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江東の蛇 ――碧眼の独裁者・孫権記――  作者: 武陵隠者
第一部 第一章 虎の死と、震える継承者

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第五節 碧眼(へきがん)の開眼

 夜気やきが、執務室の窓から忍び込んでくる。

 江東の夜は、闇そのものが質量を持っているかのように重い。長江の水面から立ち上る湿気が、室内のあらゆる調度品に微細な滴となって纏わりつき、古い竹簡からはかびと墨の混じったえた匂いが漂い出している。


 孫権は、兄が座っていた椅子に腰を下ろしていた。

 体躯たいくかさが合わないのではない。その椅子に染み付いた、先代のあるじの強烈な体臭――汗と、血と、脂と、そして過剰なまでの自信が放つ覇気の残滓ざんしが、孫権という異物を拒絶し、絶えず座から突き動かそうとしているのだ。


 一九歳の青年は、暗がりの中で膝を抱えたい衝動に駆られていた。

 今日一日で、彼はあまりにも多くの「大人たち」に触れられた。張昭ちょうしょうという乾燥した老木のような男に叱責され、大喬という死の匂いを纏った花に惑わされ、何百という家臣たちの値踏みする視線に晒された。

 皮膚の表面が、視線という針で突き刺され、無数の穴が開いたような感覚がある。そこから、自分の中のわずかな自尊心が、水のように漏れ出していく。


「……空っぽだ」

 孫権は、闇に向かって呟いた。

 自分には何もない。兄のような武勇も、張昭のような経綸けいりんも、家臣たちを魅了するカリスマもない。ただ、父母の契りの果てに、血脈の滴としてたまたま孫策の次に零れ落ちたという生物学的な事実だけが、今の地位を保証している。

 自分は、ただの「くだ」に過ぎないのではないか。偉大な父と兄の血を、次の世代へ流すためだけの、生暖かい肉の管。


 その時、回廊を渡ってくる足音が聞こえた。

 規則正しく、迷いがなく、そして美しいリズムを刻む足音だった。

 扉の向こうで、足音が止まる。

「夜分に失礼いたします」

 声までもが、名工によって調えられた名琴のように心地よい。

周公瑾しゅうこうきん、拝謁いたします」


 周瑜しゅうゆ

 扉が開かれると同時に、湿った室内の空気が一変した。彼が纏うらんのような香気が、黴の臭いを一瞬で霧散させ、殺風景な執務室を清廉な香閣へと変質させる。

 周瑜は白の喪服を纏っていたが、その清冽せいれつな佇まいは、悲しみさえも一つの完成された芸術に昇華させていた。彼は机の前に進み出ると、流れるような所作でひざまずいた。額を床につけ、最大の敬意を表す。

 その姿はあまりにも美しく、そしてあまりにも残酷であった。


巴丘はきゅうより、急ぎ戻りました」

 周瑜は顔を上げ、孫権を直視した。

「手勢の兵、ならびに糧秣、すべて持参いたしました。これらはすべて、将軍のものです。いかようにお使いください」


 孫権は、喉の奥が焼き切れるような閉塞感を覚えた。

 周瑜の瞳は澄み切っていた。一点の曇りもない。だが、その透明な水晶体の奥に映っているのは、青白い顔をした孫権ではない。彼は、孫権という依り代(よりしろ)を通して、死んだ孫策あにの幻影を見ている。あるいは「孫家」という、彼が人生を賭けて守護すべき「神殿」を見ているに過ぎない。


「公瑾……」

 孫権の声は震えた。

「僕は、兄上ではない。兄上のように、君を使いこなすことなどできない」

 あまりに完璧な忠誠は、受け取る側にとっては暴力となる。自分ごときが、この鋭利な名刀の主になれるはずがない。下手に握れば、自分の手が斬り落とされる。


 周瑜は微塵も揺らがず、駄々をこねる幼児をあやすような、恐ろしく理知的な笑みを浮かべた。

「兄君と将軍は違います。それでよいのです」

 周瑜は静かに言った。

「兄君は、烈火のごとく天下を焼き払うお方でした。ですが、焼き払った後の焦土に、花を植え、実らせるのは、将軍の役目です。……我らは、そのための土となりましょう」


 土。その献身に、孫権は窒息しそうなほどの眩暈めまいを覚えた。

 周瑜が語る「土」は、ただの土壌ではない。そこに含まれる養分があまりに強すぎるため、貧弱な種を植えれば、逆に根が焼けて枯れてしまうような、劇薬を含んだ土壌だ。

 張昭が「檻」であるなら、周瑜は「肥料」であり、眩しすぎる「光」だった。どちらも、孫権という植物を、自分たちの好みの形に剪定しようとする園芸家の傲慢さを隠し持っている。


「……下がってくれ」

 孫権は、絞り出すように言った。「一人にしてほしい」

 周瑜は、一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに表情を消した。

「御意」

 再び完璧な礼をとると、彼は風のように去っていった。


 扉が閉まる。再び、重苦しい静寂と、湿度が戻ってきた。

 孫権は、机の上に突っ伏した。吐き気がした。

 武の孫策、知の周瑜、政の張昭。この天才たちの檻の中で、凡人の自分が生き残る? 不可能だ。骨までしゃぶられて、歴史の掃き溜めに捨てられるのがオチだ。


 孫権は、ふらりと立ち上がった。部屋の隅に、姿見の銅鏡がある。

 ヒビの入った鏡面に、自分の顔が映っていた。断裂した鏡の中の顔は、幽鬼のように青白く、歪んでいた。

 だが、孫権の視線は、ある一点に吸い寄せられた。

 眼だ。自分の眼球。

 それは漢人の黒い瞳ではなかった。かすかに緑がかった、あるいは青みを帯びた、天が混ぜた異物の色をしていた。


 碧眼へきがん

 父にも、母にも、兄にもない、人のことわりから外れた異形の証。

 孫権は、鏡の中の断裂した顔を、一つ一つ繋ぎ合わせるように凝視した。

 兄と似ていないのは、当然だった。そもそも、しゅが違うのだ。


(僕は、虎ではない)

 虎の真似をして吠えても、猫の鳴き声にしかならない。太陽の真似をして輝こうとしても、ボヤ騒ぎを起こすのが関の山だ。


(――虎になれないなら、毒蛇になればいい)

(――太陽になれないなら、すべてを飲み込み、腐らせ、肥やしに変える「沼」になればいい)


 脳髄の中で、何かがパチンと弾ける音がした。それは、少年の殻が割れ、中からドロドロとした成体が這い出してくる孵化ふかの音だった。

 孫権の唇が、ゆっくりと歪んだ。笑みではない。それは、顔面の筋肉を、「君主」という機能に合わせて調整した結果生じた、生理的な痙攣けいれんに近かった。


「……全員、喰らってやる」


 声色が、変わっていた。怯えが消え、代わりに粘着質な湿り気を帯びていた。

「張昭の政治力も、周瑜の軍事力も、豪族たちの兵力も。すべて僕の手足だ。僕に才能がないなら、才能がある奴らを丸呑みにして、僕という怪物を維持するためのかてにすればいい」


 空っぽなら、詰め込めばいいのだ。

 他人の才能、他人の命、他人の人生を。この巨大な胃袋の中に放り込み、消化し、養分に変えてやる。

 兄上、あなたは言った。「賢人を任用し江東を保つのはお前の方が優れている」と。その言葉、呪いとしてではなく、道具として受け取ろう。

 僕は、徹底的に「任用」してやる。彼らが過労で死に絶えるまで、骨の髄まで使い潰してやる。それが、弱者が強者の群れの中で生き残る、唯一の流儀だ。


 孫権は、机の上に置かれていた剣を手に取った。兄・孫策の愛剣「古錠刀こていとう」。

 彼はその刃を抜くことはしなかった。ただ、柄を握り、重く冷たいその感触を掌に馴染ませ、ゆっくりと鞘に押し込んだ。


 カチリ。


 乾いた金属音が、部屋の空気を切断した。その音は、孫策の時代の終わりを告げる断頭台の音であり、同時に、孫権という陰湿で強固な支配体制が動き出した歯車の音でもあった。


 孫権は振り返った。窓の外、東の空が白み始めている。だが、その光は決して明るくない。江東の濃霧を含んだ、灰色で、重苦しい朝の光である。

 その光を受けて、孫権の碧い瞳は、爬虫類のように無機質に輝いていた。


 純朴な青年は、この夜、死んだ。

 ここから始まるのは、英雄譚ではない。ただひたすらに生き残り、守り、そして奪い取る、長い長い生存競争の記録である。

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