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『関与』  作者: なうなり
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第1章 死刑囚の告白

秋山慎吾(34)/高校教師・死刑囚

2039年9月某日 東京拘置所


面会室に入るたびに、慎吾は同じことを思った。


この椅子は、少し低い。


座るたびに気づく。アクリル板の向こうと、わずかに視線がずれる。設計上の問題なのか、意図的なものなのか、慎吾には分からない。ただ毎回、少しだけ見上げる形になる。それだけのことが、この一年と四ヶ月、ずっと気になっていた。


桐島玲子が向かいに座った。


黒いスーツ。書類をテーブルに置く動作が静かだ。顔に感情が見えない。慎吾が初めて接見を受けた日から、そういう人だった。怒っているわけでも、困惑しているわけでもない。ただ感情の表面が、どこか遠いところにある。


「上告審に向けて、改めて状況を整理します」


玲子が書類をテーブルに広げた。慎吾はその動作を見ながら、自分の手に目を落とした。


一年と四ヶ月。


拘置所に入ってからそれだけの時間が経った。最初の数ヶ月は、まだ何かが間違っていると思っていた。すぐに解決する、誰かが気づく、正しい判断が下される。そういう感覚があった。しかしその感覚はとうに消えていた。今は違う種類の時間が流れている。ただ待つだけの時間だ。


「まず事実関係から確認します」


玲子の声は淡々としていた。法廷での陳述を聞いているような、そういう声だった。


「二〇三七年八月、国家安全保障分析庁のデータベース統合処理において、あなたのデータと別人のデータが混線しました。その結果、あなたは特定危険指定を受けました。通知は行政上のミスで届かず、あなたはそれを知らなかった」


慎吾は頷いた。


知っている。全部知っている。


しかし玲子が読み上げると、また少し別のものになる気がした。自分の身に起きたことなのに、他人の話を聞いているような感覚。裁判が始まってから、ずっとそうだった。自分のことが、書類の上の文字になっていく。


「翌年四月、国会議事堂爆破事件が起きました。死者八十七名」


その映像は今でも頭の中にある。


慎吾はその日、学校で授業をしていた。三年二組の古典の授業だった。竹取物語の冒頭を板書していた。「今は昔、竹取の翁といふものありけり」。チョークで書きながら、スマートフォンが振動した。ポケットの中で二回、三回。授業中だから見なかった。チャイムが鳴って廊下に出たとき、画面を見た。速報が何件も来ていた。


生徒たちが騒いでいた。廊下のあちこちでスマートフォンを見ている生徒がいた。慎吾は職員室に戻り、テレビをつけた。煙が上がっていた。議事堂の建物の一部が崩れていた。


あの日のことは、細部まで覚えている。


しかし今となっては、その記憶が証拠として機能しない。アリバイは記録で確認されている。それは分かっている。しかし裁判において、アリバイは関係がなかった。


「真犯人の久我翔は三日後に逮捕され、自白しています。物証も完璧です。あなたと久我の間に接点はない。事件当日、あなたは学校で授業をしていた。これも記録で確認されています」


「はい」


「問題は一点です」


玲子が書類をめくった。


「久我が爆破前日、あなたの車を無断で使用していた。それだけのことが、捜査記録に関与履歴として記載されました。これが国家安全保障特別法第四十七条を動かした」


車のことは、裁判が始まるまで知らなかった。中古で買った古い軽自動車だった。特別な思い入れはない。通勤に使っていた。学校まで十五分ほどの距離だった。


久我がその車を使ったのは、爆破の前日だ。慎吾が寝ている間に、駐車場から持ち出されたらしい。鍵の掛け方が甘かったのか、それとも別の方法で開けたのか、慎吾には分からない。翌朝、車は元の場所に戻っていた。慎吾は何も気づかなかった。


それだけのことが、全ての始まりだった。


「一審。検察は法廷で『被告人は爆破を実行していない』と述べました。弁護側も無実を主張しました。裁判官もそれを認めました。しかし判決は死刑でした。第四十七条の適用要件を形式上満たしているため、です」


慎吾は裁判官の顔を覚えている。


堂島という名前の裁判官だった。判決を読み上げながら、一度も慎吾を見なかった。法廷の中で、慎吾だけが取り残されたような気がした。検察も弁護士も裁判官も、同じ方向を向いていた。慎吾は無実だ、しかし法律はこうなっている。誰も慎吾の目を見なかった。


「二審も同じでしたね」


「原判決は妥当、死刑維持。はい、同じです」


玲子は書類から目を上げた。


「現在、最高裁への上告が受理されています。新証拠の申請は却下されました。久我の証言も、DNAも、退けられました。法律そのものが壁になっています」


壁。


玲子はよくその言葉を使う。慎吾も、今ではその言葉の意味が分かる。壁というのは、向こう側に何があるか見えていても、越えられないということだ。久我が真犯人だと分かっている。自分が無実だと分かっている。それでも越えられない。


「私にできることは、もう何もないんですか」


玲子はすぐに答えなかった。


書類を一枚めくり、また一枚めくった。何かを確認しているようでもあり、ただ時間を置いているようでもあった。


慎吾は続けた。


「誰かに話を聞いてもらうとか、どこかに訴えるとか、署名を集めるとか——何でもします。このまま待っているだけというのが、どうしても」


言葉が途切れた。


待つことが辛いわけではない。待てないわけでもない。ただ、待つことしかできないということが、慎吾には飲み込めなかった。自分の命のことなのに、自分には何もできない。法律という巨大な機械の中に放り込まれて、歯車が回るのをただ見ている。


「この裁判の行方は、法廷だけが決めます。あなたの役割はもう終わっています。ここから先は私の仕事です」


玲子の声は変わらなかった。感情がない、というわけではない。何かを抑えているような、そういう静けさだった。


「まだ手はありますか」


少し間があった。


「一つだけ、調べていることがあります」


玲子は書類に目を落としたまま言った。視線が書類の上で止まっている。どこかを読んでいるわけではなく、考えているような止まり方だった。


「まだ何も約束できません。ただ——」


玲子が顔を上げた。


慎吾と目が合った。


アクリル板越しに、玲子の目を見た。感情の表面が遠い人だと思っていた。しかし今、その奥に何かがあるのが見えた気がした。怒りではない。悲しみでもない。もっと硬くて、冷たくて、それでいて折れない何かだ。


「諦めていません」


面会時間が終わった。看守が扉を開けた。


慎吾は立ち上がった。


廊下を歩きながら、玲子が読み上げた事実を頭の中で繰り返した。データの混線。車の無断使用。一行の記録。第四十七条。全部知っている。一つ一つは知っている。しかしこうして順番に並べられると、どこにも隙間がないことが改めて分かる。


自分の命のことなのに、自分には何もできない。


それが、どれほど静かな恐怖であるか。


独房に戻った。


扉が閉まった。


慎吾は壁を見た。白い壁だった。


玲子は「調べていることがある」と言った。「諦めていない」と言った。それだけが、今日慎吾に渡された全てだった。


一つだけ調べていること。


それが何なのか、慎吾には分からない。しかし今はそれだけを信じるしかない。他に何もないのだから。

窓の外の空が、少しだけ明るくなっていた。雲の隙間から、薄い光が差していた。


慎吾はしばらくそれを見ていた。


何も言わなかった。何も考えなかった。


ただ、光が消えるまで見ていた。

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