第一節 名家という名の底なし沼
江東の地というのは、巨大な湿地帯である。
長江という、大陸の腹を裂いて流れる太古の龍が運んできた泥と水。それが気の遠くなるような歳月をかけて堆積し、腐敗と発酵を繰り返して成った土地だ。ゆえに、この地の空気には常に厭わしい湿り気が含まれている。それは単なる湿度というよりも、泥土に沈んだ死者たちが吐き出す、生温かい溜息に近い。
呼吸をするたびに、肺の奥底へ目に見えぬ黴の種や、腐葉土の毒が染み込んでくる。よそ者にとって、江東の空気は重く、そして容赦なく魂に絡みつく。
孫権にとって、兄・孫策の死後に訪れた日々は、まさにこの重苦しい泥の中を、足を取られながら這い進むような屈辱の連続であった。
西暦二〇〇年。建安五年。
孫策という荒ぶる神が強引にねじ伏せていた江東の均衡は、その死とともに音を立てて崩れ去った。兄の剣が刻んだ傷口からは、どろりとした膿が噴き出している。廬江の太守・李術が牙を剥き、各地の土豪や山越の徒が、死肉に群がる蛆のごとく蠢き始めた。
放置すれば、孫家という新興の家門は、瞬く間にこの地の泥に呑み込まれて消滅するだろう。だが、軍を動かすための兵も糧も、その実権を握っているのは、この地に古くから根を張る「名家」と呼ばれる怪物たちであった。
呉郡の政庁。
広間の空気は、外気以上に澱んでいた。
孫権は上座に座している。一九歳の若き当主の背中は、名家たちの放つ無言の圧力に圧し潰されそうであった。彼の眼前には、江東を牛耳る四大名家――顧、陸、朱、張――の代表者たちが、古い墓石のように冷ややかに並んでいる。
「……李術の暴挙は、もはや看過できぬ」
孫権の声は、努めて威厳を保とうとしたが、湿った空気に吸い込まれ、驚くほど頼りなく消えていった。
「直ちに討伐の兵を出す。各家には、兵糧の拠出と私兵の動員を命ずる」
「命ずる」と言い切ったものの、その響きには兄のような、相手の五臓六腑を震わせる殺気が欠けていた。
沈黙が落ちた。名家たちは、顔を見合わせることすらしなかった。ただ伏し目がちに、床の木目を数えているかのように微動だにしない。広間には、彼らが纏う最高級の絹が擦れる、蛇の這うような音だけが不気味に響いている。
やがて、顧家の代表が重い口を開いた。
「孫将軍。李術の謀反、誠に許し難きこと。我らも胸を痛めております」
声は丁寧だが、その響きには孫権を自分たちと同じ階級とは認めぬ、透明な壁のような冷たさがあった。
「しかしながら、折悪しく長雨が続き、領内の作柄は惨憺たるもの。飢えた民を鎮めるだけで手一杯にて、外征に回す余裕など、今の我らには露ほども……」
それは、柔らかい綿でくるんだ鉄球のような、あるいは真綿で喉を締め上げるような拒絶であった。続いて他の者たちも、申し合わせたように「山越の不穏」「治安の乱れ」を並べ立てる。
暖簾に腕押し。孫権は、膝の上で握りしめた拳にじっとりと嫌な汗が滲むのを感じた。
彼らが動かないのは、できないからではない。この「よそ者の若造」に、自分たちの富を差し出す価値があるのかを、値踏みしているのだ。
(僕を、試しているのではない。……観察しているのだ)
名家たちは、瞼の隙間からじっと孫権を注視していた。その視線には、敵意というような熱いものはない。もっと無機質で、生理的な不快感を催させる観察眼。獲物の肉質を確かめるナメクジや、捕食対象を品定めするヒトデのような、感情を排した冷徹さ。
――この小僧は、我らの主君として戴くに足る「神輿」か?
――それとも、踏み台にして、我らの権勢を肥やすための「養分」か?
彼らにとって、孫家など武力だけで成り上がった田舎のヤクザ者に過ぎない。高貴な伝統を持つ彼らにとって、孫権は一時の嵐が過ぎ去るのを待つ間に耐えねばならぬ、不快な「雨宿り」の場所に過ぎなかった。
「……張昭。そなたはどう思う」
たまらなくなって、孫権は助け舟を求めた。
張昭は名家たちを見回し、それから孫権に向き直った。その瞳は、名家たちと同じくらい乾き、そして冷酷であった。
「皆様のおっしゃることも、一理ございます。無理な徴発は足元を掬われる元。ここはまず、孫家の手勢のみで李術に当たり、将軍の武威を身をもってお示しなされよ」
孫権は絶句した。
(こいつも、あっち側か)
張昭自身もまた名士の出であり、知識人の端くれだ。彼は孫権を支えているのではない。孫権という「機能」が、名家という巨大な怪物たちに食い殺されずに済むだけの牙を持っているかどうか、突き放して見物しているのだ。
「……わかった。僕の手勢だけでやる。……下がってくれ」
孫権の声は震えていた。名家たちは安堵の色も見せず、ただ恭しく一礼して退出していった。その背中は、泥の中に沈みゆく若者を見送るかのように冷ややかであった。
夜。
孫権は自室で、獣じみた勢いで膳を食らっていた。
脂の乗った豚の角煮を口に放り込み、蒸した鶏の肉を骨ごと噛み砕く。空腹ではない。胃袋はとうに限界を告げているが、咀嚼を止めれば、己の矮小さに押し潰されそうだったのだ。
クチャ、クチャ、と粘着質な音が室内に響く。
脂ぎった肉を嚥下する。その破壊と吸収の感触だけが、今の孫権にとって唯一の「支配」の実感であった。昼間、広間で名家たちの視線に「消化」されそうになった恐怖を、物理的な摂食行為で塗りつぶそうとしている。
「……畜生、畜生」
口の中のものを飲み下すと同時に、呪詛が漏れる。脂が顎を伝い、白い喪服を汚す。鏡に映る自分の顔は、昼間の屈辱を溜め込んだかのように浮腫み、中年のような澱みを蓄積させ始めていた。
(僕は、虎にはなれない。兄上にはなれない)
肉の脂で光る唇を拭いながら、孫権は認めたくなかった真理を直視した。
兄は虎であった。その咆哮だけで湿地の泥を焼き払う猛獣であった。だが、自分にそんな熱量はない。一歩踏み出せば、名家という名の底なし沼に足を取られ、そのまま養分として吸い尽くされるだけだ。
不意に、激しい胸焼けがした。胃酸が逆流し、喉を焼く。その酸っぱい味が、孫権の脳髄を覚醒させた。
――走れないなら、這うしかない。
虎のように大地を駆けるのではなく、蛇のように腹を地につけ、泥を啜り、沼の一部になりすまして進むしかない。
名家たちが軟体動物だというなら、自分はそれらを丸呑みにする毒蛇になればいい。
今は彼らの冷遇を、無関心を、軽蔑を、すべて胃の中に溜め込んでおこう。飲み込んだ屈辱が胃の中で腐り、いつか彼らを絞め殺すための猛毒に変わるまで、じっと耐えるのだ。
孫権は箸を置いた。腹の底には、重くどろりとした鉛のような塊が沈んでいる。
窓の外では、夜雨がシトシトと降り注ぎ、江東の土壌をさらに湿らせ、腐敗を加速させていた。
孫権は、その暗い闇を見つめながら、碧い瞳を不気味に濁らせた。
英雄の時代は終わった。
これからは、泥を啜り、毒を醸す、醜悪な生存競争の始まりであった。




