第5章 弁護人
桐島玲子(42)/主任弁護人・元検事
2039年6月某日 桐島法律事務所
六回目の却下通知が届いたのは、火曜日の朝だった。
玲子は通知書を封筒から出し、一読してデスクに置いた。コーヒーを一口飲んだ。冷めていた。昨夜も遅かった。いつからコーヒーを温かいうちに飲めなくなったか、もう覚えていない。
「最高裁判所 通知書 申立番号……当該申立については、刑事訴訟法第三百二十一条及び国家安全保障特別法第五十三条の規定により、受理することができない……」
文面は毎回ほぼ同じだった。
玲子は弁護士になって十四年になる。その前の十二年間は検察官だった。法律の世界で合計二十六年。法律の内側を知り尽くしているつもりだった。どこに隙間があり、どこが鉄壁なのか。それが分かるからこそ、弁護士としても戦えると思っていた。
しかしこの事件は、その経験が逆に苦しかった。
分かるのだ。壁の硬さが。
最初に却下されたのは、新証拠の提出申請だった。NSAの誤認定を示す内部資料。これを新証拠として認めるよう申し立てた。裁判所の判断は「国家安全保障特別法第五十三条により、特定危険指定の内容に関わる証拠は当法廷では扱えない」。
次は久我翔の証言だった。真犯人自身が「秋山は無関係だ」と証言する。これほど強力な証拠はない、と思った。しかし「指定内容に関わる事項についての証言」として却下された。
DNA鑑定書の再提出。「既に審理済みの証拠として新規性なし」。
他にも試みた。捜査記録の再精査、アリバイ証人の追加申請、行政訴訟との並行審理の申立。全て退けられた。
裁判官は悪くない。
それが、玲子を最も苦しめた。
裁判官は法律に従っている。検察官も同じだ。誰も間違ったことをしていない。法律が、そうなっているのだ。第四十七条と第五十三条という二つの条文が、完璧に人を閉じ込めている。
玲子が検察官だったのは十二年前まで、東京地検の特捜部に所属していた。法律は正義を実現する道具だと信じていた。適切に使えば、正しい結果が生まれる。そう信じていたから、この仕事を続けてきた。
しかし今、その道具が人を殺そうとしている。
道具のせいではない。道具を作った人間のせいでもない。少なくともそれは意図されていなかった。ただ、法律というものは穴を持つ。どれほど精緻に設計されても、想定外の事態が生じる。その穴に落ちた人間が、今アクリル板の向こうに座っている。
却下通知が積み上がるたびに、玲子の中で何かが変わっていった。
怒りは最初の段階で通り過ぎた。悲しみも、同情も、通り過ぎた。残っていたのは、もっと静かで、もっと冷たいものだった。
自分が二十六年間信じてきた法律への、根本的な疑いだ。
法律は正義を実現するためにある。しかし正義を実現できない法律は、何のためにあるのか。
全ての正攻法が塞がれた夜、玲子は事務所に一人残った。
ホワイトボードに第四十七条の条文を書いた。
「特定危険指定を受けた者が、指定後に国家重大犯罪に関与した場合——」
どこかに、まだ動ける場所があるはずだ。
しかし玲子にはまだ、それがどこにあるのか分からなかった。ホワイトボードの条文を見つめたまま、答えは来なかった。
玲子はマーカーのキャップを閉めた。
今夜は、ここまでだ。
事務所を出た。エレベーターを待ちながら、玲子は上告審の期限を計算した。まだ時間はある。しかし多くはない。
地下鉄の駅を歩きながら、玲子は条文の言葉を頭の中で繰り返した。
関与した場合。
関与。
その言葉が、電車に乗ってからも、家に帰ってからも、眠りにつくまで頭の片隅に引っかかっていた。
なぜそこが引っかかるのか、玲子にはまだ分からなかった。




