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江東の蛇 ――碧眼の独裁者・孫権記――  作者: 武陵隠者
第三章「白衣渡江(はくいとうこう) 〜関羽の首〜」

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第一節:病める野獣と慇懃な書生

 漢水の濁流が、樊城の泥壁を容赦なく削り取っていく。


 八月の大雨は猛烈を極め、川から溢れ出した水は数丈の高さとなって野を飲み込んだ。魏の左軍将軍・于禁率いる三万の七軍は、一夜にして泥泥とした水溜りへ沈んだ。降伏の旗を掲げ、泥のなかで命乞いをする于禁らを前に、関羽雲長は高楼の上から冷ややかに見下ろしていた。


 圧倒的な威名。天が己に与えた勝利。


 美髯を撫で上げる彼の瞳に映っていたのは、もはや現実の兵卒や諸侯の動静ではない。天の寵愛を受ける己の武威そのものであった。


 だが、現実はその肥大化した自己愛など配慮してはくれない。即物的な食糧難が、すぐに足元を脅かし始めた。


 降伏した于禁と三万の捕虜。これだけの口減らしを食わせるだけの兵糧が、関羽の軍には根本的に欠けていたのである。関羽にとって彼らは人間ではなく、ただ己の武功を誇るための「生きた誇示物」であったが、誇示物とて飯を食う。


 ここで関羽が取った行動は、あまりにも無神経で即物的な暴挙であった。


 湘水画界の条約をあっさりと反故にし、同盟国である呉の領地・湘関に建つ孫権の米倉を、何の発言も打診もなく手回し良く強奪したのである。


 関羽の兵が孫権の兵糧庫を破り、米袋を担ぎ出していく。南の長江沿岸に立つ見張り台(烽火台)の警備網が、北への兵力転進によって少しずつ手薄になっていることなど、関羽の頭には一粒の塵ほどにも映っていなかった。


 湘関強奪の報が届いた時、陸口の最前線で関羽と対峙していた呉の都督・呂蒙は、病床の中にいた。


「オエッ……ゴホッ、ゴホッ!」


 吐き出された血が、寝台の脇に置かれた盥《たらい》を赤く染める。胸を押さえ、荒い息を吐く呂蒙の顔色は土気色であった。


 だが、見舞いと称して幕舎を訪れた孫権と二人きりになった瞬間、呂蒙は手ぬぐいで口元を拭い、冷ややかな笑みを浮かべた。盥の中の血は鶏の生血であり、顔色も薬草の汁を塗った工作に過ぎない。


「関羽の自尊心は天を突いております。某が病と称して陸口を去り、後任に無名の若者を置けば、奴は必ず油断し、陸口への警戒を解いて前線へ兵を回すでしょう」


「うむ。お前の病いにかかった演技、まさに真に迫っておる」


 孫権は薄く笑い、顎をしゃくった。


「して、後任の都督には誰を据える?」


「……陸遜にございます」


 呂蒙の口から出た名に、孫権は一瞬、碧い目を細めた。


「陸遜……あの江東の書生か」


「はい。謙虚で、礼儀正しく、何より関羽から見れば『ただの無害な置物』に見える男にございます」


 建業の宮廷を騒がせたのは、この後任人事であった。


 陸遜、字は伯言。江東の四姓と呼ばれる最高級の名門・陸氏の出身ではあるが、三十代半ばを過ぎてなお、彼に付いて回る評価は「書物を好むおとなしい書生」であった。


 古参の重臣・張昭らは即座に鼻を鳴らした。


「関羽と対峙する第一線に、あの白面の青二才を置くだと? 武功の『ぶ』の字も知らん読書生に、前線の将卒が従うはずもなかろう」


 重臣たちのその反応こそが、計算通りの第一段階であった。身内すら侮る無名ぶりこそが、関羽を油断させる最高の撒き餌となる。


 陸遜が陸口の陣に着任したとき、前線に漂っていたのは落胆であった。細身の体に上質な衣を纏い、柔和な笑みを絶やさない陸遜の姿は、血煙舞う最前線にはあまりにも不釣り合いに見えた。


 着任早々、陸遜が最初に行ったのは、関羽へ向けての書状の執筆であった。


『関将軍の天下を覆す大功、ただただ平伏して感服仕るのみにございます。小生のごとき若輩が陸口の任に就きましたこと、誠に恐縮の至り。何卒、大国の慈悲をもってご指導賜りたい……』


 書状に並べられたのは、過剰なまでの卑下と、関羽への露骨な礼賛であった。


 その書状を樊城の陣中で読んだ関羽は、破顔大笑した。


「ハハハ! 呂蒙が倒れて誰が来るかと思えば、ただの書生ではないか! 孫権も人材に困り果てたと見える」


 関羽の脳内で、陸遜という男は「自分を崇拝する無害な置物」として分類された。


「陸口の青二才が怯えきっておるならば、背後を恐れる必要などどこにもない。監視兵をすべて引き抜き、樊城へ回せ!」


 関羽は笑いながら、兵力配置図から烽火台の目印を一つ、指先で無造作にはじき飛ばした。己の武威に対する絶対の過信が、自らの首を絞める縄となることに気づく様子はない。


 その頃、陸口の幕舎で一人、関羽からの返書を読んだ陸遜の指先は、微かに震えていた。


 口元にはかすかな笑みを浮かべていたが、その背中を伝っていたのは、冷や汗の滲むような本物の「恐怖」であった。


(関羽に万一にも見破られれば、私はその場で叩き潰される……)


 関羽は本物の怪物だ。ひとたび疑念を抱かれれば、呉の計画も、己の身も瞬時に叩き割られる。都督の座など、ただの仮面に過ぎない。一歩間違えれば、その面ごと頭骨を粉砕されるのだ。


 だが、陸遜はその生々しい恐怖を胸の底に押し込めると、静かに書状を燭台の炎にくべた。


 紙くずが黒い灰となって散っていく。


 病を装い闇に潜んだ呂蒙。


 恐怖に震えながらも、謙虚な仮面を被って自らを囮とした陸遜。


 そして、それらを冷徹に配置した主君・孫権。


 暗い情念と殺意の網が、背後から静かに関羽の首へと迫っていた。

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