第二節:白衣渡江 〜長江を渡る泥棒たち
長江の水面を滑る無数の船影があった。
赤壁の戦いにおいて周瑜が指揮した絢爛たる楼船の群れでもなければ、大風を孕んで敵陣へ突撃した火船の勇姿でもない。
そこに浮かんでいたのは、ごくありふれた、どこか饐えた臭いの漂う中型の商船隊であった。
船上に立つ男たちは、甲冑すら着けていない。彼らが纏っていたのは「白衣」――すなわち、粗悪な麻で織られた、素朴を通り越してどこか薄汚れた商人の日常着であった。
「頭を下げろ。息を殺せ」
船底の暗がりで、呉の精鋭兵たちは膝を抱えて丸くなっていた。
身にまとった麻布には、前の船主が運んでいたであろう干し魚の生臭さと、船乗りの染みついた汗の臭いが泥のようにこびりついている。手に握りしめているのは、磨き抜かれた槍や刃ではなく、布で厳重に巻かれて金属音を殺した短刀と暗殺用の縄であった。
かつて天下の命運をかけて魏の大軍と真っ向から激突した呉の水軍。その精鋭たちが今やっていることといえば、決戦などではなく、他人の家の鍵をこじ開けて土足で侵入する空き巣の手続きそのものであった。
都督・呂蒙は、粗末な商人服の袖で口元を覆いながら、冷ややかな眼差しで長江の上流を見つめていた。
病を装って建業へ退き、関羽の警戒を完全に解いた。白面の書生・陸遜が送った卑屈極まりない書状は、関羽の肥大化した自尊心を存分に満たし、荊州の警備兵を根こそぎ北へ引き抜かせた。
計算は完璧に噛み合い、盤上には巨大な隙が生まれた。あとは、その隙間へ滑り込み、泥棒のごとく荷物をかき払うだけである。
「武勇などというものは、後世の愚者が史書を飾るために捏造する幻影に過ぎん」
呂蒙の脳裏にあったのは、正々堂々とした決戦の快感などではない。いかに自軍の血を流さずに、関羽の足元を掬いあげるかという即物的な計算だけであった。
華々しい旗印もなければ、士気を鼓舞する太鼓の音もない。
ただ、川の湿った風と、湿気を含んだ木胴が擦れ合うキシキシという嫌な音だけが響いている。長江を上る白衣の船団は、英雄の遠征などでは断じてなかった。深夜、足音を殺して裏口から忍び寄る盗賊の行進であり、その不気味な静寂の先に、何も知らぬ関羽の防衛網がただ惰性で佇んでいたのである。
長江の沿岸には、関羽が張り巡らせた見張り台(烽火台)が等間隔にそびえ立っていた。
本来ならば、異変を察知した瞬間に薪へ火が放たれ、一筋の黒煙が天を突くはずであった。その狼煙は次の烽火台へと連鎖し、江陵の城郭へ、そして北方で指揮を執る関羽のもとへと敵襲の報を届ける。
だが、見張りの兵力は北方の前線へあらかた引き抜かれ、残された僅かな兵の腰つきも緩みきっていた。「呉の奴らは怯えきっている」という慢心が、川風のように彼らの警戒心を吹き散らしていたのである。
夜陰に乗じ、複数の船団に分かれた商船が、手分けしてそれぞれの烽火台の置かれた川岸へとしずしずと接岸した。
「おい、こんな夜更けに何者だ」
見張り台の上から、関羽軍の兵士が退屈そうに声を張り上げる。
船から降りてきたのは、薄汚れた白衣を纏った小太りの男たちであった。顔に笑みを張り付け、揉み手をしながら歩み寄ってくる。
「へへい、陸口から江陵へ向かう途中の商人でございます。今夜は風が悪く、少々休ませていただきたく……お役人様、夜警もお寒かろうと、温かい酒と豚の塩漬け肉を持ってまいりました」
差し出された壺から漂うのは、安物ではあるが芳醇な酒の香りと、脂の乗った肉の匂い。
長江の湿った寒風に晒されていた見張りの兵たちは、たちまち唾を飲み込んだ。日常的に往来する商船の扱いに慣れきっていた兵士たちは、何の疑いもなく槍を壁に立てかけた。
「ふん、物分かりの良い商人だ。どれ、一口寄こせ」
兵士たちが壺へ手を出した瞬間であった。
ニコニコと揉み手をしていた商人の目が、一瞬にして冷酷な肉食獣のそれに変わる。
「ガッ……!」
刃が肉を割く生々しい音が、夜の静寂に短く響いた。
白衣の懐から滑り出た短刀が、酒を飲もうと喉を反らせた見張り兵の首筋深くへと突き立てられたのである。血が吹き出し、酒壺の割れる音がした。悲鳴を上げる間すらない。一人の首が掻き切られると同時に、船底から跳び出してきた呉の精鋭たちが、クモの子を散らすように烽火台へ群がった。
薪の山に火を点けようと手を伸ばした若い兵の背中へ、短刀が深々と突き刺さる。刃先が骨に当たる硬い感触とともに、男は生乾きの泥の上に顔面から崩れ落ちた。
「煙を上げるな。薪を川へ投げ捨てろ」
指揮執る呉の将の低い命に従い、兵たちは血の付いた暗殺用の縄を踏み越えて、濡れた薪を黙々と長江の濁流へと放り込んでいく。見張り兵たちの死体には脚に石が縛り付けられ、ドブンと嫌な音を立てて水底へと沈められた。水面に浮かんだ血の泡も、瞬く間に川の流れに呑み込まれて消えていく。
一筋の煙も上がらぬまま、ひとつの烽火台が沈黙した。
そしてその一刻後には、隣の烽火台も、さらにその先の烽火台も、同じように酒と短刀と泥の手口によって、音もなく闇の中へ呑み込まれていったのである。
公安城の執務室で、将軍・士仁は冷や汗を流しながら竹簡を凝視していた。
前線から届いていたのは、関羽からの苛烈な書状であった。
『前線の兵に一粒の米も欠かせるな。遅延は万死に値する』
兵士を飢えさせまいとする全軍の将としての責任感と、期日に遅れた者を容赦なく踏みつぶす酷薄さ。関羽という男の美点と傲慢さは常に表裏一体であり、だからこそ身内にとってこれほど恐ろしい存在はなかった。
「関羽が勝てば、私は殺される……」
恐怖と怨嗟が、士仁の胸の内で嫌な泥のように煮詰まっていた。
そこへ、静かに部屋の扉を開けて入ってきた男があった。呉の使者・虞翻である。甲冑すら着けず、薄笑いを浮かべたこの道士上がりの男は、卓上に冷徹な事実を並べてみせた。
「士仁将軍、無駄な抵抗はおやめなされ。長江沿いの烽火台はすべて我が軍が押さえた。一筋の煙も上がらぬまま、あなた方の背後はすでに遮断されております。関羽殿のもとへ戻って首を刎ねられるか。それとも我が主・孫権に城を差し出し、富貴と命を全うするか」
虞翻の声には、武人の威圧などなかった。ただ、市場で豚肉の目方を測るような無機質な響きがあった。
士仁は震える手で竹簡を伏せた。劉備の顔を思い浮かべたのは、一度だけだった。
だが、その温和な主君の顔よりも、次に戻れば自分の首を刎ねるであろう関羽の冷酷な眼差しが、あまりにも鮮烈に脳裏を焼き切っていた。
「……城を開けよう」
士仁の口から漏れたのは、死への恐怖から解放された安堵の吐息であった。
弓を一矢も放つことなく公安城の重い木門が開かれると、寝返った士仁は、己の選択を正当化するための道連れを求め、次なる標的である江陵の糜芳のもとへと急いだ。
江陵城の執務室で、南郡太守・糜芳は暗がりの中に一人たたずんでいた。
彼はただの臣下ではない。徐州の昔から巨万の財を投じて劉備を支え抜き、妹を正妻として差し出した、漢中王・劉備の「義弟」である。だが、その輝かしい誇りも、今の彼にとっては死神の刻印に過ぎなかった。
城内での軍資の火災、そして補給の遅れ。関羽から届いた書簡には、酷薄な二行が記されていた。
『還りてまさにこれを治むべし』
戻ったら処罰する――その墨跡を見るたび、糜芳の胃の腑はキュッと縮み上がった。あの関羽のことだ。劉備の義弟だろうが何だろうが、自分の敷いた軍律を乱した者は容赦なく首を跳ねるに決まっている。
そこへ駆け込んできた士仁は、なりふり構わず捲し立てた。
「糜芳殿! 公安は呉に下った。関羽のもとへ戻れば我らは処刑だ! だが呉へ城を渡せば、一族の命も財産もすべて保障される!」
さらに呉の都督・呂蒙から差し出された誓約書が卓上に広げられた。
糜芳は震える指先で、そこに記された「旧位を改めず、財産を保全す」という八文字を、何度も、何度もなぞった。
命だけではない。長年かけて積み上げてきたこの富も、地位も、まだ失わずに済む――。
そう思い込もうとするたび、かつて全財産を賭けて仕えた義兄・劉備の顔が脳裏をかすめる。劉備を裏切るという罪悪感と、関羽に殺される恐怖。そして何より、手に入れた富貴を手放したくないという激しい執着が、糜芳の胸の中で泥泥と渦巻いていた。
「……関羽が悪いのだ。あの男が私を追い詰めたのだ……」
糜芳は自分にそう言い聞かせ、己を欺くように誓約書を強く握りしめた。
大手門が重々しく開かれ、白衣を脱ぎ捨てて甲冑を纏った呂蒙の兵たちが、粛々と江陵城へと足を踏み入れていく。一滴の血も流されず、一筋の煙も上がらず、荊州の巨大な本拠地は接収された。
矢倉の影からその光景を見下ろしながら、糜芳は顔を覆った。劉備の義弟という身内でありながら、関羽への恐怖と保身ゆえに城を敵へ差し出す――それは凄惨な合戦よりもなお虚しく、哀れな自壊劇であった。
北方で関羽が勝利を夢見ている間に、南では門が開かれていた。
兵に破られたのではない。彼が日々身内に吐きつけていた恐怖の言葉が、ひとつずつ城門の閂を外していたのである。




