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江東の蛇 ――碧眼の独裁者・孫権記――  作者: 武陵隠者
《第二部》第一章:周瑜の死と、引き継がれる執着

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第三節:ハイエナたちの席取り合戦

 周瑜の死を悼む初七日の白幕すら下りきらぬうちに、巴丘の軍陣を包む空気は劇的に変質していた。


 主を失った大帳の中には、湿った気配と香木の残り香、そして何より——生きて蠢く人間たちが発する、むっとするような脂臭さと過熱した熱気が立ち込め、皮膚を刺すように重い。


「……兵数四千五百、うち鉄甲を纏う精鋭が千二百。軍糧は江陵の倉庫に三万石。これらをどう配分するか、だ」


 卓を囲むのは、程普《ていふ》、黄蓋《こうがい》、韓当《かんとう》といった孫家三代に仕えてきた古参の猛将たちである。


 彼らの眼光は、亡き都督への追悼などという生ぬるい感傷からは程遠かった。卓上に広げられた無数の竹簡——兵籍簿、兵糧帳、武具の目録——を繰る指先は微かに震え、木簡が触れ合う乾いた音が、まるで肉を削ぐ刃物の摩擦音のように幕内に響く。


「周都督の遺志を継ぐべきは、孫討逆(孫策)の時代からこの江東の地に血を流し続けてきた我ら老臣であろう。あの若者たちが率いていた精鋭を、ただの文官や新参者に預けられるか!」


 程普が太い指で木簡を叩く。その言葉には「忠義」という重々しい飾りが塗られていたが、その剥げ落ちた塗料の隙間から覗いているのは、生々しい欲望と焦燥であった。


 周瑜という絶対的な柱が失われた今、呉の軍部は巨大な空洞と化している。彼の麾下に集められていた数万の精鋭は、単なる公設の軍隊ではない。精良な武具を揃え、練度の極限に達した特級の戦力だ。これを誰がどれだけ己の陣営に引き入れるか——それが、己の将としての命運と、一族の存亡を決定づける。


「我が部隊は赤壁にて前線を維持し、最も多くの血を流した。その代償として、南郡の兵糧倉庫の管理権は当方に引き渡されるべきだ」


 黄蓋が低い声で追随する。その皺深い顔には、かつて周瑜の苦肉の策に応じて背中を鞭打たれた凄絶な老将の矜持ではなく、分け前を要求する凄惨な損益計算の影が落ちていた。


 言葉の端々で語られる「血」と「犠牲」。だが、彼らの脳裏で跳ね回っているのは、数字であった。


 兵数○千。米○万石。馬匹○頭。


 周瑜という苛烈なカリスマが死んだことで、それまで彼らの野心を抑え込んでいた重石が取り払われた。将軍たちは、死した主の肉体に群がり、互いを牽制しながらその肉を貪り喰らうハイエナと化していた。


 帳簿の竹簡を捲る音が、不吉な羽音のように幕内に満ちていく。


 自分たちが「国家」という生体の肉を削ぎ落とし、貪り合っていることに、彼らは気づかない。いや、気づいていながらも、一度跳ね上がった喉の渇きを止めることができないのだ。この過熱した泥沼の利権争いを、離れた京口から見つめる眼光が存在することすら、彼らはまだ知る由もなかった。


 都督の幕舎の奥、湿った漆黒の闇の中で、魯粛《ろしゅく》はひとり、膝を折り曲げて蹲っていた。


「……うぐっ」


 喉の奥から這い上がってきた熱く酸っぱい液体が、唇を割って吐器の漆鉢へと落っこちる。黄ばんだ胃液に混じり、細い赤い筋が幾筋も混じっていた。内臓が自らの酸で焼け落ちていくような強烈な痛みが、彼の脂の乗った腹の底から容赦なく突き上げてくる。


 周瑜の遺言という逃げ場のない呪いによって都督の座に据えられてから、彼の肉体は文字通り内側から崩壊を始めていた。


 幕僚や古参の武将たちが放つ殺気は、鋭利な刃物となって彼の皮膚を擦り減らし、削り落としていく。程普をはじめとする老将たちの目は、顔を合わせるたびに露骨な蔑視に満ちていた。


『金貸しの育ちが、何の戦功もなく都督の器を気取るか』


 直接言われずとも、その視線の摩擦熱だけで肌が焼き切られそうな心地がする。武闘派どもは魯粛の発する軍令をあからさまに無視し、配下の兵や兵糧を自陣へと囲い込むことに躍起になっていた。


 さらに彼を追い詰めるのは、長江の対岸から忍び寄る同盟国の爪だ。


 荊州の諸葛亮から届く書状は、常に丁寧で洗練された文体で綴られている。だが、その絹布の行間から匂い立つのは、『周瑜を失った呉など恐るるに足らず。約束通り南郡を我らに譲渡せよ』という、寸分の猶予も与えぬ冷酷な揺さぶりであった。


 老将たちの荒々しいエゴと、諸葛亮の計算し尽くされた強圧。


 二つの巨大な硬体が激しくぶつかり合い、今にも砕け散ろうとするその真ん中に、自分という肉体が挟み込まれているのだ。


(ああ……自分は都督などではない。ただ、二つの力の間に置かれた『肉の緩衝材』なのだ)


 魯粛は拭った唇の血を眺めながら、自虐的な笑いを漏らした。


 周瑜のような鋭利な名刀であれば、立ちふさがる敵も味方も一刀両断に切り伏せることができたかもしれない。しかし、文官あがりの己に与えられた役割は、刀になることではない。両側から押し寄せる圧力と憎悪の打撃を、己の肥満した肉体で受け止め、酸っぱい血と胃液を吐き出しながら摩滅していくことだけなのだ。


 組織が破裂しないよう、自らの胃袋を潰しながら衝撃を吸い取る。


 痛みで視界が歪むなか、魯粛は震える手で筆を握り直した。京口の主君——孫権へと宛てる報告書を書き進めねばならない。


 自分という肉の緩衝材がすり減って完全に消滅するまでに、この呉という国の破綻をどこまで食い止められるか。吐き散らした胃液の酸っぱい匂いが充満する暗がりの中で、魯粛は命を削る算盤を弾き続けていた。


 京口の宮殿の奥深く、外光を遮った一室に、朱と黒の塗料で精密に描かれた巨幅の軍事地図が広げられていた。


 静寂の中、かすかに響くのは算盤《そろばん》の珠が弾かれる乾いた音だけである。


 孫権は、碧色の瞳に疲弊と緊張の影を滲ませながら、卓上に敷かれた木簡の山と地図を見下ろしていた。そこには、巴丘や江陵から次々と届く、老将たちの直訴状と、都督・魯粛が吐血の末に書き上げた切迫した報告書が積み上げられている。


 程普が何千の兵を要求した、黄蓋が兵糧倉庫の接収を叫んだ、魯粛が板挟みで胃を病んでいる——。


 外界では、老将たちが「忠義」と「恩賞」を掲げて泥沼の利権争いを繰り広げていた。


(公瑾という巨大な刃が……失われたのだ)


 周瑜という絶対的な存在がいた頃、呉の軍権は実質的に彼一人の手元に集約されていた。それは主君である孫権の首元に、常に鋭利な名刀が突きつけられているのと同義であったと同時に、自らの背を守る唯一の盾でもあった。その巨木が突如として倒れ去り、孫権の足元には荒涼とした権力の空白と、剥き出しの恐怖が広がっていた。


 老将たちが兵や兵糧の配分を巡って互いを威嚇し合っているのは、主君への反逆心というよりも、周瑜という主柱を失った動揺の裏返しであった。


 孫権の指先が、地図の上に置かれた小さな木製の駒に触れる。


 このまま野放しにすれば、軍部は自壊する。かといって、強権を発動して老将たちを抑え込む力は、二十九歳の自分にはまだない。


「……程普には、江夏太守の任に加え、副都督の権限を与えよ。『魯粛を助けよ』と名付ければ、あの老将の自尊心は収まるはずだ」


 静かな声が暗がりに落ちる。


 文官上がりの魯粛と、古参の程普。二人を並び立たせて互いを牽制させ、時間を稼ぐ。いまの孫権にできるのは、そうして崩壊の波を食い止めることだけであった。


 さらに孫権は、周瑜の麾下にいた兵の再編に着手した。


 老将たちから殺到する兵力増強の要求を突っぱねるのではなく、逆にそのまま受け入れ、周瑜の遺産を数百、数千という単位で細かく切り分け、各将へ「恩賞」として分配していった。


 老将たちは「自分の兵が増えた」と歓喜し、主君の寛大な配慮に深く感謝した。


 だが、その処理を進めていくうちに、孫権自身もまた、己の指先に集まりつつある「冷たい手応え」に気づき始めていた。


 周瑜の名の下に結びついていた兵が分散されたことで、軍部が持ち得ていた「主君に対抗し得る唯一の塊」は、跡形もなく砕け散ったのだ。


 個々の将軍の私兵が増えれば増えるほど、彼らは隣の陣営への猜疑心を募らせる。互いに牽制し合う彼らは横の連携を組めなくなり、増えた兵を維持するためには、京口に坐する孫権からの兵糧配給に縋るほかなくなる。


 欲望を満たされたはずの老将たちは、知らず知らずのうちに、孫権の手のひらの上へと引きずり込まれていた。


 孫権は算盤の珠を、カチリと一つ、元の位置へ戻した。


 はじめから仕組んだ冷徹な計算だったのか、それとも生き残るための必死の裁定がもたらした偶然の結果だったのか。己の指先を見つめる孫権の瞳から、情念の温もりが徐々に失われていく。


 かつて天下を震撼させ、曹操の膨大な大船団を赤壁の炎の中に沈めた周瑜の軍団は、こうして姿を消した。


 巴丘の陣営に漂っていた過熱した空気は引き、あとに残されたのは、骨までしゃぶり尽くされた獣の死骸を思わせる乾いた静寂だけである。


 周瑜という一個の巨大な存在によって束ねられていた数万の兵は、孫権の手元から下された朱印によって、細かく、どこまでも緻密に切り分けられた。


 千の兵が程普の陣へ組み込まれ、五百の弓兵が黄蓋の配下へと移され、鉄甲や軍馬は各将軍の「損害穴埋め」として均等に配分されていく。帳簿の数字は綺麗に清算され、老将たちは自陣の兵力が増したことに満足し、誇らしげに髭を撫で回していた。


「都督の遺産は、これで正当に配分された」


 将軍たちはそう胸を張り、主君の公平な取りはからいに深く感謝した。自分たちは亡き都督の遺志を正しく引き継ぎ、呉の軍勢をより強固にしたのだと信じ込んでいた。


 しかし、呉という国家の内部から、主君の統制に服さぬ病巣が一つ取り除かれたことに、彼らは誰も気づいていなかった。


 京口の楼閣。長江から吹きつける湿った夜風が、孫権の長い衣の裾を揺らしていた。


 眼下に広がる黒々とした大河は、夜の闇を吸い込んで静かにうねっている。かつて周瑜がその川面に船を浮かべ、自らの威光で全軍を統率していた光景は、もはや遠い過去の幻影に過ぎない。


 孫権は手元の欄干に置かれた小さな木簡に目を落とした。そこには、再編が完了した軍の新たな兵数と、各将の配置図が記されている。


「……これで、ひとつ消えた」


 呟きは、夜風にかき消された。


 兄・孫策の影を背負い、全軍の頭上から絶対的な権威をもって君臨していた周瑜という最後の巨岩。それが砕かれ、砂となって呉の土壌に吸い込まれていく。


 軍権の手綱を握りしめた自らの手のひらを見つめ、孫権は冷ややかな夜風を深く吸い込んだ。


 周瑜の遺産を巡る騒乱は終わりを告げた。孫権は長江を見つめ続けた。水面には、もう周瑜の影はなかった。それでも彼は、なぜかその川から目を離すことができずにいた。

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