第二節:美の腐食と小喬の孤独
周瑜の遺体が巴丘から京口へと送還され、執り行われた本葬の会場は、濃密な香木の煙で白く煙っていた。
沈香や白檀の強い香りが立ち込め、一見すると崇高な哀悼の空間に見えたが、その本質はただ一つ——棺の合わせ目から漏れ出す、周瑜の肉体が分解されていく凄惨な死臭を覆い隠すための、即物的な作業に過ぎなかった。
その重苦しい煙のただ中に、白装束に身を包んだ小喬が佇んでいた。
かつて「江東の二喬」と称えられ、天下の男たちの羨望を集めたその身なりは、周瑜という絶対的な権力の横に寄り添うことで、はじめて完璧な輝きを放っていた。
しかし、その横顔を照らしていた周瑜が冷たい骨と化しつつある今、彼女を包んでいた光芒は静かに失われつつある。
白粉を厚く塗った彼女の肌は、香木の煙に燻され、毛孔からは冷や汗が絶え間なく滲み出ている。その薄い皮膚の直下には、夫の死床で浴び続けた病臭と、三十代を迎えた彼女自身の肉体が避けられない微かな衰えの陰りが、確実にへばりつき始めていた。
棺を取り囲む参列者たちの視線が、小喬のうなじや腰の曲線にねっとりと絡みつく。
だが、そこにはかつてのような「大都督の夫人」に対する敬畏など、微塵も存在しなかった。古参の将軍や文官どもの目にあるのは、主を失って放り出された骨董品、あるいは庇護者を失った美貌を品定めするような、不躾で卑俗な好奇と冷笑である。
「……ご覧あれ。周都督の遺髪を抱くお姿の、なんと哀れで美しいことか」
参列者のあいだから、わざとらしい囁き声が漏れる。それは同情の体をした、舌なめずりの音であった。
夫という巨大な庇護を失った瞬間から、小喬の存在は「美姫」から「噂話と性的な好奇の標的」へと落としめられていた。
小喬は下唇を痛いほど噛み締め、深く垂らした白い袖の陰で指先を震わせた。
鼻腔を突く香木の匂いはあまりに甘く、その奥から確実に匂い立つ夫の死臭が、彼女の胃を激しく裏返しそうになる。
彼女の耳には、群臣たちの品定めするような視線の群がりが、不快な羽音のように響いていた。
棺の側らでは、周瑜の遺児である周循と周胤が、白麻の服に身を包んで突っ伏していた。
幼い兄弟は、漆塗りの巨大な棺に取りつき、声を上げて泣きじゃくっている。父親が冷たい屍に変じ、二度と動かなくなったという事実は理解していても、それが自らの未来にいかなる暗雲をもたらすかまでは、知る由もない。子供特有の粘り気のある鼻汁と涙が混ざり合い、漆の表面に汚らしい縞模様を作っていた。
上座から彼らを見下ろす孫権、そしてその脇に控える張昭ら政権高官たちの視線において、この幼い二人の兄弟はただの「哀れむべき遺児」ではなかった。
彼らは、過剰なまでのカリスマを誇った周瑜という大英傑の血を直系で引いてしまった、政権内部における「災いの種」に他ならない。
周瑜の威光は、死してなお呉の軍部に巨大な影を投げかけている。古参の将軍や私兵どもが、将来、この幼子たちを「大都督の正統な継承者」として祭り上げ、孫氏の権力に対抗する旗印として担ぎ出す懸念は、常に付き纏う。
孫権の碧眼は一切の揺らぎを見せず、ひれ伏す子供たちの背中を静かに見つめていた。
無垢な子供たちが上げる叫び声は、孫権の耳には哀切な悲鳴ではなく、ただ深く沈殿すべき音として届いている。
ふと視線を投げると、老臣の張昭と目が合った。
張昭の濁った眼球にも、まったく同じ静かな覚悟が浮かんでいた。二人は言葉を交わすこともなく、わずかな目配せだけで、この血統の「扱い」についての合意を完了させる。
殺す必要はない。殺せば周瑜の旧部下どもが動揺し、不要な軋轢を生む。
必要なのは、彼らの身を不自由のない環境に置き、政治や軍事の表舞台からそっと遠ざけておくことだ。
泣き叫ぶ子供たちの喉から発せられる唾液の飛沫を見つめながら、孫権は眉ひとつ動かさずに佇んでいた。
本葬ののち、数日が経過した頃、孫権は自ら小喬と遺児たちの待つ周瑜邸の奥つかたを訪れた。
お供はわずかな側近のみ。身に纏う服も質素な普段着であり、その表情には亡き義兄(周瑜)の遺族を慈しむ温和な笑みが浮かんでいた。
「義姉上、どうか顔をお上げください。公瑾亡き後、この孫仲謀があなた方母子を見捨てることなど絶対にあり得ませぬ」
孫権の声は深く、優しげな湿り気を帯びていた。
彼は小喬の手をそっと握りしめると、用意させていた目録を差し出した。そこに記されていたのは、驚くほどの待遇であった。潤沢な俸禄、絹織物や貴金属の定期的な支給、さらに都の喧騒から離れた風光明媚な地に構えられた、豪奢な新邸宅の譲渡。
天下の誰もが「なんと情に厚い主君か」と涙を流して称賛するであろう、破格の「恩情」であった。
孫権の手のひらから伝わってくる温もりには、微かな震えすらあった。
孫権にとって、周瑜は己の威信を脅かす巨大な存在であると同時に、兄・孫策とともに江東を打ち立てた敬愛すべき義兄その人でもあった。公瑾の家を絶やしたくはない。血脈を守り、不自由のない生涯を約束したい——その感情に嘘偽りはなかった。
しかし、だからこそ残酷であった。
孫権の真摯な愛執は、「周瑜の血脈を一切の政治と軍事から切り離し、静かに牙を抜く」という決断と完璧に同居していたのだ。
「子どもたちの教育も、余が責任を持って最高の師をつけましょう。彼らが大きくなれば、しかるべき官職も与えます。ですから義姉上……どうか安心なさって、静かな場所で体を休められるとよい」
孫権の口から紡がれる言葉は、どこまでも温かく、そして逃げ場のない厚みを持っていた。
新邸宅とは、政治の中枢である京口から彼らを遠ざける場所に他ならない。何一つ不自由のない生活を保証する代わりに、二度と政権に波紋を立てさせないための、美しくも牢固な「金の籠」であった。
孫権の碧眼を見つめた小喬の背筋に、冷たい雫が滑り落ちるような感覚が走る。
この男は、憎しみや嫌悪によって自分たちを遠ざけようとしているのではない。周瑜への情と、主君としての冷徹な全能感が完全に調和したまま、自分たちを「公瑾の遺品」として大切に箱へ仕舞おうとしているのだ。
その温かい微笑みの前で、小喬は抗う言葉を失っていた。
「……ありがたきお言葉、身に余ります」
小喬は震える声で深々と頭を下げた。
孫権は愛おしむように微笑むと、彼女の頭頂部を軽く一撫でし、静かに部屋を去っていった。
手続きがすべて終わり、騒がしかった周瑜の邸宅からは人の気配が潮が引くように消え去っていた。
かつて日夜問わず客が詰めかけ、豪奢な宴の曲調と肉の焼ける匂いが充満していた大広間は、いまや落葉の舞い込む冷ややかな空洞と化している。廊下を渡る夜風が、主人のいなくなった館の建具をカタカタと不快に揺らす。へつらっていた門客も、下男たちも、手際よく財産を掠め取り、すでにどこかへ姿を消していた。
静まり返った奥の部屋で、小喬はひとり鏡台の前に坐していた。
ぬるま湯に浸した綿布を取り出し、顔にへばりついていた厚い白粉をゆっくりと拭い落としていく。油と水で洗われ、剥き出しになった素肌は、無防備で生々しい質感を取り戻していく。
鏡の中に映し出されたのは、時代の寵児たる美姫の姿ではなかった。
目元に刻まれた微かな縮み、頬の弛み、光を失った瞳。
ふと、小喬の脳裏に、昔日の周瑜の声が蘇っていた。
『——お前の美しさは、私を照らす琴の音のようだ』
かつて、私室の灯火の下で、周瑜は彼女の髪を慈しみながらそう囁いたのだった。
小喬は絞った綿布を握りしめたまま、鏡の中の自分を見つめた。
(私は……あの人の愛を受けたから美しかったのだろうか。それとも、私が美しかったから、あの人は私を側に置いたのだろうか)
問いの答えは、もはや闇の中であった。
彼女が信じていた「己の美」も、「周瑜の妻」という立場も、彼の存在という強い光が消え去った瞬間、手応えのない幻影のように指の隙間から零れ落ちていく。残されたのは、周瑜という主を失い、自らの人生をどう定義してよいかも分からぬまま、ただ静かに歳月を重ねていく一人の女の素顔であった。
抵抗することも、劇的な悲劇の主人公として散ることも許されず、孫権の手によって与えられた穏やかな静寂の中で、ゆっくりと忘れ去られていく未来。
小喬は小さく息を吐くと、細い指先で燭台の芯を摘まみ、静かに火を吹き消した。
立ち上った一すじの煙は、暗がりの中にゆっくりと揺らぎ、やがて静かに消えていった。




