↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
江東の蛇 ――碧眼の独裁者・孫権記――  作者: 武陵隠者
第二章:荊州の霧、兄妹の断絶

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
33/35

第四節:棄てられた妹と「不感症の宮廷」

 建業の宮廷にたどり着いた孫夫人の姿は、惨憺《さんたん》たるものであった。


 周善の返り血が不快な黒い染みとなって乾ききった衣を纏い、髪は長江の湿気と雨で泥のように乱れている。両腕は、奪われた阿斗の形に空洞を抱えたまま、力なく垂れ下がっていた。

 どれほど日が経とうと、腕の中から力任せに引き剥がされたあの小さな背中の丸みと、柔らかい体温の記憶だけは、両腕の皮膚にぬっとりとへばりついて離れなかった。


 彼女を待っていたのは、無事を喜ぶ温かい肉親の抱擁でもなければ、強奪に失敗したことへの怒声すらもなかった。

 ただ、しんと静まり返った広間の奥、塗机に向かって淡々と墨を磨る兄・孫権の姿があるだけであった。


「……戻ったか」


 孫権は筆を置かず、帳面から目を離そうともしなかった。その声には苛立ちもなければ、労いもない。ただ予定通りの事務処理が一つ完了したかのような、乾ききった低音であった。


「阿斗は……趙雲らに奪われました。周善も首を跳ねられ……」


 孫夫人は伏し目がちに、掠れた声で報告した。己の失態を責め立てられる覚悟はできていた。いっそ激昂され、罵倒された方が救われたかもしれない。

 だが、孫権がゆっくりと顔を上げたとき、その碧い瞳に宿っていたものを見て、彼女の全身の血は一瞬で引き引いた。


 そこにあったのは、激怒ではない。

 部屋の隅に転がる古道具を眺めるような、透き通った無関心があるだけであった。

 己の妹すらも使い捨ての道具として磨り減らし、その屍を踏み台にして「君主」という孤独な絶対者へと脱皮を遂げた、冷酷な眼光。阿斗という質草を持ち帰り損ねた妹は、もはや外交の舞台で役に立つ「政治の尖兵」ではない。劉備との絆を自ら叩き割り、手ぶらで転がり込んできた「扱いに困る無用物」に過ぎなかったのである。


「周善の死は惜しいが……まあよい。お前が手ぶらで帰ったところで、いまさら劉備とやり直す目もあるまい」


 孫権は淡々と呟き、筆の先を整えた。


「母上には、お前の顔を見せておけ。……だが、今後は宮廷の表へ出る必要はない。奥の離宮へ移れ。要らぬ噂が立つのは好まん」


「……兄上。私は……」


 孫夫人は言葉を詰まらせた。自分の命を賭した逃避行も、阿斗を抱きしめた時の凄惨な執着も、この男の脳内においては「失敗に終わった一つの作戦案」として分類され、反古にするかのごとく破棄されたのだ。

 兄妹の絆など、赤壁の昔から存在しなかった。あるのは利益を生むか否かという、冷酷な損益計算のみ。


「下がれ」


 孫権は再び帳面に視線を落とし、カリカリと墨を走らせ始めた。

 存在そのものを「不要品」として棚上げされた孫夫人は、冷え切った床の上でただ深く頭を下げ、言葉もなく離宮へと去るしかなかったのである。


 建業の奥深くに置かれた離宮は、長江から吹き寄せる湿気で不気味に沈んでいた。

 周囲を巡る塀は高く、庭に生い茂る竹林は昼なお暗い。孫夫人に与えられたのは、実質的な幽閉の部屋であった。かつて公安の館で彼女の意のままに動き、刀剣を打ち鳴らして劉備を恐れさせた百あまりの武装侍婢たちは、呉へ戻るなり即座に解体され、どこかへ配転されていた。


 いま彼女の身の回りにいるのは、孫権の密偵を兼ねた数人の老婆と、冷淡な目つきの給仕だけであった。


「……見たかい、あの顔。手ぶらで戻ってきて、離宮にしがみついているよ」

「劉備の古女房さ。兄上の足を引っ張るしか能がなかったのだから、当然の扱いさね」


 廊下の向こうから聞こえる侍女たちのひそひそ話には、かつて「主上の妹君」に向けられていた畏怖など欠片もない。あったのは、期限の切れた道具、失敗した政治工作の残骸に対する即物的な嘲笑と蔑視だけであった。


 だが、その中でひとり、若い給仕の女だけが伏し目がちに立ち尽くしていた。

 女は廊下の雑巾を固く絞りながら、暗がりに座す孫夫人の痩せこけた横顔を、痛ましげに盗み見る。声をかければ己の身が危ういことを知っているからこそ、その唇を噛み締め、何ひとつ言えぬまま静かに通り過ぎていく。

 人の情が存在しないわけではない。ただ、そのかすかな同情すらも、政治という巨大な構造の前では何の意味もなさず、押し黙るしかないのだ。その沈黙こそが、この宮廷の真の冷酷さであった。


 孫夫人は部屋の奥、重苦しい湿気が淀む暗がりに座り込んでいた。

 畳んだ膝の上に置かれているのは、かつて彼女が最も愛用し、片時も手放さなかった一振りの短剣である。


 研ぎ石を手に、彼女は無心で刃を擦り合わせた。シュッ、シュッ、という規則的な金属音が、薄暗い部屋に響き渡る。


 かつてこの刃は、彼女の誇りであり、男たちの政治に抗うための唯一の鎧であった。しかし、いくら砥石を滑らせても、鋼の表面からは鈍い赤錆が次々と浮き上がってくる。長江の湿気だけが原因ではない。磨いても磨いても、刃の奥から腐蝕の斑点が這い出してきた。


「……消えぬ」


 孫夫人は掠れた声で呟いた。

 周善の生首から飛んだ血の匂い、阿斗を引き剥がされたときのぬくもりの残像、そして兄・孫権のあの紙くずを見るような冷たい目。それらがすべて、赤錆の形をとって刃にこびりつき、侵食していくようであった。


 かつて公安で刀剣を鳴らしていた頃の自分は、いったい何だったのか。

 将軍の妹として勇ましく舞っていたつもりだったが、最初から自分は兄の打った碁石に過ぎず、使い物にならなくなれば暗い箱の中に放り投げられる運命だったのだ。


 孫夫人は指先が真っ赤な錆粉で汚れるのも構わず、ただガチガチと歯を鳴らしながら、虚無のなかで刃を擦り続けるのであった。


 離宮の奥深くで一人の女性の精神が腐蝕し、生ける屍へと変わっていこうとも、呉の宮廷は微風ひとつ立たない不感症を貫いていた。


 孫権の執務室には、老臣・張昭をはじめとする重臣たちが集い、政務の報告を行っていた。


「……先の周善の件、外交上の名分は『孫夫人が老母の病舞いに帰国した』ことで処理を完了いたしました。劉備側も蜀攻略の途上にあり、事態を荒立てる気配はございません」


 張昭の報告には、無駄な感情の揺れはなかった。だが、それは周善の死を軽んじているからではない。国家を維持し、主君の威信を守るためには、個人の死や情義を飲み込んで決算帳を締めなければならない——その責務を負う老臣としての、厳格で事務的な冷徹さであった。


「うむ。よかろう」


 孫権は短く応じ、青白い手で竹簡を丸めた。

 誰もがそれぞれの理屈と役割に従い、国家という巨大な構造を動かしている。その噛み合わさった歯車の間で、一人の女の存在など跡形もなく磨り潰されていくのだ。


 それから、彼女がいつまで生きたのかを正確に知る者は誰もいない。


 歴史という膨大な記録の織物から、孫夫人という一人の女の糸は、この長江の奪い合いと離宮への隔離を境界線として、前触れもなくプツリと断ち切られている。

 後世の『三国志』を著した陳寿も、その注を施した裴松之も、彼女の没年はおろか、本名すら書き記そうとはしなかった。病で死んだのか、自ら命を絶ったのか、あるいは静かに老いて爛れた肉体を長江に捨てたのか。史書はただ、冷酷なまでに沈黙を守り続けている。


 だが、その沈黙の理由は至極単純なものであった。

 彼女が死んだから記録が途絶えたのではない。孫権と呉の宮廷にとって、彼女という存在が「最初から存在しなかったこと」に処理されたからに他ならない。


 かつて荊州という政治の最前線で、百の刀剣を鳴らし、老いた劉備を凍りつかせた「将軍の妹」。阿斗を奪って長江を疾走したあの日の苛烈さ。それらの役割をすべて剥ぎ取られた瞬間、彼女の存在は外交帳簿の上の誤筆のごとく、硯の深墨で跡形もなく塗り潰されたのだ。


 離宮の薄暗い一室には、絶えず長江の重苦しい水音が届いていた。

 ゴォオオ、と湿った風が竹林を揺らし、部屋の木隙から雨の匂いを運び込んでくる。


 孫夫人は、床の上にぽつんと座し続けていた。

 その膝の上には、もはや研ぐことも口にされることもなくなった一振りの短剣が転がっている。刃の表面は完全に朱色の赤錆で覆われ、かつて冷たい光を放っていた鋼の肌は、カサカサとした不気味な酸化物の皮膜で厚く塗れつぶされていた。


 もはや、彼女は涙を流すことすら忘れていた。

 怒りも、絶望も、兄への怨嗟すらも、この湿った空気のなかで均一に薄められ、消滅していた。自分がかつて人間であったのか、それとも最初から兄・孫権の指先で踊らされるだけの木偶人形であったのかすら、判別がつかなくなっていた。


 かつて公安の館で繰り広げられた、愛のない冷ややかな夫婦の寝所。

 長江の濁流のうえで、生首の血を浴びながら阿斗の柔らかい肉を貪欲に引き寄せた、あの凄惨な執着。


 それらすべてが、遠い昔に誰かが捏造した滑稽な戯言のように思えてくる。


「……誰も、来ぬな」


 孫夫人は掠れた声で呟き、赤錆の塊と化した短剣を、己の細い指でそっと撫でた。

 錆の粉がパラパラと落ち、爪の間に黒く詰まる。だが、その痛みにすら彼女の神経は反応を示さなかった。


 窓の向こう、長江の川面はどこまでも黄色く濁り、東の海に向かって重々しく流れ続けている。その川の流れと同じように、呉という国家の権威と孫権の野望もまた、巨大な質量をもって進み続けていた。妹の人生ひとつを泥底に沈め、その滑らかな水面には波紋すら残さずに。


 国家という巨大な構造の胎内に呑み込まれ、存在そのものを歴史の闇へと抹消された女。


 孫夫人はただ、静かに目を閉じた。

 彼女を覆う暗闇は、やがて来る呉の興亡も、劉備の死も、時代の変遷もすべてを呑み込み、不気味な静寂のなかで深く、深く沈降していくだけであった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。