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『関与』  作者: なうなり
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第2章 予測される悪意

森田あかり(26)/NSAデータ入力担当職員

2037年8月某日 国家安全保障分析庁 データ管理室


その日、あかりは朝から機嫌が良かった。


理由は単純だった。前夜、予約していたレストランから確認メールが届いていたからだ。渋谷に新しくできたイタリアンレストラン。友人の佐々木から教えてもらった店で、二人で予約を入れようとしたら二週間待ちだった。その予約が、今週末に迫っていた。


出勤電車の中で、あかりはメニューを調べた。パスタが有名らしい。写真を見ると、確かに美味しそうだった。佐々木に「もうすぐだね」とメッセージを送ると、すぐに「楽しみ!」と返ってきた。


国家安全保障分析庁に入庁して二年目。あかりの仕事はデータ管理室でのデータベース運用補助だった。国家安全保障分析庁——通称NSA——は二年前に設立された新しい機関だ。AIが市民の通信履歴、購買記録、SNS、移動データ、医療情報などを分析し、将来的に重大犯罪を起こす危険性のある人物を事前に特定する。予測型安全保障制度と呼ばれていた。


制度は概ね好評だった。犯罪率の低下が数字として出ていた。国民の支持率も高い。あかりが入庁を決めたのも、新しい制度の一員になりたいという気持ちがあったからだ。


ただ仕事の実態は、想像よりも地味だった。


あかりの日常業務の一つが、データベース統合作業の最終確認だった。NSAのシステムは複数のデータベースを統合して運用されている。AIが自動的に「同一人物の可能性がある複数のデータ」を抽出し、人間が最終確認して統合処理を承認する。それがあかりの役割だった。


システムの設計上、確認する項目は明確に定められていた。氏名の一致、生年月日の一致、顔認証スコアが閾値を超えているか。この三条件を確認し、全て満たしていれば承認する。内容の審査は別の部署が担当する。あかりの仕事は条件の確認だけだ。


午後一時過ぎ、あかりは午後の処理を始めた。


画面を三つ開く。データベース統合管理システム。照合ログ。承認フォーム。この三つを並べて作業するのが、あかりのやり方だった。


ケース番号47270から始めた。

一件処理する。承認。次。承認。次。却下——これは氏名が一致していなかった。フォームに理由を入力して送信する。次。承認。


淡々と進んでいった。


上司の田中係長から、午後イチにチャットが来ていた。「今日中に47000番台終わらせといて、明日から別のタスク入るから」。分かりました、と返信した。残りは三十件ほどある。今のペースなら定時前に終わる。


47275。承認。

47276。承認。

47277。却下。生年月日が一日ずれていた。

47278。承認。

47279。承認。

47280。承認。

47281。


あかりは画面を確認した。


氏名:秋山慎吾。生年月日:2004年3月17日。

照合先のデータ。氏名:秋山慎吾。生年月日:2004年3月17日。

顔認証スコア:87.3。閾値:85.0。


チェックリストを確認した。氏名一致。生年月日一致。顔認証スコア閾値超過。三条件、全て満たしている。


照合先のデータには「要注意」のフラグが立っていた。赤いアイコンだ。テロ組織関連人物のデータベースを示すフラグだった。あかりはそれを見たが、内容の確認は自分の業務ではない。条件を満たしているかどうかだけを見ればいい。


条件は満たしている。


あかりは承認ボタンを押した。


処理完了の表示が出た。


47282に移った。


その後も作業は続いた。47283。承認。47284。却下。47285。承認。


午後四時半ごろ、残りの処理が終わった。田中係長に「完了しました」と報告した。「お疲れ」と返ってきた。


定時になった。


あかりはモニターの電源を落とし、ロッカーから上着を取り出した。同僚の伊藤さんに「お疲れ様」と声をかけながら、エレベーターホールに向かった。


電車に乗った。スマートフォンを開いた。佐々木からメッセージが来ていた。「週末、何時集合にする?」。「七時でどう?」と返信した。「いいね!」とすぐに返ってきた。


駅を出ると夜風が心地よかった。


夏の終わりの風だった。少しだけ秋の匂いがした。あかりはそれを感じながら、今夜は何を食べようかと考えた。冷蔵庫に昨日の残りがあったはずだ。


47281のことは、もう考えていなかった。


その日処理した件数の中の一件。条件を満たしていたから承認した。それだけのことだった。承認処理によって秋山慎吾のデータとテロ組織関係者のデータが統合され、秋山慎吾が「特定危険指定者」として登録されたこと、そもそも二つのデータが全くの別人のものであったこと、通知が行政上のミスで本人に届かなかったこと、そしてその登録が半年後に一人の男の命を決定的に左右することを、森田あかりは何も知らなかった。


翌朝、あかりは別のタスクに移った。


47281という番号を、あかりはすぐに忘れた。


忘れるのは当然だった。あかりにとって、それはその日処理した件数の中の一件に過ぎなかったのだから。


週末、あかりは佐々木とイタリアンレストランに行った。パスタは確かに美味しかった。二人でワインを一本空けて、近況を話し合った。楽しい夜だった。


あかりはその夜、よく眠れた。

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