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江東の蛇 ――碧眼の独裁者・孫権記――  作者: 武陵隠者
第二章 江東の蛇、あるいは母の教え

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第四節 美しき未亡人の復讐劇

 英雄の死というものは、講談師が語るほど劇的なものではない。それは概ね、呆気なく、汚辱にまみれ、そして滑稽ですらある。特に、強いこうじの毒によって理性が溶け落ち、五臓六腑が弛緩しきった状態での死は、尊厳の欠片もない肉塊の崩壊に過ぎない。


 建安九年(西暦二〇四年)。丹陽たんよう太守・孫翊そんよくの最期は、まさにそのようなものであった。


 その夜、孫翊は機嫌よく酔い痴れていた。彼にとって、酒と暴力は不可分であり、どちらも過剰にむさぼることでしか己の存在を誇示できぬようであった。宴席には、配下の妫覧きらん戴員たいいんが同席していた。彼らの眼窩がんかの奥には、常に主人を値踏みする卑しい光が宿っていた。だが、兄の模造品である孫翊には、獣が危難を察するような鋭敏なひげが欠落していた。


「殿、もう一献」

「おう、よこせ」

 孫翊が杯を仰いだ、その瞬間であった。妫覧が目配せをし、背後に控えていた刺客が動いた。

 鋭利な鉄の板が、孫翊の背から心臓めがけてねじ込まれた。ドスッ、という重い音。肉と骨が物理的に破壊される、生々しい音が響く。


「……あ?」

 孫翊は、間の抜けた声を上げた。なぜ、俺が。俺は小覇王の再来だぞ。こんな酒臭い部屋で、名もなき凶器に命を奪われるはずがない――。そんな困惑を顔に貼り付けたまま、孫翊は口から大量の鮮血を吐いた。未消化の肉と酒が混じった、酸鼻さんびを極める液体が床にぶちまけられる。かつて誇った武威の残り香など、そこには微塵もなかった。

 孫翊は椅子ごと倒れ、数回痙攣(けいれん)し、そして事切れた。その死顔は、勇壮さとは程遠い、ただ事態を理解できずに凍りついた子供のようであった。

                     *


 太守の座を奪った妫覧は、その日のうちに館を占拠した。彼の目的は、死んだ英雄の「所有物」を奪い、その権威を自らの血肉とすること。それこそが、卑小な男の劣等感を埋めるための、最大の儀式であった。


 徐氏じょし。孫翊の妻である。彼女は美しかった。だが、その美しさは春の花のごとき儚いものではない。磨き上げられた黒曜石のような、硬質で、触れれば指が切れそうな冷たい美貌であった。

 妫覧は、夫の喪に服している徐氏の部屋に土足で踏み込んだ。

「奥方。孫翊は死んだ。これからは、私がこの丹陽の主だ。お前の命も一族の運命も、私の胸三寸だとわかっているな」


 徐氏は、喪服のまま顔を上げた。泣いてはいなかった。その瞳は乾いており、妫覧の脂ぎった顔を、まるで這い回る虫でも見るかのように無感情に見つめていた。

「……何の用です」

「妻になれ。俺の女になれば、命だけは助けてやる」


 下劣な要求である。だが、徐氏の胸中では、瞬時に冷徹なはかりが動いていた。拒絶すれば死。受け入れれば生。だが、ただ生きるだけでは、夫を辱められた誇りが許さぬ。夫を殺したこの豚のような男に、相応の報いを与えねば、天のことわりが合わぬ。

 徐氏は、ゆっくりと立ち上がった。そして、毒花が蜜を滲ませるような、妖艶な笑みを浮かべた。

「……承知いたしました。ですが、夫が死んだばかりです。晦日みそかの夜まで、お待ちください。その時には、お望み通りに」


 妫覧は狂喜した。英雄の妻が屈したという陶酔が、彼の理を奪った。

 その背中を見送る徐氏の視線。それはもはや、交尾の後に雄を食い殺すカマキリの、静かで残酷な複眼の輝きであった。

                     *


 晦日の夜。徐氏は湯浴みをし、香を焚き、艶やかな着物を身にまとった。その姿には、どこか死臭が漂っていた。彼女は、夫の元部下であった孫高そんこう傅嬰ふえいを密かに呼び寄せ、その冷徹な決意によって男たちの原始的な暴力を煽り立てた。


 徐氏は二人を密室に隠し、妫覧を招き入れた。

 妫覧の警戒は、女の放つ芳香に溶け、跡形もなく消え失せていた。

「さあ、奥方。寝室へ」

「……ええ。その前に、身を清めてまいりましょう」

 湯気で視界が白く濁る風呂場。無防備な裸体。それが、妫覧が見た最後の光景であった。


「今だ!」

 徐氏の裂帛れっぱくの気合と共に、潜んでいた二人が飛び出した。今度は、妫覧が肉塊になる番であった。剣が振り下ろされる。肉が斬れる音、骨が砕ける音、そして大量の血液が敷石に叩きつけられる不快な音。

 殺害は、執拗に行われた。憎悪の分だけ、刃物は肉体に突き立てられた。徐氏は、返り血を浴びながら、その光景をじっと見つめていた。彼女の白い頬に飛び散った赤い斑点は、どんな化粧よりも鮮やかで、おぞましかった。

                     *


 孫権が到着したのは、全てが終わった後であった。

「……叔弼しゅくひつの仇、討ち取ったり」

 広間の中央、徐氏の足元には二つの無惨な生首が転がっていた。


 孫権は息を呑んだ。着物を血で赤黒く染めた徐氏の瞳には、一種の恍惚すら漂っていた。

(……女とは、ここまで残酷になれるのか)

 彼女は「生存の理」で戦ったのだ。力がないなら、嘘をつき、媚びを売り、相手を油断させ、寝首をかく。それこそが、この泥沼における勝者の戦い方ではないか。


 孫権が声をかけると、彼女の瞳からスッと殺気が消え、深い悲しみの色が戻ってきた。

「権どの……。叔弼さまは、もう帰ってきませぬ」

 彼女はその場に崩れ落ち、初めて声を上げて泣いた。その切り替えの鮮やかさ。鬼女から、儚い未亡人への変貌。孫権は、戦慄した。この涙の温度すら、彼女の計算の内ではないのか。


(英雄は、死ぬ。だが、蛇は生き残る)

 孫権の中で、何かが決定づけられた。弟を死へと追いやったのは、あの妫覧たちの刃ではない。自分が送った、あの「毒の書状」だ。自分の野心が、弟という太陽を陰謀の雲で覆い隠し、死に至らしめたのだ。


(ならば、僕は、輝かない。泥にまみれ、永遠に陰に潜もう)

「……片付けよ」

 孫権は、冷ややかに命じた。

「妫覧と戴員。その血筋のすべてを、江東の泥から掻き消せ。赤子の泣き声ひとつ残すな」

 その命令に、熱い怒りは微塵もなかった。ただ、将来芽吹くかもしれない「災いの種」を、今のうちに腐らせておくための、極めて冷ややかな間引きであった。


 孫権は、泣き続ける徐氏の美しい横顔を見下ろしていた。この凄惨な「美談」さえも、自分を支える肥やしにする。

 窓の外では雷鳴が轟いていた。江東の空気が、さらに重く、湿り気を帯びていく。

 肺いっぱいに吸い込んだ空気は、鉄の味がした。それは、英雄の時代の終焉と、蛇たちが支配する泥仕合の始まりを告げる、錆びついた血の味であった。

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