第一節:名刀の破砕と解放感
建安十五年の風は、酷く粘りついていた。
長江の滑らかな水面を割り、何頭もの馬を限界まで使い潰して京口へと急行した使者が、宮廷の石畳へ滑り込むように膝をついた。使者の衣服には、泥と馬の泡立った汗、そして幾日も着替えていない人間の垢が混ざり合った不快な臭気がこびりついていた。
「——都督が、巴丘にて崩御なされました……!」
使者が床に額を擦り付けながら吐き出した声は、過労と咽び泣きによって哀れなほど掠れていた。
その一言が放たれた瞬間、執務室を埋めていた重臣たちの間に、目に見えるような波紋が広がった。張昭をはじめとする古参の老臣たちは一斉に顔面を蒼白にし、ある者は「呉の屋台骨が折れた」と唇を震わせ、ある者は天を仰いで大袈裟に嘆息してみせた。宮殿の奥からは、女たちの引きつった悲鳴すら聞こえてくる。
しかし、その報告を上座で受け取った孫権の脳髄が処理したのは、講釈師どもが好むような悲劇のドラマなどでは断じてなかった。
彼の網膜に映り、脳の算盤がはじき出したのは、「耐用年数を迎えた最高級の道具の機能停止」という、きわめて冷酷でドライな数値データに過ぎない。
周瑜という男は、呉という国家においてあまりに鋭利で、あまりに多大な負荷を骨肉に強いる苛烈な道具であった。
赤壁での過酷な指揮、南郡における曹仁との泥沼の流血戦、そして過剰な野心が生み出した「益州攻略」という無謀な計画。許容量を超えた野心という熱を全身に巡らせ続け、限界を超えて酷使された肉体が、ついに耐えかねて内側から破綻し、音を立てて砕け散ったのだ。
(壊れたか……)
孫権は、ひれ伏して背中を激しく上下させている使者を、冷ややかな碧眼で見下ろしていた。
使者が懐から差し出した錦の袋には、周瑜の遺言状と、彼が最期に着用していた武具の控え、そして死後に採取された印章の押印が納められていた。その書状の紙片からも、かすかに冷えた病室の死臭と、化膿した組織の腐腐臭が漂ってくるようであった。
周囲の臣下たちが「これから曹操や劉備に対抗できるのか」と狼狽し、パニック状態に陥っていく中で、孫権の脈拍は驚くほど一定のリズムを刻み続けていた。毎分六十拍。一切の乱れはない。
周瑜という名刀は、確かに呉に莫大な利益をもたらした。だが、切れ味が鋭すぎる刃は、いつ自らの柄(主君)をも切り刻むか分からない危険を孕んでいたのだ。その名刀が自ら砕け散ってくれた。
「……使いを労え。別室で休ませよ」
孫権の口から発せられた声には、何の感情も籠もっていなかった。
事務的に書類を受け取り、検収の印を押すだけの作業。孫権は懐から布を取り出すと、使者が持ち込んだ僅かな泥の臭いを振り払うように、鼻元を軽く拭った。呉という巨大な建築物の「大梁」が折れた。ならば、ただちに予備の木材へと差し替えるだけの話である。完成された独裁者の脳内では、すでに次の人事という名の掛け替えの計算が、淡々と始まっていた。
国家という巨大な建築物の大梁が折れた際、その動揺が末端にまで波及して全体が傾くのを防ぐため、統治者には定例の処置手順が存在する。
それが、儀式と呼ばれる政治的演劇であった。
京口の宮殿の大広間には、素服(白い喪服)を身に纏った群臣たちがぎっしりと平伏していた。
中央に据えられた周瑜の霊座に向かい、孫権は身をよじって号泣していた。後世の感傷的な講釈師どもが「孫権は痛惜のあまり胸を叩いて叫び、その声は宮廷の屋根を揺らした」と感涙交じりに書き残すことになる、実に感動的な一幕である。
「公瑾……! なぜ余を置いて去ってしまうのだ! お前がいなくて、誰と天下を語ればよいのだ……!」
孫権の口から発せられる絶叫は湿り気を帯び、悲痛な響きに満ちていた。
麻の袖で顔を覆い、その顔面は涙と鼻汁で汚らしく歪み、畳の表面を黒く濡らしていった。
だが、その醜く崩れた表情の陰で、孫権の脳髄は氷のように冷え切っていた。
胸を叩く動作の力加減、呼気を乱して声を詰まらせる間合い、そして涙を滴らせるタイミング。それらはすべて、あらかじめ精密に計算された政治的パフォーマンスの仕掛けに過ぎない。
袖の陰で、孫権の碧眼は一切揺れることなく、ただ静かに臣下たちの動向を分単位で測っていた。
悲しみ? 恐れ? 喪失感?
——ゼロである。胸の奥の心臓は、毎分六十拍の完璧な等間隔で、規則正しく冷えた血を全身に送り出し続けている。
(……これで十分だ)
孫権は袖の隙間から、ひれ伏している臣下たちの頭頂部を冷たく盗み見た。
張昭をはじめとする老臣どもが、主君のあまりの落胆ぶりに気呑まれ、もはや「周瑜なき呉の行く末」を追及して責め立てる気力を失っている。彼らは孫権の激しい涙に「情に厚い若き主君」の幻影を見出し、その痛ましい姿に同情という名の毒を注ぎ込まれて、毒気を抜かれていた。
涙も、鼻汁も、絶叫も、すべては国家の安堵という成果を購入するための「安価な支払額」に過ぎない。
周瑜という高価な道具は喪失したが、その死という現象すらも、孫権は即座に損益計算の材料として利用し、臣下どもを統御するための潤滑油へと変えてみせたのだ。
「公瑾……! お前の遺志は、必ずや余が引き継ぐ……!」
孫権はさらに声を張り上げ、わざとらしく体全体を激しく痙攣させて畳の上に突っ伏した。
その顔面は泥のように濡れていたが、床の隙間に隠された彼の碧眼は、不気味なほど光を吸い込む深い陰を宿したまま、ただ静かに群臣たちの動揺が収まる瞬間を計測していた。
感情を削ぎ落とした統制者にとって、人の死の哀悼とは、己の権力を補強するために執り行われる、単なる政治的作業に他ならなかった。
葬礼という名の演劇を完璧に演じ切り、群臣の動揺を鎮めた孫権は、一人奥の自室へと引き揚げた。
濡れた白の喪服を脱ぎ捨て、濡れ手拭いで顔にへばりついた涙と鼻水の粘液を雑に拭い去る。静寂が戻った室内に、孫権の規則正しい呼吸音だけが微かに響いていた。
その時、孫権はふと、己の身体的変化に気づいた。
首筋から背中にかけて、長年ずっとへばりついていた特有の「重圧」が、まるで嘘のように綺麗に消え失せているのである。
それは、長年皮膚に癒着し、化膿して硬化していた大きなカサブタが、根底の組織ごとバリバリと音を立てて剥がれ落ちたかのような、痛快で生々しい感覚であった。
(……消えたのだ)
孫権は、己の肩を軽く回しながら呟いた。
周瑜という存在は、呉という国家における最高の道具であったと同時に、孫権という個人にとっては、亡き兄・孫策の「生ける残影」そのものであった。
周瑜が孫権に向ける眼差しには、表向きは恭順の礼を尽くしながらも、その瞳の奥には常に「お前はあの偉大な小覇王・孫策の弟に過ぎない」「お前はこの呉の本当の創業者ではない」という、冷酷な品定めと監理者の色彩が混じっていた。周瑜の存在そのものが、孫権の背後に巨大な兄の幽鬼(亡霊)を投影し続け、彼を「未熟な代理人」の立場に縛り付けていたのだ。
だが、巴丘の地で周瑜の肉体が潰え、腐敗と灰へのプロセスを辿り始めた瞬間、周瑜というレンズを通して投影されていた兄の影は、大気中へとあっけなく蒸発した。
孫権を縛り、裁き、品定めていた最後の審判者は、この世のどこにもいなくなったのだ。
兄の影が消え去った後に残されたのは、果てしない荒野ではなく、圧倒的な「全能感」であった。
江東の六郡、数万の兵力、広大な農地、そして群がる肉の人形(臣下)ども——それらすべてを統御し、処分し、切り売りする絶対的な権利を持つのは、もはや亡き父でも、亡き兄でも、美周郎でもない。
ただ一人、損益計算の塊と化したこの孫権仲謀という脳髄のみである。
(この国は、僕のものだ)
孫権は薄暗い室内の鏡に映る己の顔を見つめた。
そこには、父や兄の影に怯え、血を吐く思いで泣いていた少年の面影は欠片もなかった。光をすべて吸い込み、何も反射しない眼が、冷ややかにこちらを見返している。
周瑜の死という破砕は、孫権にとって呉という国家の「完全で唯一の所有権」を確立させるための、不可欠な引き換えに過ぎなかったのだ。
絶対独裁者としての完成。
孫権は静かに胸を張り、誰もいない部屋で、完璧に制御された無機質な呼吸を深く深く吐き出した。
主君・孫権が京口の静寂の中で全能感を噛み締めていた頃、はるか前線の巴丘の陣頭では、全く別の種類の不快な重圧が渦巻いていた。
湿った夜の風が、軍帳を重苦しく揺らしている。
その中心に横たえられていたのは、数時間前に息絶えた周瑜の肉体であった。
死後硬直の始まった遺体からは、生前の華やかさを欠片も残さぬ、冷えた人脂の臭いと化膿した組織の腐臭が漂っている。だが、その遺体を囲む魯粛を苛んでいたのは、死臭に対する拒絶反応などではなかった。
胃が、焼き切れるように痛む。
過剰に分泌された強力な胃酸が、自らの胃壁をドロドロと溶かしている感覚。魯粛は脂汗に塗れた手で己の肥満した腹部を強く押し付け、吐き気と激痛に耐えていた。
周瑜という大梁が折れた瞬間、この巴丘の軍陣には、底知れない「大気の真空」が生じていた。
周囲を取り囲む古参の武将たち——程普や黄蓋といった、血と硝煙の臭いをさせた猛将どもの視線が、暗がりの中から鋭く刺さってくる。彼らの目には、死んだ主将への哀悼などよりも、「この周瑜の遺した数万の兵と権力を、誰が貪り食うのか」という露骨な飢餓と殺気が宿っていた。
そして、周瑜の遺言によって後職に指名されたのが、自分という「儒者上がりの不格好な文官」であるという事実。
(無茶だ……公瑾殿、あなたは私に何という巨大な災いを押し付けていったのだ)
魯粛は喉の奥に込み上げてくる酸っぱい胃液を、死に物狂いで飲み下した。
武将たちの殺意と嫉妬、後方で冷徹に損益を計算している孫権の眼差し、そして荊州の暗闇からこちらの動揺を虎視眈々と覗っている諸葛亮や劉備という奸猾な外交官ども。それらすべての圧力が、この「周瑜の死によって生じた巨大な穴」へと一気に雪崩れ込んでくる。
自分は、その押し寄せる激流の真ん中に放り出された、ただの「肉の防波堤」に過ぎない。
周瑜のように華麗に敵を討ち果たすことなどできはしない。自分にできるのは、激しい摩擦で自らの肉体と胃袋を削り、ドロドロに溶かしながら、巨大な国家という建築物が空中分解するのを必死に食い止めることだけだ。
「……棺の蓋を閉めよ。ただちに軍を再編する」
魯粛は震える声で命じた。
その声は、将軍たちの前で威厳を保つにはあまりに弱々しく、湿っぽかった。
周瑜という美しく完璧な道具が破砕した跡地で、後任の防波堤は、着任の初日から己の器官を擦り減らし、激痛に耐えながら、泥沼の外交戦と内紛の渦中へと足を踏み入れようとしていた。




