大犯罪を実行した場合」
修正後。
「認定後に国家重大犯罪に関与した場合」
玲子はその紙を、しばらく見つめた。
「実行した」が「関与した」に変わっていた。
上條から話は聞いていた。テロリストが指示だけして逃げるケースに対応するための修正だと。しかし上條の証言は記憶を辿ったものだ。文書として確認したのは初めてだった。
玲子は修正指示書の日付を確認した。草案作成の中盤の時期だった。
次に議事録を引き出した。
国会での審議記録。委員会での質疑応答。法案提出者の政府答弁。全てを順番に読んでいった。
全員が、「本人が犯行を行う場合」の話しかしていなかった。
一件も、例外がなかった。
委員会で野党議員が質問した。「指定を受けた人物が実行犯である場合の手続きを確認したい」。政府は「指定者が犯行を実行した場合には、認定内容を前提として迅速な審理を行う」と答えた。
別の議員が質問した。「テロ組織の首謀者が直接手を下さず指示のみを行った場合はどうか」。政府は「関与の範囲には指示・教唆も含まれると解釈する」と答えた。
どの質疑を読んでも、議員も政府も同じ前提に立っていた。
指定を受けたテロ組織関係者が、事件を起こす。
その前提だけで、全ての議論が成り立っていた。
無断利用という言葉は、一度も出てこなかった。誤認定という言葉も、一度も出てこなかった。一般市民が指定を受ける可能性すら、誰も論じていなかった。
なぜか。
制度の前提として、「指定されるのはテロリストだ」という了解があったからだ。AIが適切に危険人物を特定し、その人物が事件を起こす。そのケースしか、誰も想定していなかった。
玲子はホワイトボードの前に立った。
「関与」の二文字が丸で囲まれたまま残っていた。第8章の夜から、何週間も前から、そのままだった。
立法者意思。法律を作った人間が何を意図していたか。それは条文解釈の基礎だ。
「関与した場合」という文言は、文字面だけを見れば広い。どんな形の関わりでも、「関与」と読もうと思えば読める。
しかし立法者は何を意図していたか。
議事録を全て読んだ。答えは明確だった。
立法者は「主体的に犯行に関わる場合」しか想定していなかった。テロリストが自ら実行する。テロリストが指示して他人に実行させる。その二つだ。
車を無断使用された。それだけの事実は、立法者が想定した「関与」には当たらない。
慎吾は関与していない。
玲子はマーカーを取り、ホワイトボードに書いた。
「本件において、被告人は関与していない」
書き終えて、玲子は数秒間その文字を見つめた。
これが、全てをひっくり返す。
慎吾が無実かどうかは争わない。第四十七条が違憲かどうかも争わない。条文の内側に入る。「関与」という二文字の意味だけを争う。
立法者意思に照らせば、本件は第四十七条の適用要件を満たしていない。
玲子は椅子に座り、最高裁への準備書面を書き始めた。
書き出しを何度か書き直した。
「本件において争うべき問題は、被告人の無実ではない。また、国家安全保障特別法第四十七条の合憲性でもない。争点は一点である。同条にいう『関与』という文言の意味である」
書いてみた。
読み直した。
これでいい。
時計の針が午前三時を指した。
玲子は書き続けた。




