第一節:道具としての婚姻と「濡れた檻」
京口の宮殿は、むせ返るような白粉の香りと、新調された紅絹の饐えた匂いに満ちていた。
婚礼の儀というものは、どのような時代であれ幾分かは白々しい演劇めくものだが、この日の宴に漂う空気は格別であった。そこに流れていたのは祝祭の浮かれ気分などではなく、猛毒を秘めた刃を、敵対する奸雄の懐へと滑り込ませるための、油断ならぬ検分と儀礼の緊張感である。
重厚な織物を幾重にも纏わされた少女——孫権の妹は、首を固定された人形のように微動だにもせず座していた。
幼少より弓馬を好み、亡き長兄・孫策の気性を最も濃く受け継いだと言われるこの娘にとって、身に纏う武具や刀剣こそが皮膚の延長であった。しかし今、彼女の肉体は武骨な皮甲冑ではなく、分厚い絹と漆塗りの装身具によって拘束されている。
首筋に塗られた白い粉は息苦しく、耳元で揺れる翡翠の飾りが、動くたびに耳朶へ硬い打撃を与えてきた。
「……よく似合うぞ」
頭上から降ってきたのは、兄・孫権の声であった。
見上げれば、そこには底の知れぬ瞳を細め、満足げに妹を見下ろす主君の顔があった。その眼光には、妹の晴れ姿を愛でる兄の慈愛と、市に立てられた名馬の毛並みを確かめる冷徹な目利きとが、矛盾もなく同居している。
「お前は孫家の娘だ。かの老人に、江東の威風というものを存分に教えてやるがいい」
孫権の手が、妹の肩にポンと置かれた。その手のひらの重みは、祝福の温もりなどではなく、彼女という存在を「劉備を内側から縛り上げるための枷」として固定するための、不可逆の刻印であった。
彼女自身、当初はこの婚姻を誇り高き「出征」と捉えていた。己の武勇と気骨をもって、流浪の英雄・劉備の喉元に刃を突きつけておく。それが孫家の肉親としての責務であり、兄への貢献なのだと。
だが、重々しい礼服の隙間から滑り込んでくる兄の視線に晒されるうち、皮膚の表面からじわじわと不快な冷気があふれ出してきた。
自分は「将」として派遣されるのではない。
ただの「肉」なのだ。
美しい絹で覆われ、華やかな名分で飾られてはいるが、要するに劉備という男の寝所に放り込まれ、その呼吸と動脈を監視するための、生きた肉の楔。兄の手によって丁寧に梱包され、長江の向こうの湿った泥地へと出荷されていく資材。
白粉の下で、少女の唇がわずかに戦慄いた。
婚礼の音楽が虚ろに鳴り響く中、彼女は自分が「江東の姫」という人間であることを解体され、孫権の冷酷な算盤の上で「生きた牽制装置」へと改変されたことを、その骨の髄で理解したのである。
荊州・公安の夜は、ひどく湿っていた。
敷き詰められた寝具の奥、帳の垂れ下がる暗がりの中で、劉備玄徳は息を潜めていた。すでに五十の坂を越え、肌には老い特有の斑点と弛みが目立ち始めたこの男は、毎夜、妻の寝所に入るたびに胃の底が削られるような恐怖に苛まれていた。
寝室の周囲をぐるりと取り囲んでいるのは、呉から連れてこられた百人余りの女子たちである。
女子とは名ばかりで、彼女たちは皆、身に甲冑を纏い、腰に刀を注し、手に鋭い鞘走る刀剣を握りしめていた。風が吹いて帳が揺れるたび、あるいは侍女たちが足を踏み替えるたび、冷ややかな金属の触れ合う音——カチャン、ガラリという刺々しい擦過音が、暗闇のあちこちから不吉な響きを立てて立ち上る。
劉備の額から油汗が滲み、枕元でギラリと光る刀身の反射を横目で盗み見た。
布団の傍らには、若く引き締まった肉体を持つ孫夫人が、衣の胸元を僅かに寛がせた姿で横たわっている。彼女の瞳は、夫である老人に向けられる愛情など微塵も宿しておらず、まるで捕獲した珍獣の生態を観察するかのような、冷ややかで侮蔑に満ちた光をたたえていた。
だが、どれほど惨めに身を縮めていようと、劉備はただ怯え狂うだけの老木ではなかった。
この女にいつ喉元を掻き切られるか判らぬ恐怖に苛まれながらも、彼の頭の奥底では、政治家としての冷徹な帳簿が弾かれ続けている。いま不興を買ってこの女を江東へ追い返せば、孫権との同盟は破綻し、自らは曹操と孫権の挟み撃ちにあって灰燼に帰す。どれほど侮辱されようと、どれほど不気味であろうと、この「毒」を抱き留めておかなければ己の命脈は尽きるのだ。
「……何をお怯えになられます、将軍。我が身を護るための配下に過ぎませぬ」
孫夫人の薄い唇から、嘲弄を含んだ涼やかな声が漏れた。
彼女はわざとらしく長刀の柄に細い指を滑らせ、カチリと小気味よい音を立てて鞘を鳴らしてみせる。その瞬間、劉備の肩がビクリと跳ね上がり、頬の肉が痙攣した。
恐怖と政治的計算とがドロドロに混ざり合う湿った寝所で、老英雄はただただ夜が明けるのを、息を殺して耐え忍ぶしかなかった。
長江から吹き寄せる湿った風が、湿地帯の泥と腐草の匂いを重々しく運び込んでくる。
荊州・公安の町外れ、水はけの悪い低地に突如として建設された異様な城塞——通称「孫夫人城(公安城)」は、常にうっすらとした川霧と泥粘土の悪臭に包まれていた。
この城壁の内部は、劉備の領域でありながら、荊州の法規が一切通用しない「異界」であった。
孫夫人が江東から引き連れてきた数百の将兵や従者、探り屋や粗暴な船乗りどもは、まるで征服者気取りで街へ繰り出し、酒を呑んでは暴れ、市場の品をかすめ取り、地元の民を暴力で踏みにじっていた。彼らにとって自分たちは「主君の妹君を守る特権階級」であり、劉備の配下など落ち目の居候に過ぎなかったのだ。
劉備陣営の法務を司る者たちが泣きついても、劉備はただ顔を歪め、苦笑いを浮かべて首を振るばかりであった。
「……かの婦人は、江東の主の妹だ。下手に咎めれば、何が起こるかわからん」
劉備にとっては「危険物の隔離」であり、孫夫人にとっては「独立した領地の獲得」に見えた。
だが、城門が閉ざされた瞬間、孫夫人は胸を突くような猛烈な吐き気に襲われた。
城内を満たしているのは、洗練された呉の宮廷の空気などでは断じてない。雨で濡れた土の臭気、雨漏りのする兵舎の湿気、そして野蛮な呉の兵士たちが発する、脂と汗と酸っぱい酒の混ざり合った獣めいた体臭であった。
「……これが、私の城なのか」
孫夫人は欄干に佇み、泥まみれの庭で酒を食らい、卑俗な言葉で怒鳴り合う自軍の兵たちを見下ろした。
彼女は自らの権威と誇りを誇示するために呉の兵を引き連れてきたはずだった。しかし目の前にあるのは、法を破り、粗暴を極め、周囲から「迷惑な暴力集団」として忌み嫌われる配下たちの惨めな醜態だけであった。己の居場所を守るために引き連れた軍勢によって、彼女自身の手で己の拠って立つ場所を汚し、破壊していたのだ。
彼女の城は、保護された聖域などではなかった。
劉備陣営からは気味の悪い腫れ物として遠ざけられ、本国である呉からは長江の向こうへ置き去りにされた、泥と湿気に塗れた「巨大な孤立の檻」。
白粉の浮いた肌にじっとりと嫌な汗が滲み、彼女は己の輪郭が泥水に溶けていくような錯覚に囚われていた。
公安城の湿気あたる奥の間にて、孫夫人は塗箱から取り出された木札の束を手にしていた。
長江を渡って密かに届くそれらは、呉の主君・孫権からの極秘通信である。
最初は、ほんの僅かな期待があった。
「体に触りはないか」「荊州の泥水に苦しんではいまいか」——血を分けた実の兄なのだ、文面の端々にそれくらいの慈愛や労りの言葉が滲んでいてもバチは当たらないはずだ、と。
だが、漆黒の墨で木札に刻み込まれていたのは、そうした人間的な情愛の欠片すら削ぎ落とされた、無機質で冷酷な設問の列だけであった。
一、劉備の率いる兵数の増減、および兵糧の調達ルート。
一、諸葛亮が考案せし新たな行政機構の細部と、関羽の動静。
一、前妻の遺児・阿斗の養育状況と、護衛の手薄なる時間帯。
一字一字を追うごとに、孫夫人の指先が冷たく凍りついていく。
兄・孫権にとって、自分は遠国へ嫁いだ愛しい妹などでは断じてない。敵地の最深部に配置された、精度と耐久性を試されるただの「細作」に過ぎなかったのだ。
そして木札の最後、最も奥深い項目に目を通した瞬間、彼女の息が止まった。
一、月水の巡りおよび懐胎の徴候の有無。
獣の血統を改めるかのように淡々と、だが逃げ場のない執拗さで突きつけられる己の生理周期。
孫権の狙いは明白であった。
自らの血を引く子を劉備に生ませ、その「血統」をもって荊州の次世代を内側から支配・侵食すること。あるいは、懐胎という生理的変化を利用して劉備の警戒を緩め、さらなる政治的切札として仕立て上げること。
兄の冷徹な眼光が、長江の濁流を透かし見、この湿った部屋の帳を捲り上げて、自らの下腹部を直視し、監査している。
孫夫人は木札を机に置こうとした。
置いたつもりだった。だが、指先が強張って木札から離れない。
爪が白く裏返るほど強く木札を握りしめたまま、彼女はガタガタと震える指で自らの下腹部を固く覆った。
その手のひらだけが、ひどく冷たかった。




