第二節:召還命令と「阿斗強奪」の陰謀
建安十六年、長江の上流から届いた報せは、京口の宮廷に燻っていた老政治家どもの嗅覚を猛烈に刺激した。
流浪の老狐・劉備が、蜀の劉璋に招かれて益州へと全軍を傾けて出陣したというのである。
荊州に残されたのは、留守居役の諸葛亮と関羽、そして数ばかりで身動きの取れぬ幾ばくかの兵卒のみ。まさに、手薄極まりない「空白」がそこにぽっかりと生じていた。腐肉の匂いをいち早く察知したハエのように、呉の重臣たちは目ざとく群がり、唾を呑み込んだ。
「主上、今こそ好機にございます」
口火を切ったのは、白髪を蓄えた老臣・張昭であった。その皺だらけの顔には、長年溜め込んできた劉備への不快感が隠しようもなく浮かんでいる。
「劉備が留守の今、かの地に留まっている姫君(孫夫人)を召還すべきです。もとよりあの婚姻は同盟の擬装に過ぎぬもの。劉備が蜀を呑もうとしている今、我らが妹君を預けたままにしておく理由など毛頭ございません。手切れの引き金を引くのは、今この瞬間にほかなりませぬ」
張昭の言に、他の高官たちも頷き合う。彼らにとって孫夫人は、必要に応じて貸し出し、期限が来れば回収する「貸与品」と同義であった。
だが、長机の奥に座す孫権の碧い瞳は、老臣たちの浅薄な計算などを遥かに超えた、さらに即物的な利害を弾き出していた。
孫権は、顎髭を静かに撫でながら、冷ややかな声で呟いた。
「ただ妹を連れ戻すだけでは、帳尻が合わぬではないか、子布(張昭)よ」
「……と、申しますと?」
「我が妹は、劉備という老狐の牽制装置として差し出したのだ。単に手ぶらで帰してしまっては、我が呉がこれまで被ってきた損害——荊州を貸与し、無償で猶予を与えてやった不利益の補填にならん」
孫権の視線は、地図の上の「公安」という一点に冷たく注がれていた。そこには、留守を預かる劉備の幼い跡継ぎ——阿斗(劉禅)が転がっているはずであった。
「……阿斗を奪うのですか」
事の重大さに気づいた魯粛が、思わず眉をひそめて押し殺した声を上げた。
「阿斗を連れ去れば、劉備との同盟は完全に破綻いたします。それどころか、両家の決裂は不可避……」
「同盟など、赤壁の昔に死んでいる」
孫権は魯粛の言葉を冷酷に遮った。その声には、血の通った人間の情義など微塵も存在しなかった。
「劉備にとって、阿斗は血統のすべてだ。あの幼子さえ我が手中に収めれば、劉備は荊州どころか、これから奪うであろう蜀の地をも、我が呉の前に差し出さざるを得なくなる。阿斗は単なる子供ではない。我が呉の駆け引きにおける、無上の質草なのだ」
老臣たちは息を呑んだ。
妹を単に引き揚げるのではない。妹という「回収経路」をそのまま利用し、敵の喉首である幼子を根こそぎ強奪してこいというのだ。実の妹の身の安全や、彼女が荊州で置かれる立場など、孫権の算盤においては最初から雑費として処理されていた。
「周善を呼べ」
孫権は短く命じた。
「五十隻の高速船を率いさせ、密かに公安へ潜入させよ。……妹には、母上が危篤であると告げさせればよい。女というものは、情に脆いからな」
薄暗い部屋の中で、孫権の碧い眼光が妖しく光った。劉備の血統という急所を抉り出すための、完璧で冷血な損益計算書が、こうして一枚書き上げられたのである。
公安城の湿り切った奥の間で、孫夫人は目の前の塗箱から一巻の密書を取り出した。
差し出してきたのは、呉の密使・周善である。衣服の裾に長江の水気を重く吸わせた周善は、伏し目がちに「主上より、極秘の御言葉にございます」とだけ囁き、深々と頭を下げていた。
孫夫人が絹の帯を解き、文を開くと、そこには兄・孫権の筆跡で、溢れんばかりの情愛と悲痛な叫びが並べ立てられていた。
——老母(呉国太)病い篤く、命は旦夕に迫る。一刻も早く呉へ帰り、最期の顔を拝せよ。
文面は実に巧みであった。死に瀕した老母が泣き叫びながら娘の名を呼んでいる様、駆けつけねば親不孝の極みであるという詰問、そして妹を気遣う兄の痛切な吐息。
しかし、その文字の連なりを指先でなぞるうち、孫夫人の背筋にツンと突き刺すような氷の冷気が走った。
「……母上が、病だと?」
孫夫人は文から目を離さず、低く呟いた。
母・呉国太の頑健な体躯を、彼女はよく知っている。病に倒れるような生易しい精神の持ち主ではない。何より、本当に母が死に瀕しているならば、この文の行間から滲み出るべきは「焦躁」であるはずだ。
だが、この幾重にも練り上げられた文面から立ち上ってくるのは、周密に計算された「偽りの臭気」に過ぎなかった。
兄・孫権は、自らの実母の命すらも解剖台の上に乗せたのだ。
母親の「死」という最も重い親子の情すら平然と捏造し、妹の孝心を揺さぶり、自らの望む政治的行動へと誘導するための撒き餌として差し出してきたのである。
(……実の親を殺してまで、私を動かしたいのか)
孫夫人は、吐き気を催すような兄の血の冷たさに、思わず唇を噛み締めた。
親の生死すら即物的な道具として処理する男。そこには兄妹の情など微塵もなく、ただ冷徹に兄の碧い瞳が長江を越えて己を見据えている事実があるだけであった。
「……姫様。呉国太様の命は、今夜にも途切れようとしております。一刻の猶予もございませぬ」
畳みかけるように周善が言葉を重ねる。その声の調子には、徹底的に仕込まれた虚妄の切迫感が漂っていた。
孫夫人は冷ややかな目で周善を見下ろした。
この文が真っ赤な嘘であることは分かっている。自分を呉へ誘い出し、劉備との婚姻という重荷を放り出すための、兄が仕掛けた不快な罠だということも。
だが——と、彼女の胸の奥で、暗い欲望が頭をもたげた。
嘘であっても構わないのではないか。
この嘘に飛び乗りさえすれば、あの吐き気のする「濡れた檻」から逃げ出せる。あの老いさらばれた劉備の怯え顔とも、湿気と汗臭さに満ちた公安の泥沼とも、永遠にお別れができるのだ。
「……分かった」
孫夫人は偽りの文を固く握り潰し、吐き捨てるように言った。
兄の冷血な欺瞞を見抜きながらも、彼女はその汚れた手をとることを決意した。絶望の泥沼から抜け出すために、実母の架空の死体すら踏み台にしようとする兄妹の凄惨な暗黙の了解が、その湿った部屋の中で成立した瞬間であった。
長江の岸辺、夜の湿気と川霧の奥から、五十隻におよぶ高速船が不気味な静けさとともに滑り込んできた。
船首を飾るのは呉の軍旗。それを率いる周善は、湿った木甲板の上に膝をつき、孫夫人へ向かって深く頭を下げていた。
孫夫人にとって、目の前の船団は救い舟に他ならなかった。
兄の「母危篤」という不快な狂言に乗っかる形で、この濡れた檻——公安の泥沼と、老いた夫・劉備の影から抜け出すことができる。たとえそれが兄の仕掛けた手前勝手な思惑の上であっても、この不快な荊州の地で腐食していくよりは遥かにマシであった。
彼女は翻る衣を整え、船へ乗り込もうと足を踏み出した。
だが、周善は立ち上がらず、頭を地面に擦りつけたまま、低く湿った声を滑り込ませてきた。
「……姫様。主上より、さらなる仰せが下されております」
「さらなる仰せ?」
孫夫人は足を止め、冷ややかに周善を見下ろした。
「……阿斗様をも、ご一緒に呉へお連れせよ、とのことにございます」
周善の言葉に、周囲の空気は一瞬で凍りついた。
阿斗——劉備の血を引く唯一の後継者。言葉すら満足に解さぬあの幼子を連れ去るということが何を意味するか、彼女に分からないはずがなかった。それは単なる「妻の里帰り」という建前を破棄し、敵の後継者を強奪して逃走する行為に他ならない。
「兄上は……あの幼子を連れて来いと言うのか」
「左様にございます。阿斗様なくして、姫様のお里帰りは成り立ちませぬ。主上は『阿斗様のお顔を呉国太様にお見せせよ』と表向き仰っておられますが……」
周善は言葉を濁したが、その歪んだ笑みには即物的な打算が露骨に滲んでいた。
阿斗という担保がなければ、劉備陣営は呉の船団を全力で追撃し、江東との全面戦争すら辞さないだろう。追撃を恐れる船団は自分を見捨てて逃走し、自分は荊州の地に置き去りにされる。そして何より、阿斗を奪い損ねて手ぶらで帰ってきた妹など、孫権にとって「使い古された無価値な廃品」でしかない。
孫夫人はゆっくりと息を吐き出した。
胸を突いたのは、義理の母としての罪悪感などではなかった。
自分が呉へ無事帰還し、冷酷な兄の前に再び「価値ある存在」として立つための、何物にも代えがたい「唯一の通行手形」なのだという、冷徹で即物的な理解であった。
兄に利用されつくした自分が生きて戻走るためには、自分もまたこの幼子を道具として抱えていくしかない。
「……分かった」
孫夫人は一切の情を切り捨て、短く言った。
「阿斗を連れて行く。周善、船の準備を整えよ」
幼子の存在すらも己の生存のための道具として割り切る。兄の冷血さをそのまま血肉に写し取ったかのように、彼女は長江の暗がりを見つめ、暗い決意を固めたのである。
深夜、主母の館の最奥は、異様な緊張感と湿った殺気に満ちていた。
孫夫人は数十名の武装した侍婢を従え、劉備の幼い跡継ぎ・阿斗が眠る奥の間へと足を踏み入れた。
異変を察した乳母や侍女たちが前に立ちはだかり、声を震わせて制止しようとする。
「い、主母様! こんな夜更けに若君をどちらへ……」
だが、孫夫人は言葉を返すことすら放置し、腰の長刀を半ば引き抜いた。シャリン、と闇を切り裂く金属音が響き、濡れた刃が燭台の火を跳ね返す。配下の侍女たちも一斉に刃を交差させ、乳母たちの喉元へ突きつけた。
「騒ぐ者は切り捨てよ」
氷のように冷ややかな声で命じると、孫夫人は寝台へ歩み寄り、薄絹の被衣の中から阿斗をすくい上げた。
まだ満足に言葉も解さぬ幼子は、突然の殺気と慣れぬ粗暴な手の感触に怯え、火がついたように泣き叫び始めた。火照った小さな体が激しく暴れ、甲高い悲鳴が湿った部屋の中に木霊する。
だが、孫夫人は泣き叫ぶ阿斗の顔など一瞥もせず、ただその小さな体を骨が折れるほどの力で腕の中に締め上げた。
(渡さない……絶対に手放すものか)
これは「肉」だ。
呉へ生きて戻るための、唯一の通行手形。兄の前で自分の価値を証明し、己の身を守るための「生きた質草」。阿斗の小さな身体は、彼女にとって愛すべき息子などではなく、自らの命を繋ぎ止めるための肉の楯と化していた。
「おとなしくしておいで」
耳元で低く囁く孫夫人の体温は、狂乱して熱を発する阿斗の肌とは対照的に、死人のように冷たかった。
阿斗は恐怖に顔を歪ませ、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、その冷たい胸の中で痙攣するように泣き続けた。劉備の血統という名の「生きた質草」をその腕にがっしりと固定した孫夫人は、一度も振り返ることなく、長江の暗がりへ繋がる夜の闇へと足早に消えていったのである。




