表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『関与』  作者: なうなり
PR
8/16

第7章 違憲という罠

奥田哲朗(61)/憲法学者

2039年7月某日 奥田研究室


連絡が来たのは土曜日の夕方だった。


奥田哲朗は研究室で論文の校正をしていた。定年まであと三年。大学で憲法学を教えて三十年になる。最高裁の判例を全て頭に入れており、政府の法令審査にも関わってきた。学界では一定の地位があると自分では思っている。


桐島玲子という弁護士からの連絡だった。秋山慎吾事件の主任弁護人だ。名前は知っていた。事件はニュースで追っていた。


「第四十七条の違憲主張で戦えますか」


率直な質問だった。


奥田は「検討させてください」と答え、電話を切った。


三日間、考えた。


論文を書くように、丁寧に論理を組み立てた。


まず第四十七条について。同条は、特定危険指定を受けた者が重大犯罪に関与した場合、認定内容を前提として審理することを義務付けている。これは刑事裁判における事実認定の在り方に介入するものだ。適正手続の保障を定めた憲法第三十一条との関係が問題になる。


次に第五十三条について。刑事手続において指定の適否を争えないという規定は、被告人の防御権を著しく制限する。弁護権の保障という観点からも問題がある。


論理としては成り立つ。


しかし奥田は、三十年間最高裁の判例を研究してきた。


その経験が、論理の先に別の結論を告げていた。


最高裁が安全保障関連立法を違憲とした例は、一件もない。砂川事件の最高裁判決以来、安全保障への立法裁量は広く認められてきた。近年の判例を見ると、その傾向はむしろ強まっている。二〇三〇年代に入ってからの安全保障関連判決を全て確認した。一件として違憲判断はない。


仮に最高裁で違憲主張を展開すれば、どうなるか。


最高裁は、合憲と判断する可能性が高い。そしてその判断は判例として確定する。第四十七条・第五十三条は合憲という最高裁判例が生まれる。それは将来の同種事件を全て縛る。今回一人を救えないだけでなく、今後同様のケースが生じたときにも、憲法論では争えなくなる。


違憲主張は罠だ。


勝ち目がないどころか、状況を悪化させる。


奥田は玲子に電話した。


「違憲では勝てない。むしろ状況を悪化させます」


「理由を教えてください」


奥田は三十分かけて説明した。最高裁の判例傾向。合憲判断が下った場合のリスク。違憲主張が持つ罠の構造。玲子は黙って聞いていた。


「では何で戦えばいいんですか」


沈黙があった後、玲子がそう言った。


奥田は答えられなかった。


学者として言えるのはここまでだった。戦えない道を示すことはできる。しかし戦える道を示す知識を、奥田は持っていなかった。


「……分かりません」


電話が切れた。


奥田は暗い研究室でしばらく座っていた。


窓の外は夕暮れだった。大学のキャンパスに学生たちが歩いている。平和な夕方だった。


三十年間、憲法学者として法律の理論を研究してきた。法律は人を守るためにある。その信念で教えてきた。学生たちに、そう教えてきた。


しかし今、自分は「この法律では人を救えない」と言った。そして「どうすれば救えるか分からない」と言った。


法律の論理が人を救えないとき、学者は何ができるのか。


その問いに、奥田はまだ答えを持っていなかった。


論文の校正は、その夜は手につかなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ