第三節:截江奪阿斗 〜長江の泥試合〜
長江の濁流は、黄色く濁った大量の泥と泡を巻き込みながら、重々しく東へとのたうち回っていた。
叩きつけるような雨が川面を荒々しく打ち、視界を白い煙のように遮っている。
その泥水の上を、五十隻からなる呉の船団が、まるで獲物を咥え込んだ水蛇群のごとく滑るように下っていた。旗艦の船尾に佇む周善は、雨に濡れた髭を拭いもせず、時折後方を振り返っては浅い呼吸を繰り返している。
その船室の奥には、泣き疲れて引きつった呼吸を繰り返す幼子・阿斗と、それを骨の折れるような強さで抱きかかえる孫夫人が潜んでいるはずであった。
計画は完璧に進んでいる。はずであった。
だが、周善の喉の奥を突く嫌な予感は、荒れ狂う川面の向こうから急速に現実の形をとって迫ってきた。
「舟だ! 後方から小舟が追いかけて参ります!」
見張りの兵が叫んだ瞬間、周善は思わず舌を打ち、手摺りに身を乗り出した。
白い霧と雨の幕を切り裂いて迫ってくるのは、わずか数人の兵が必死に櫂を漕ぐ一隻の快速舟であった。船首に仁王立ちしているのは、銀の甲冑に雨を弾かせ、眉間をしわくちゃに寄せて凄まじい相貌となった男——趙雲子龍である。
華々しい英雄の凱歌などでは断じてない。
水飛沫と泥を全身に浴び、びしょ濡れになった男たちが、ただ泥臭い執念だけで長江の濁流を強引に削り取ってくる、惨めなまでに必死な追撃戦であった。
「射て! 近づけるな! 射ち殺せ!」
周善の金切り声とともに、呉の船上から一斉に矢が放たれた。雨粒を突いて飛ぶ黒い矢の群れ。
しかし、趙雲は動じない。手に持った長槍を風車のごとく旋回させると、キンキンと高い金属音を響かせて矢を叩き落とし、さらに距離を詰めていく。その瞳に宿っているのは、主君・劉備の血統という「かけがえのない質草」を泥棒に持ち逃げされかけた者の、冷徹なまでの焦燥と執着であった。
「止まれ! 我が主母の御船なるぞ! 無礼者に与える言葉などない!」
周善が叫び散らすが、趙雲の乗る小舟は、ついに周善の旗艦の船腹へと激しくぶつかった。ドスンという鈍い衝撃音が、波音を突き破って響き渡る。
船体が激しく揺れ、呉の兵たちが足元をすくわれる隙を突き、趙雲は濡れた甲板の上へと躍り出た。
「……阿斗様を、お返しいただく」
槍の穂先から滴る雨水が、甲板の汚れを白く洗っていく。
そこにあるのは、後世の講談が好むような爽快な活劇の空気などではなかった。濁流の上に浮かぶ狭い木板の上で、泥と雨に濡れた男たちが、互いの喉首を噛みちぎらんばかりに睨み合う、粘着質で気味の悪い「人質の強奪戦」の始まりに過ぎなかった。
跳ね上がる水飛沫と打ちつける雨の中、甲板に降り立った趙雲は、ゆっくりと槍の穂先を下げた。
刃こそ向けぬものの、その全身から立ち登る殺気は、呉の兵たちの足をすくませるには十分すぎた。船室の奥から、腕の中に引きつる阿斗を骨が折れんばかりに押し抱いた孫夫人が、取り巻きの侍婢たちを従えて姿を現す。
「無礼者め! 主母たる私に向かって兵を向けるか、趙雲!」
甲板に甲高い声が響き渡った。孫夫人は眉を逆立て、かつて公安の館で老夫・劉備を威圧した「将軍の妹」としての威風を全身から発散させようと試みた。濡れた髪が頬にこびりつき、肩を激しく上下させながら、彼女は趙雲を射殺さんばかりに睨みつける。
「私は母上の危篤を聞き、実家へ帰るのだ! 我が夫の連子である阿斗を連れて里帰りして何が悪い! 将軍の分際で、この私を遮る気か!」
彼女の放つ言葉は、建前と怒声で塗り固められていた。だが、その叫びの裏に透けて見えるのは、この最後の命綱を奪われまいとする凄惨なまでの焦躁であった。
対する趙雲は、膝を折って拝手しながらも、その瞳にはひんやりとした無感情な色しか浮かべていなかった。
「……主母様が呉へお帰りになられること、臣たる趙雲が引き留める筋合いはございませぬ」
趙雲の声は波音にかき消されそうなほど淡々としていた。
「しかしながら、阿斗様は我が主君・左将軍の唯一の血嗣。主君のお許しもなきまま、他国へ連れ去ることは断じて許されませぬ。阿斗様をこちらへお渡しくだされ。さすれば、主母様のご道中は一切お邪魔いたしません」
「ふざけるな!」
孫夫人は甲高い悲鳴のような怒声を上げ、抱きかかえた阿斗の体をさらに強く引き寄せた。あまりの力に幼子は「ギャア」と甲高い悲鳴を上げ、細い身を大きくよじる。
「阿斗は私の息子だ! 連れて行って何が悪い! お前ごとき一介の武卒が、この私に命令する気か!」
「主母様」
趙雲の静かな声が、彼女の金切り声を打ち消した。
その目には、正妻に対する敬意も、孫家の威光に対する恐れもなかった。ただ、阿斗だけを見ていた。
孫夫人は慄然とした。
目の前の男は、自分を「主母」としても「将軍の妹」としても見ていない。自分など端から目に入っておらず、ただ阿斗という存在だけを凝視している。
自分がこれまで盾にしてきた「主母」という威厳も、「孫権の妹」というプライドも、長江の泥水の上では一文の価値もない。自分が繰り出す怒号が、虚空を滑っていく滑稽な空騒ぎに過ぎないことを悟った瞬間、孫夫人の背中に嫌な汗が吹き出した。
「お渡しくだされ」
趙雲が一歩、踏み出す。その圧迫感の前に、孫夫人は自慢の長刀を抜くことすら忘れ、ただ息を呑んで後ずさりするしかなかった。
押し問答という名の薄っぺらな皮肉が、長江の湿った風のなかで引き延ばされていた、まさにその時である。
ドオォン、と腹の底を揺さぶる凄まじい衝撃が呉の旗艦を襲った。
舷側が砕け散る乾いた木槌の音が弾け、船体が大きく傾く。水飛沫を叩き割って横付けされたのは、黒々と濡れそぼった一隻の大型軍船であった。呉の兵たちが悲鳴を上げて足元をすくわれる隙を突いて、その大船の船首から、一団の影が甲板へと雪崩れ込んできた。
先頭に立つのは、黒漆の如き巨躯を揺らす男——張飛益徳であった。
顎鬚を狂ったように跳ね上げ、爛爛と見開かれた眼球は赤く血走っている。そこには政治的な駆け引きも、外交的な配慮も存在しなかった。あるのは、ただ縄張りを荒らされた野獣の猛悪な怒りだけであった。
「退けぇいっ!」
落雷のごとき咆哮が長江の川面を震わせた。その音圧だけで、孫夫人の脇を固めていた刀手たちが思わず耳を塞いで退み込む。
周善が慌てて剣を抜き、「ここをどこと心得る! 我らは東呉の——」と叫びかけた、その刹那であった。
一閃。
張飛の手から繰り出された長矛の刃が、周善の首筋を易々と薙ぎ払った。周善の身体がぐらりと揺れ、次の瞬間、首筋から噴き出した血が叩きつける雨を赤く染めた。一瞬にして孫夫人の白皙の顔と、彼女の胸の中で狂乱する阿斗の衣服がべったりと汚れる。
「ひっ……!」
孫夫人の口から、情けない引きつった悲鳴が漏れた。
顔に付着した血は生温かく、生臭い鉄の匂いが鼻腔を激しく突く。周善の胴体がどさりと甲板に倒れ、溢れ出る血が濡れた木目を黒々と染めていく。
「おい、呉の女」
張飛は血を滴らせる長矛の穂先をぬぐいもせず、ズシリと一歩踏み出してきた。その巨体が投じる影が、孫夫人を完全に覆い尽くす。
「俺の兄者のガキを、どこへ持ち逃げしようってんだあ? ああ?」
野獣の吐息が直に顔へ吹きかかる。孫夫人は歯をガチガチと鳴らし、身をすくませた。周善の死とこの男の狂暴な威圧の前に、かつての威風など砂の城のごとく崩れ去っていた。
「か、返さぬ! この子は……この子は私の……!」
なおも自らの身を守る術に縋りつこうと、孫夫人は骨が軋むほど阿斗を強く抱きしめた。
その時であった。
腕の中で失神しかけていた幼子が、血の匂いと大人たちの怒号に狂わされ、火がついたような悲鳴を上げて暴れた。爪が孫夫人の首筋をひっかく。
「……あ」
痛みに顔を歪めた孫夫人は、ふと、腕の中の小さな頭に目を落とした。
柔らかく細い髪。必死に息を吐き出す幼い胸の上下。そこにあるのは政治的な質草でも、命綱でもない。ただの、怯えきった幼子の命そのものであった。ほんの一瞬、彼女の腕の力が緩んだ。
「怖いのね……」
その呟きは、雨の音と波音にかき消されそうなほど小さかった。孫家も、劉備も、江東の誇りも含まれない、ただの一人の女の声であった。
「うるせえ!」
直後、張飛の太い丸太のような腕が伸ばされ、孫夫人の肩を力任せに突き飛ばした。
「きゃあっ!」
甲板に無惨に転がる孫夫人。その腕からひき剥がされた阿斗は、空中に放り出されそうになりながらも、素早く割り込んだ趙雲の腕の中へと回収された。
「ギャアアアッ! ギャアアアッ!」
阿斗の泣き声が甲板に響き渡る。
趙雲は阿斗をしっかりと抱き抱えると、服の血汚れを拭うこともなく、そのまま自船へと飛び移るために背を向けた。そして、ただ一度だけ孫夫人を振り返った。
その目には、何の感情もなかった。
「阿斗様は確かに受け取りました。……では、嫂殿。どうぞお気をつけて東呉へお帰りくだされ」
趙雲の冷ややかな一言が、雨の音に混じって甲板に落ちた。横付けされていた大船が離れていくと、長江の黄土色の濁流が二つの船の間を速やかに切り裂き、黒い水面が広がっていく。
呉の船上には、突如として不気味な静寂が降り積もった。
打ちつける雨が、甲板にこびりついた周善の血を薄め、ピンク色の液体となって排水口から長江へと流れ落ちていく。
孫夫人は、濡れた木板の上に膝をついたまま動けずにいた。
腕の中は、ぽっかりと空っぽであった。
さっきまで感じていた阿斗の熱い体温も、衣服にしがみついていた小さな指の力も、腕の中に残っていた確かな重みも、すべてが幻のように消え去っていた。
失われたのは、己の身を守る質草だけではなかった。あんなにも狂おしく縋りつき、土壇場で愛おしさを覚えてしまったあの小さな命の温もりそのものが、ごっそりと腕の隙間から擦り抜け、冷たい濁流の中へと奪われていた。
「……ああ」
彼女の口から、掠れた吐息が漏れた。
阿斗が消えた。その瞬間、己を支えていた基盤のすべてが、音を立てて崩れ落ちていく感覚に襲われた。
自分は「質草」を携えた外交的切札などではない。劉備との絆を自ら叩き割り、手ぶらで転がり込んでくる「ただの厄介な不要品」へと成り下がったのだ。兄・孫権の碧い瞳が、呉の宮廷でどのように自分を迎えるか。あの男は、人を見るときでさえ情ではなく損得しか測らない。妹ではなく「失敗した駒」として冷たく処理される未来を想像しただけで、全身の血が凍りつくような恐怖が足元から這い上がってきた。
「姫様……お立ちください、姫様……」
生き残った呉の兵や侍女たちが、怯えきった顔で恐る恐る近寄ってくる。だが、彼らの目にもまた、かつて「主上の妹君」に向けられていた敬意はなく、不吉な荷物を抱え込んでしまったような引きつった嫌悪が滲んでいた。
長江の深い川霧が、呉の船団を静かに包み込んでいく。
舵を失い、船首を失った旗艦は、不気味な静寂とともに東へ、東へとなすがままに流されていく。
かつて刀剣を鳴らし、男たちを威圧していた烈女の面影は、そこにはもうなかった。孫夫人はただ濡れた己の両腕を力なく抱きしめ、底なしの恐怖と長江の深霧のなかで、震え続けることしかできなかったのである。




