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江東の蛇 ――碧眼の独裁者・孫権記――  作者: 武陵隠者
第二章 江東の蛇、あるいは母の教え

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第三節 模造された太陽

 天がもてあそぶ血脈の因果とは、時に呪わしいほどに残酷な再演を好む。

 造物主が、泥をこねる手間に飽き、かつて天下を震撼させた英雄の設計図を、そのまま別の肉体へと写し取ってしまうのだ。


 孫家の三男、孫翊そんよくあざな叔弼しゅくひつ

 この若者が、死んだ長兄・孫策にあまりにも似通っていることは、孫権にとって一種の怪異であり、肌を焼き焦がすような生理的な圧迫であった。


 建安八年(西暦二〇三年)。

 孫権は、呉郡の執務室で、弟の出立を見送ろうとしていた。

 孫翊は、精兵の産地である丹陽たんようの太守に任じられた。荒くれ者の漢人と山越さんえつが入り混じるその地を統べるには、並大抵の武威では足りない。だからこそ、孫翊が選ばれたのだが、そのたたずまいは、孫権の胃の腑を逆流させるに十分な熱を帯びていた。


「行って参ります、兄上」

 孫翊が拱手きょうしゅした。その動作一つに、鋼のような筋の躍動が透けて見える。

 樽のように厚い胸板、精悍な顎の線。彼が笑えば、室内の澱んだ空気は一気に真夏の陽射しに貫かれたように沸き立つ。声までもが、あの死神に連れ去られた男の生き写しだった。


 そこに立っているのは、弟ではない。孫策という強烈すぎる灯火が、消え際にしてこの世に残した、鮮明すぎる「残響」であった。


「丹陽の鼠どもなど、俺の足元にも及びませぬ」

 孫翊は、腰にいた剣の柄を、親指で弾いた。その癖までが、かつての小覇王そのものである。

「言うことを聞かぬ奴は、斬る。従う奴には、俺の酒を浴びせてやる。それだけのことです」


 暴力という一本の針で、天下という複雑な錦を縫い合わせようとする、あまりに単純で力強い思考回路。孫権は、薄い唇を引き結び、弟を仰ぎ見た。

「叔弼よ。……武勇も大事だが、ことわりをもって懐柔することも忘れるなよ」

 自分でも虫酸が走るほど、空虚な訓戒であった。案の定、孫翊は鼻を鳴らした。

「兄上は慎重すぎますな。……ま、後の始末は周瑜どのがうまくやってくれるでしょう。俺は、俺のやり方で暴れさせてもらいます」


 悪気はないのだ。ただ、「自分こそがこの家門の正統なる継承者である」という動物的な確信が、無意識の傲慢となって滲み出ている。

 居並ぶ古参の将軍たちが、孫翊を見る目は熱い。彼らは、この若者に失われた「黄金時代」の再来を夢見ている。陰気で、何を考えているか分からぬ碧眼の主よりも、この眩しすぎる「小さな太陽」こそを、彼らは魂の底から求めていた。


「……頼むぞ」

 孫権はそれ以上何も言えず、ただ頷いた。

 孫翊が旋風つむじかぜのように去った後も、部屋には獣の体臭と、呪わしいほどの生命力が充満していた。孫権はたまらなくなって窓を押し開けた。湿った江東の風が吹き込んでくるが、胸のつかえは泥のように張り付いて離れなかった。

                     *


 その夜、孫権は一人、銅鏡の前に立っていた。

 衣服を脱ぎ捨て、全裸となった己を凝視する。鏡に映るのは、戦場にはおよそ不向きな、いびつうつわであった。

 上半身が異様に長く、足が短い。古人のいう「長上短下ちょうじょうたんげ」――座せば龍の如し、といえば聞こえはいいが、要するに、不格好な胴長短足に過ぎない。

 肌は死人のように白く、筋肉の付き方も薄い。昼間見た、孫翊の鋼の如き肉体とは、天が与えた「格」が根本から異なっていた。


(同じ腹から生まれたはずなのに)

 孫権は、自らの腹の肉をつまんだ。柔らかく、心許ない肉。

 父・孫堅の精は、兄や弟を鋳る際には、その猛り狂う威光を惜しみなく注ぎ込んだ。だが、自分を作る時だけは、何かの手違いで別の成分――猜疑、執着、粘着質な執念といった、地味で陰気な成分ばかりを煮詰めて注いだらしい。


「……もし」

 孫権は、鏡の中の自分に囁いた。

「もし、僕が失態を演じれば、彼らは即座にあの『太陽』を担ぎ上げるだろう」


 自分は、ただの「暫定」に過ぎない。兄が急死し、弟がまだ若すぎたから、やむを得ず置かれた予備の椅子。本物が育てば、いつでも廃棄される運命にあるスペア。

 ――お前は虎ではない。

 母の遺言が、鼓膜の奥で嘲笑う。そう、虎ではない。だが、あの弟は虎の血を継いでいる。同じ檻の中に、二匹の虎はいらない。


 胃液の酸っぱい味が、口の中に広がった。嫉妬ではない。これは、生存への切実な危機感であった。弟が呼吸をするたびに、自分の周りの空気が薄くなっていく。


「……兄上。あなたは死んでもなお、僕を追い詰めるのですか」

 鏡の中の碧眼が、爬虫類のように無機質な光を帯びていく。

 熱い劣等感は、やがて冷徹な殺意へと昇華し、ドロドロとした黒い計略へと変わっていった。

                     *


 数ヶ月後。

 丹陽から届いた定期報告の竹簡を、孫権は広げた。そこには、案の定、血と酒の臭いが染み付いていた。

『……孫翊将軍、酒宴にて地元の名士を殴打。死者数名。兵糧の徴発強引にして、民の怨嗟えんさは大地に満つ』


 あまりにも粗雑な、力のみの統治。

 孫策にも乱暴さはあったが、彼にはそれを補って余りある人たらしの才覚があった。しかし、孫翊はあくまで「写し」に過ぎない。外側だけを真似ても、内側の芯までは写しきれなかったのだ。


 孫権は、竹簡を読み進めながら、己の頬がゆっくりと、不気味な形に歪むのを自覚した。

 暗い喜び。腹の底から、クスクスという笑いが湧き上がってくる。

 失敗している。あの輝ける弟が、自ら掘った墓穴に、泥まみれで落ち込んでいる。


「……愚かだな、叔弼」

 孫権は、筆を執った。孫翊への返書をしたためるためだ。その筆先には、かつてないほどの滑らかな毒が乗っていた。


『……叔弼よ。その勇猛果敢な働き、兄として誇らしく思う。丹陽の不届き者どもには、容赦は不要だ。お前の信じる道こそが、孫家の武威を示す唯一の道である。周囲の小言など気にせず、存分に腕を振るえ』


 それは、慈愛に満ちた兄の言葉を借りた、死出の旅路への背中押しであった。

 諫める必要はない。むしろ、もっと高く燃え上がらせ、自らを焚き尽くさせればよい。


 母の言っていた「毒蛇」とは、こういうことか。

 孫権は、書き上げた木簡の墨が乾くのを待ちながら、窓の外を見た。

 空には、本物の太陽が輝いている。だが、江東の湿った空気の層を通して見る太陽は、どこか輪郭がぼやけ、病的な黄色を帯びていた。


「……英雄とは、自らの命をまきとして焚き尽くす、燃費の悪い生き物だ」

 兄も、弟も、なぜあんなに急いで生きるのか。業火を燃やし、周囲を焦がして、あっという間に灰になる。

 僕は、そんな生き方はしない。代謝を極限まで下げ、体温を奪い、何日でも、何年でも、じっと泥の中で待ち続ける。


 執務室の扉が開き、従者が冷たい茶を持ってきた。孫権はそれを受け取り、一口すすった。冷たい苦味が喉を通り、腹の底に落ちる。

 その苦味は、遠く丹陽で死神の鎌が弟の首を刈り取る予兆の味であり、同時に、孫権という名の孤独な支配者が、その異形の皮を完成させていく味でもあった。

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