終章 無罪
秋山慎吾(34)/元死刑囚
2040年9月某日 東京地方裁判所 差戻審
差戻審の判決は、あっけなかった。
「被告人を無罪とする」
裁判官の声が法廷に落ちた。
傍聴席がざわめいた。玲子が静かに頭を下げた。隣の補助弁護人が何か言った。慎吾には聞こえなかった。
慎吾は立ち上がれなかった。
喜びを待った。しかし来なかった。
涙が出るかもしれないと思っていた。しかし出なかった。
胸の中にあったのは、何か広くて空虚なものだった。二年と二ヶ月。拘置所に入ってからそれだけの時間が経っていた。その間ずっと、この瞬間を待っていた。しかしいざその言葉を聞いても、何かが戻ってくる感じがしなかった。
足元が少し頼りなかった。
玲子に手を貸してもらいながら、慎吾は立ち上がった。
拘置所を出たのは、曇りの日だった。
玲子と事務員の男性が迎えに来ていた。報道陣が十数人いた。カメラが光った。玲子が短く声明を読み上げた。「本日の無罪判決は、法の正しい解釈によるものです。被告人の秋山慎吾さんは、最初から無実でした」。慎吾はその横に立っていた。
カメラが向く度に、何か言うべきか迷った。しかし何も言えなかった。
外の空気は、拘置所の中とは違った。
それだけは分かった。
数日間、玲子が手配してくれた部屋に泊まった。以前住んでいたアパートはもうない。職はない。貯金はほとんど弁護費用に消えた。これからどうするか、何も決まっていなかった。
一週間後、慎吾は国会の傍聴席にいた。
テレビのニュースで、第四十七条改正案の審議が始まったと知った。審議を傍聴できると調べて、朝から並んだ。
拘置所にいた頃、手紙が届いたことがあった。差出人は名前を書いていなかった。「同じような状況にある者です」という書き出しで始まる手紙だった。第四十七条によって不当な判決を受けた、と書いてあった。
本当のことかどうか、慎吾には分からなかった。
自分と同じ境遇の人間が他にもいると信じたい気持ちはあった。しかし拘置所の中では何も確かめられなかった。弁護士に伝えたが、玲子は「調べます」と言ったきり、その話は戻ってこなかった。
あの手紙が本物だったのか。同じような人間が、本当にいるのか。今もどこかにいるのか。
慎吾には、まだ分からない。
傍聴席から、議員たちが改正案について議論している姿を見た。
与党の議員が「現行制度の根幹を維持しつつ、適用要件の明確化を図る」と述べた。野党の議員が「第四十七条そのものを廃止すべきだ」と主張した。別の議員が「最高裁判決の趣旨を踏まえた修正で十分だ」と言った。
議論は続いていた。
慎吾は何も言わなかった。何もできなかった。ただ見ていた。
二時間が経った。
議論はまだ続いていた。
慎吾は傍聴席を出た。
廊下を歩いた。外に出ると、風が吹いていた。
空を見上げた。
拘置所の窓から見えた空と、同じ空だった。
しかし今は、窓枠がない。どこまでも続いている。
慎吾はしばらく、空を見ていた。
審議は、続いていた。




