第二節 猛母の遺毒
死とは、詰まるところ、天が定めた精緻な器の損壊に過ぎない。
巡る血は淀み、温かな肉という名の檻は、ただの重たい泥の塊へと還っていく。だが、その「肉」が一国の屋台骨を支えていた場合、システムの停止は大地を揺るがす地鳴りとなって、生きる者たちの平穏を削り取る。
建安七年(西暦二〇二年)。
呉の太夫人、呉氏が病の床に伏した。
彼女は、単なる母親ではなかった。猛虎・孫堅の妻であり、小覇王・孫策の母。乱世において最も凶暴な遺伝子をその腹で培養し、世に解き放った「飼育者」であった。戦場では誰の手にも負えぬ江東の虎たちが、この母の叱咤にだけは尾を丸めて従った。彼女の存在こそが、荒くれ者の集団を「家」という名の鎖で繋ぎ止めていた唯一のタガであった。
寝室には、独特の臭気が充満していた。煎じ薬の苦い煙と、老いた肉体から発せられる、熟れすぎた果実が発酵して酢へと変わる途上の、鼻を突く甘酸っぱい死臭。
孫権は、母の枕元に座していた。彼の膝は、不随意の痙攣を刻んでいる。悲しみではない。これから訪れる「絶対的な空白」への、生物的な恐怖であった。
「……権か」
しわがれた声が、布団の山の中から響いた。かつて夫を叱り飛ばし、息子を平手打ちにしたあの鋼のような響きは、もうどこにもない。そこにあるのは、底の抜けた鞴が鳴らす、虚しい風の音だけだった。
「はい、母上。権です」
孫権は、骨と皮ばかりになった母の手を握った。冬の枯れ木を握っているように、不気味なほど冷たかった。
呉夫人は、薄く目を開けた。肉体は朽ち果てようとしているのに、その瞳だけは死んでいなかった。眼光だけが鋭く、孫権の心の奥底を見透かすように光っている。それは、捕食動物が最期に見せる、底知れぬ生存への執着であった。
「泣くのはおよし。涙など、ただの塩水に過ぎぬ。己の眼を曇らせ、敵に隙を見せるだけの安価な液体だ。そんなものを垂らす暇があるなら、その眼で誰を屠るべきか見定めよ」
孫権は、慌てて袖で顔を拭った。この期に及んでも、母は情を排し、利のみを説く。彼女にとって、人間とは乱世という盤面を動かす駒であり、機能不全に陥ったなら廃棄する、それだけの存在なのだ。
「権よ。……よくお聞き」
呉夫人の指が、孫権の手の甲に爪を立てた。骨が軋むほどの力だった。
「私はもう死ぬ。お前を守る盾はなくなる。……お前は、これから一人で、あの豺狼のような男たちの中で、食われぬよう生きていかねばならぬのだ」
豺狼。それは、敵である曹操や劉表のことだけを指しているのではない。
「張昭を……信じてはならぬ。あやつは、理の信奉者だ。あやつにとって大事なのは『呉というシステム』であって、『孫権という個体』ではない。もし、お前の首を曹操に差し出すことで呉が安泰になるなら、あやつは微笑んでそうするだろう。……それを責めてはならぬ。それが政治というものだ。だが、心だけは許すな」
母の言葉は、解剖刀のように鋭利だった。孫権の人間関係という皮膚を切り裂き、その下にあるドロドロとした利害の血管を剥き出しにしていく。
「周瑜もだ。あの子は……美しすぎる。才能も、容姿も、忠誠心さえも。だが、その忠誠は、死んだ策への供物だ。あの子は常にお前の背後に、策の亡霊を見ている。……比較されるぞ。生涯な。愛されていると勘違いするな。お前は、あの子の夢という伽藍を支える、ただの礎石に過ぎない」
「では……僕は誰を信じればいいのですか」
孫権は、すがるように尋ねた。呉夫人は最期の力を振り絞り、孫権を耳元まで引き寄せた。腐りかけた果実のような、甘くて饐えた息がかかった。
「恐怖と、利害だ。人間を動かすのは、その二つだけ。徳などという飾り物に惑わされるな。相手が何を怖がっているかを見抜け。何を欲しがっているかを嗅ぎ分けろ。それさえ握れば、虎でも狼でも、お前の鎖に繋がれた犬になる」
ゴホッ、と母の喉が鳴った。死の泥が、すでに喉元まで競り上がってきている。呉夫人は、孫権の碧い瞳をじっと見つめた。孫堅の黒い瞳とも、孫策の燃えるような瞳とも違う、神秘的で不気味な碧眼。
「……お前は、虎ではない」
母の唇が、奇妙な形に歪んだ。それは、我が子が「異形」であることを確信した魔女の、満足げな微笑みだった。
「虎は、群れを作らぬ。孤高ゆえに、罠にかかって死ぬ。策もそうだった。だが、お前は違う。……お前は、地を這い、泥を啜り、草むらに隠れて待ち続けることができる。毒を溜め込み、相手が油断した瞬間に、その喉笛を刺し貫く……蛇だ」
「蛇……」
「そうさ。虎を殺すのは、同じ虎ではない。草むらに潜んだ毒蛇だ。……権よ、毒蛇におなり。誰よりも猛毒を持った、江東の蛇に」
それが、最期の言葉だった。
呉夫人の喉から、微かな風鳴りのような音が漏れ、やがて止まった。
部屋の中に、静寂と、孫権の荒い呼吸音だけが取り残された。
孫権は、泣いた。遺体にすがりつき、赤子のように慟哭した。だが、その涙の熱さの裏側で、腹の底には冷たくて硬い「安堵」が居座っているのを、彼は確かに感じていた。
偉大な父、英雄の兄、そして猛毒の母。自分を「子供」として縛りつけていた巨人たちが、これで全員いなくなったのだ。
孫権は、涙に濡れた顔を上げた。死顔は穏やかではなく、何かを食いちぎろうとする執念深い表情のまま固まっている。
彼は袖で涙を乱暴に拭った。碧い瞳が、部屋の暗がりの中で爬虫類のように無機質に光る。
涙は、不自然なほどぴたりと止まっていた。代わりに、口の中には唾液が溢れてきた。親の死に直面してなお、猛烈な空腹が胃壁を突き上げていた。
扉が開いた。張昭が、血相を変えて飛び込んできた。
「太夫人! ……おお、なんということだ!」
床に崩れ落ち、大げさに天を仰ぐ老臣。それに続いて、周瑜や重臣たちが次々と入ってきて、一様に慟哭を始めた。
孫権は、その光景をどこか高いところから見下ろしているような気分で眺めていた。
泣け、もっと泣け、と心の中で呟く。
その涙で床を泥に変えろ。お前たちが悲しみに暮れている間に、僕はその泥水の中を泳ぎ、お前たちの足首に巻き付いてやる。
孫権は、ゆっくりと立ち上がった。その所作には、もはや怯える少年の面影はなかった。
「……張昭」
声をかけた。低く、粘着質な湿り気を帯びた声だった。
「葬儀の準備だ。……派手にやれ。江東全土の民が平伏し、畏怖するほどに、盛大にな」
母の死すらも、自らの威儀を天下に知らしめるための道具として使い潰す。
張昭が、涙に濡れた顔を上げてハッとした。その老臣の目に一瞬だけ走った、これまでにない底知れぬ恐怖を、孫権は見逃さなかった。
孫権は、能面のような無表情の下で、静かに舌なめずりをした。




