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江東の蛇 ――碧眼の独裁者・孫権記――  作者: 武陵隠者
《第二部》第一章:周瑜の死と、引き継がれる執着

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第四節:引き継がれた執着と「南郡の譲渡」

 南郡《なんぐん》——別名、江陵《こうりょう》。


 そこは、亡き周瑜《しゅうゆ》が一年以上にもわたる泥沼の肉弾戦の末、曹仁《そうじん》の率いる激越な抵抗を力任せに叩き潰し、自らも肋骨を抉るような毒矢の傷を負いながら強奪した、いわば周瑜の「肉と血の残骸」そのものの土地であった。


 江陵の城壁に染みついた大量の赤黒いシミは、散っていった数千の兵の血であり、周瑜が吐き捨てた膿汁に他ならない。生前の彼にとって、南郡とはただの領域ではなく、己の生命を削って買い叩いた特級の個人的資産であった。ゆえに彼は、劉備《りゅうび》なる寄生虫がこの肥沃な肉に吸いつくことを猛烈に拒絶し、「あんな男は贅沢な屋敷に押し込め、女と絹で骨抜きにして殺せ」と叫び続けていたのだ。


 だが、死人は発言権を持たない。


 京口《けいこう》の宮殿、ひんやりとした板敷きの間に坐する孫権《そんけん》の前で、肥満した体を小さく折り曲げた魯粛《ろしゅく》が、切々と「南郡貸与論」を打診していた。


「……南郡は、あまりに北に寄りすぎております。曹操の脅威を真正面から受け止めるには、我が軍の負担が大きすぎる。いっそ、これを劉備に『貸し与え』、彼らを北の防波堤として前面に押し立てるべきかと」


 魯粛の口から発せられる言葉は、一見すると崇高な大局観に満ちていた。しかし、その根底にあるのは極めて即物的な算盤の計算である。管理費がかさむ割にリターンが薄く、維持するだけで自軍の兵力をすり減らす不良物件。それを都合よく居座る居候(劉備)に押し付け、警備員として働かせようという算段だ。


 孫権は、底の知れぬ瞳を微動だにもさせず、その提案を聞いていた。


 彼の脳髄の中で、いまや「周瑜の血」という神秘的な熱量は、冷徹な会計データへと変換されていた。


 一年間の遠征費用、消費された米穀の数、戦死した兵の補償金、そして周瑜という名刀の摩耗費。それらすべてを算盤の珠として弾き——カチリと弾き切った瞬間、孫権の脳内は一つの答えを弾き出した。


(——焦げ付きだ)


 南郡にこだわり続けることは、すでに回収不能となった過去の流血(損害)に引きずられ、さらなる損失を垂れ流すことに他ならない。周瑜が流した血も、兵士たちの命も、現実の損益計算書の前では文字通り「ゼロ価値の雑音」に過ぎなかった。


 どれほど涙を誘う英雄譚であっても、維持費が合わなければ切り捨てる。それが組織を統べる君主・孫権の合理性であった。


「……よかろう」


 孫権の口から、吐息のように短い許可が漏れた。


「南郡を、劉玄徳《りゅうげんどく》に貸し与える」


 周瑜が自らの命を削って勝ち取った栄光は、主君のたった一言の「損切り」によって、あっ気なく他人の手へと引き渡されることとなった。死者の遺志など、生きている国家という機構の前には、ひとくちの痰ほどの重みも持ち得なかったのである。


 荊州の仮拠点において、諸葛亮《しょかつりょう》は羽扇をゆるやかに動かしながら、呉から送られてきた公文書の束を眺めていた。


 絹布に記された文字は、過剰なほどに洗練された礼節と「天下の公義」を謳《うた》い上げている。孫権と魯粛の名で整えられたその文書の趣旨を要約すれば、要するにこうだ。——「孫・劉の同盟を確固たるものとし、共に曹賊を討つため、我が方で確保していた南郡の地を、寛大なる恩裁として劉豫州(劉備)殿に貸与いたす」。


「……借りる、か」


 諸葛亮の薄い唇の端が、嘲弄《ちょうりょう》の形にゆがんだ。


 羽扇の隙間から覗くその目は、冷徹な計算機そのものの光を宿している。呉の宮廷が書状の裏に隠そうとした醜悪な内情など、彼には最初からお見通しであった。


 周瑜という絶対的な支柱を失い、軍部は遺産分配の利権争いで機能不全に陥っている。その上、北からの曹操の圧力と、南郡という維持費ばかりかかる泥沼の占領地を抱え込み、呉の財政と神経はすでに限界を迎えていたのだ。手放さざるを得ない不良物件を「同盟の絆のための貸与」という美名で包み隠し、あわよくば劉備軍を自分たちの肉の防波堤として差し出す——浅知恵の損切りに過ぎない。


「周公瑾《しゅうこうきん》が命を削って手に入れた城塞を、後続の者どもがこうもあっさりと手放すとはな。死んだ人間ほど、都合のよい防波堤にされるものはない」


 諸葛亮は呟き、満足そうに目を細めた。


 周瑜が生前、あれほど周到に劉備を警戒し、江陵の城門を固く閉ざしていたことを思えば、この展開は喜劇としか言いようがない。周瑜が流した赤黒い血、刺し貫かれた矢の痛み、一年間にわたる惨絶な肉弾戦の対価——それらすべてが、周瑜の死というたった一つの出来事によって無効化され、タダ同然で自分たちの手元へと転がり込んできたのだ。


 一滴の血も流さず、一銭の銭も支払わず、相手が内部不全を起こして腐っていくのを待つだけで、特級の要衝を手に入れる。これほど効率のよい略奪が他にあろうか。


「貸与」などという形ばかりの契約書は、劉備陣営にとっては破り捨てるためのただの紙切れに過ぎない。一度この肥沃な土地に根を張り、肉を喰らい、汁を吸いはじめれば、二度と返却するなどという選択肢は存在しなくなる。


「使者に伝えよ。『孫将軍の深謀遠慮と寛大なるご配慮に、我が主・劉豫州は感涙にむせんでおられる』とな」


 諸葛亮は、洗練された外交修辞の裏に「呉の敗北と悲惨な失政」へのあざ笑いを密かに忍ばせながら、接収の手続きを速やかに進めるよう配下に命じた。


 羽扇が空気を切る乾いた音が、周瑜という男の無念をあざ笑うかのように、静かな部屋にむなしく響き渡っていた。


 江陵城の重厚な跳ね橋が、キーキーと不吉な軋み声を上げて下ろされていく。


 城壁の上からは、周瑜の死後もなお厳然と掲げられていた「孫」の文字と赤地のアゲハチョウの旗が次々と引き下ろされていた。代わって滑り込むように引き揚げられたのは、どこか泥臭く、湿った草の匂いのする「劉」の緑旗である。


 開け放たれた巨大な城門をくぐり、堂々と足を踏み入れてきたのは、劉備を先頭とする一団であった。


 その背後には、威圧的な巨躯を馬上に揺らす関羽や張飛、そして泥にまみれた脛を露出し、ギラギラと飢えた目を光らせる劉備軍の兵卒たちが地響きを立てて続いている。


 彼らの足取りは、前線で血を流してこの城を奪い取った者の誇らしげなそれではない。他人が命がけで狩り落とし、解体して食い散らかしたあとの「残飯」の匂いを嗅ぎつけ、土足のまま宴の席へ上がり込んできたハイエナどもの、即物的で獰猛な足取りであった。


「……見ろよ。これが周公瑾が命懸けで守ったという城か。いい城だ、馬の飼料置き場にも困らん」


 兵の一人が、固まった血と脂で黒ずんだ城壁の破片にペッと唾を吐きかけた。


 馬の蹄が、かつて周瑜の配下が流した血が染み込んで乾いた石畳を、無遠慮に踏みにじっていく。土足の泥と馬の糞尿が、呉の将兵たちが流した汗と血の痕跡の上にかぶせられ、塗り潰されていく。彼らにとって、この城郭がどれほどの犠牲の果てに勝ち取られたかなど、知ったことではない。目の前にあるのは、ただ「タダで手に入った広大で肥沃な領地」という現実だけであった。


 城門の脇で、孫権の命に従い撤退作業を進めていた呉の兵たちの間から、すっぱい胃液の混じった呻き声が漏れた。


 ある老兵は拳を固く握りしめ、爪が皮膚に食い込んで血を滲ませながら、去っていく劉備軍の背中を睨みつけていた。


 自分たちは何のために戦ったのだ。


 あの地獄のような一年間、曹仁の放つ火矢に焼かれ、毒矢に倒れる仲間の悲鳴を聞きながら、周都督の号令一つでこの城壁にしがみついてきたのではなかったのか。都督が右腹を射抜かれ、膿を吐きながら指揮を執ったあの激闘の対価が、なぜ、一滴の血も流していないあの客将どもの懐へとそのまま転がり込んでいくのか。


 屈辱と虚無感が、胃の底から酸っぱい吐き気となって込み上げてくる。涙すら出ない。あるのは、自分たちが流した血が「政治という算盤」の上であっけなくゼロ換算されたことへの、救いがたい脱力感だけであった。


 だが、撤退を指揮する将校は、冷ややかに兵たちの背を突いた。


「撤収だ。主上のお決めになったことだ。……ぐずぐずするな」


 怒りも、無念も、すべては「損切り」という冷徹な命令の前に磨り潰された。


 城内へと雪崩れ込んでいく劉備軍の歓声と、踏み荒らされる泥の音。撤退していく呉の軍列の背後に、ただ虚ろな空風だけが吹き抜けていた。周瑜が命を賭して築き上げた栄光の城は、いまや完全に他人の胃袋の中へと呑み込まれていったのである。


 南郡を引き渡したという報せが届いた夜、京口の楼閣は深々とした闇に沈んでいた。


 吹き抜ける長江の風は湿り気を帯び、川底の泥と魚の腐臭を微かに運んでくる。欄干に背をもたせ、遥か西の暗がり——荊州の方角を見つめる孫権の影は、月光の中で硬く引き締まっていた。


 周瑜の死後処理は、完璧だったと言っていい。


 美姫と称された小喬とその遺児たちは領地に押し込めて無害化し、周瑜が抱えていた巨大な精鋭部隊は老将たちへ細かく切り分けて分断した。そして、維持費ばかりかさむ南郡の地は、計算通り「防波堤」として劉備へと放り投げた。


 周瑜という絶対的な重圧、自分を未熟な弟扱いしてきた亡き兄・孫策の巨大な影。それら呉を揺るがす障壁や病巣はすべて排除され、いまや軍も領土も、すべての糸が孫権の指先に正しく集約されている。


 手元に残ったのは、完全なる統制と、冷徹な全能感。


 政治家として、君主として、自分はついに絶対の領域へと到達したのだ——そう確信していたはずであった。


 だが、孫権はふと、己の右腕を擦った。


 ゾクリとするような薄寒い不快感が、皮膚の表面を這い回っている。


 自身の体内で、何かが蠢いている。


 周瑜という男の肉体は滅び、その存在は組織から綺麗に脱色されたはずだった。しかし、彼が死の直前まで吐き散らしていたあのドロドロとした情念——「荊州の土一塊たりとも他人に渡さぬ」という、正気を疑うほどの即物的な執着。それが、周瑜という宿主の死によって解き放たれ、死骸から抜け出た目に見えぬ寄生虫となって、孫権の濁った血の中へと直接潜り込んでいたのだ。


 計算の上では、南郡を手放すことは正解であった。損切りであり、合理的な資源の最適化である。


 それなのに、なぜか腹の底が酷く疼く。


(あの土地は……我が呉の血で買い叩いた土地だ)


 気づけば、孫権の口内で奥歯がギリりと不快な音を立てていた。


 諸葛亮が浮かべたであろう薄笑い。劉備軍の馬の蹄が踏みにじった江陵の土の匂い。劉備という泥棒猫に横取りされた膨大な利権。それらが思考の裏側で蠢くたび、血管を酸性の液体が駆け巡るような、生々しい苛立ちと渇きが脳髄を灼く。


 周瑜を追い落とし、冷徹な統制者として完成したはずの孫権は、知らず知らずのうちに、周瑜が遺した「怨念という名の寄生虫」の新たな宿主へと仕立て上げられていたのだ。


 合理的な計算という皮膜の下で、寄生虫は孫権の血を吸い、少しずつ、だが確実にその肉体を蝕み、肥大化していく。


「……返せ」


 誰もいない楼閣で、孫権の唇から掠れた呟きが漏れた。


 自分が与えてやったのだ。損切りとして捨ててやったのだ。それなのに、体内を這い回る寄生虫が、激しい飢餓感とともに叫び続けている。奪われた土地を、あの肥沃な肉を、血で血を洗ってでも奪い返せ、と。


 周瑜は死に、その肉体は腐果となったが、彼が遺した執着だけは、死ななかった。

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