表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
江東の蛇 ――碧眼の独裁者・孫権記――  作者: 武陵隠者
第五章:炎上の果て、残された焦土

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
24/25

第四節:貸し借りの迷宮

第四節:貸し借りの迷宮

 どんなに名工が鍛え上げた至高の名刀であっても、過酷な実戦で骨を断ち、血を吸い続ければ、目に見えぬ刃こぼれを起こし、やがて脆く砕け散る。

 ましてや人間という名の、肉と骨で組み上げられた脆き器においてをや。かつて寸分の狂いもなく美しい佇まいを誇っていた「周瑜」という名の名刀は、いまや長年の摩耗によって、不快極まりない耳鳴りのような不協和音を撒き散らしていた。


「我が君……劉備を、あの老いた野良犬を絶対に野放しにしてはなりません!」


 病床の周瑜は、激しい咳き込みとともに、落ち窪んだ両眼を異常なまでの光でギラつかせていた。

 彼が吐き出す呼気には、高熱によって煎じ詰められた内臓の腐敗臭と、濃密な血の匂いが混じっている。南郡で受けた矢傷は、肋骨の隙間でうみを溜め込み、彼の神経を四六時中、激痛という名の針で刺し続けていた。死への恐怖と、思い通りに動かぬ肉体への苛立ち。それが彼の英知を濁らせ、ただの粘着質な殺意へと変質させていた。


「宮殿を与え、美しい女たちをあてがい、あの男を江東の地に繋ぎ止めるのです。豪華な箱庭のなかで、歓楽の毒によって骨抜きにしてしまえばよい!」


 周瑜の吐き捨てた「美人計」とやらは、一見すると華やかな策略に見えたが、その実態は焦燥に駆られた男が繰り出す、筋の悪い悪手に過ぎなかった。相手は、数々の修羅場を素手で潜り抜け、一文無しの状態から幾度となく這い上がってきた泥臭い生存の怪物(劉備)である。女や酒といった安易な毒で消化できるような生やさしい構造をしていないことくらい、正気であれば解るはずのことであった。


 孫権は、その激越な上奏を、周瑜の枕元に淡々と佇みながら見下ろしていた。


(……ああ、壊れている)


 孫権の碧眼へきがんに宿っていたのは、生涯の同盟者に対する同情でも、かつての美しい周郎の崩壊を悼む感傷でもなかった。彼が観察していたのは、単に呉という国家の「最も強固な骨格」であった周瑜が寿命を迎え、脆く崩れ落ちていく客観的な物理現象であった。


 周瑜の吐く呼吸から漂う腐食の臭いは、彼個人が放つ死臭であると同時に、旧時代の体制そのものが機能を失いつつあるシグナルでもあった。


公瑾こうきん殿、腹案はよく分かった。まずはそのお身体を休められよ」


 孫権の声音には、一切の感情が排されていた。冷ややかで、透き通った、まるで陶器の表面を撫でるような声であった。

 周瑜はその無機質な眼差しに一瞬だけ射すくめられ、喉の奥で詰まったような音を立てた。かつての主君の弟が、いまや自分という名刀すらも「使い終えた道具」として冷徹に査定している事実に、本能的な戦慄を覚えたのかもしれなかった。


 孫権は、激しく咳き込む周瑜に背を向け、静かに天幕をあとにした。彼の脳内の帳簿には、すでに「周瑜の耐用年数:残りわずか」という冷酷な数字が明確に刻み込まれていた。


 「土地を借りる」――この、田舎の百姓や質屋の帳簿付けのごとき卑俗な概念が、天下を二分する国家間の外交の表舞台に持ち込まれたこと自体、本来であれば滑稽極まりない戯作げさくであった。


 領土とは、血を流して奪い取るか、戦力に圧せられて割譲するかの二つに一つである。しかるに、劉備陣営が提示してきた「借用」という名の外交文書は、一見すると儒教的な礼節と謙譲の衣をまといながら、その実態は悪徳な高利貸が世間知らずの若者を嵌め込むための、極めて悪質なお札そのものであった。


 書状の裏で糸を引くのは、あの諸葛亮孔明である。


「劉備軍が益州(四川)を攻略し、拠点を確立した暁には、直ちに荊州の全域を謹んで呉国へ返還奉る」


 一読すれば、極めて義理堅く、理にかなった申し出のように見える。しかし、その論理の皮膚を一枚爪で剥ぎ取れば、そこには底知れぬ「言語の悪意」が渦巻いていた。


 「益州を取ったら返す」という条件は、裏を返せば「益州を取るまでは永久に返さない」と同義であり、さらに言えば「益州攻略の成否や時期の判定は、すべて借主(劉備)の匙加減一つにかかっている」という詭弁に他ならない。返済期日の存在しない借金など、端から踏み倒すことを前提とした騙し討ちである。諸葛亮という男の脳髄は、こうした法的不備と不透明な文言を意図的に織り込み、相手を逃げ場のない言葉の蟻地獄へと引きずり込む作業において、天才的な職人芸を発揮していた。


「我が君……これ以上の対立は曹操を喜ばせるだけです。同盟の『信義』を示すためにも、一時的に南郡をお貸しし、彼らに曹操への防波堤となってもらうのが上策かと」


 誠実を絵に描いたような男、魯粛は、その書状を手に何度も額の汗を拭っていた。思考が「大義」という甘い毒に痺れさせられ、一度この帳簿の迷宮に足を踏み入れれば、二度と引き返せなくなる泥沼であることに気づいていない。


 孫権は、卓上に広げられた借用証文の羊皮紙を、冷ややかな手つきで撫で回した。絹のように滑らかな紙面の上で、諸葛亮の美しい墨書が、不気味な深みをたたえて横たわっている。


(なるほど……大した文の詐術(いいがかり)だ)


 孫権は、胸の奥で小さく舌を巻いた。

 普通の政治家であれば、この侮辱的な欺瞞ぎまんに血を上らせるか、あるいは魯粛のように言葉の罠に騙されて「信義」などという幻影にすがるかのどちらかだろう。だが、現在の孫権の脳髄は、そのどちらの愚行とも無縁であった。彼は諸葛亮の詭弁を、感情的な怒りではなく、「極めて洗練された悪意の構造」として淡々と検収していたのである。


「魯粛、この書状を保管しておけ」


 孫権の声は、氷のように冷たく、乾いていた。


「期日が来たら返してもらう……などと、本気で思っている者はこの部屋にはおるまいな? これは土地の貸借劇ではない。僕とあの男(諸葛亮)の、どちらが先に相手の息の根を止めるかという、帳簿の上の殺し合いなのだから」


 孫権は白い布で静かに指先を拭うと、黒く汚れた羊皮紙から視線を外し、次の冷酷な試算へと自らの意識を沈めていった。


 後世の甘美な物語の書き手どもは、この時期の劉備を「孫夫人の若さと美貌に溺れ、呉の豪華な宮殿で英雄としての志を失いかけた男」などと描きたがる。

 だが、そんなものは人間の生理というものを理解していない文人どもの妄想に過ぎない。


 五十歳の老いた男(劉備)は、堕落などしていなかった。彼は単に「捕食」していたのだ。


 呉が用意した絢爛豪華な屋敷、絶え間なく運ばれる山海の珍味、極上の酒、そして何より十代の瑞々しい「孫尚香」という若い肉体。周瑜らはこれらを毒薬のつもりで差し出したわけだが、劉備という異形の生命体にとって、それらは疲弊した細胞を修復し、急速に若返らせるための最高の滋養に他ならなかった。豪華な宮殿という器に入れられれば、その器の容積いっぱいまで自身の肉を肥大化させる。それが劉備という「不定形の粘菌」の本質である。


「うむ、江東の酒は美味いな。肉も実に柔らかい」


 会見場に現れた劉備の顔面は、京口に到着した当初のくすんだ土色から一変し、テカテカとした嫌な脂光りを放っていた。かつては乾燥し、シワの谷間に垢を溜め込んでいた皮膚は、呉の贅沢な食事と若い血潮を吸い上げたことで内側から不気味に張り詰め、首筋の加齢臭すらも、精油と熟成した肉の混じり合った重苦しい体臭へと変化している。


 軟禁によって相手を麻痺させるという周瑜の企みは、完全に破綻していた。むしろ、軟禁している側の呉の家臣たちのほうが、日に日に脂ぎっていくこの怪物の存在感に気圧され、じわじわと精神を侵食されていたのだ。


(ふむ……吸い尽くされているのは、こちらの方か)


 孫権は、酒杯を傾けながら脂ぎった笑みを浮かべる劉備を、特等席から冷ややかに眺めていた。

 周瑜の目論んだ「美人計」なるものは、結局のところ、飢えた害獣に最高級の餌場を提供しただけに終わった。劉備は呉の富を貪り食い、孫権の妹という最上の貢ぎ物を存分に使い倒した上で、なおも「さて、そろそろ荊州を借りようか」と、平然とした顔で要求を重ねてくるのだ。


「我が君、劉備殿は……どうやら一向に志を失っておられぬようです。それどころか、日増しに盛んになられておる……」


 側近の溜息混じりの囁きに、孫権は応えなかった。怒りも焦りも湧かない。ただ、目の前に転がっている粘菌の、圧倒的な生への執着と図々しさに対して、ある種の生物学的な感心すら覚えていた。

 小手先の策で縛れる相手ではない。肥大化したこの怪物を抑え込むには、もはや「契約」という名の不条理な鎖を巻きつけるか、さもなくば全身の肉を骨ごと削ぎ落とするしかないのだと、孫権は無機質な確信を深めていた。


「都督、お休みなされ。――南郡(荊州)は、劉備に貸与することに決めた」


 孫権の口から発せられたその決定は、軍議の場に氷のような静寂をもたらした。

 周瑜の主戦論に怯え、あるいは魯粛の同盟論に流されていた重臣たちは、息を呑んで若き主君の顔を見つめた。そこにあったのは、苦渋の決断に揺れる青年の表情などではない。不要になった臓器を粛々と切り落とす解体者のごとき、どこまでも乾燥した無機質な顔であった。


 後世の講釈師どもは、この決断を「劉備の勢力を恐れた孫権の弱腰」だの「同盟を重んじた魯粛の遠謀」などと評する。だが、歴史の帳簿を握る孫権の脳髄が弾き出したのは、もっと即物的な「内部統制」と「損切り」の算盤そろばんであった。


 劉備に荊州を渡すのは、決して譲歩ではない。制御不能になり、血を流しながら狂躁きょうそうする「周瑜」という壊れかけた名刀を、一旦強制的に鞘へと収めるための、冷酷な内部処置であったのだ。


 刃こぼれを撒き散らす刀を振り回し続ければ、斬るべき敵よりも先に、それを持つ呉という肉体そのものが引き裂かれる。周瑜の熱病じみた執着を断ち切り、劉備という怪物に北の曹操との境界線を防衛させるための、都合の良い防波堤として差し出す。それこそが、国家という巨大な損益計算書を管理する者の論理であった。


「我が君……正気ですか! あのような老狐に……あの野老のぶしに、我が兵が血を流して奪った南郡を渡すなど……!」


 車椅子の上で周瑜が激昂した。

 彼の顔面は死人のように蒼白でありながら、落ち窪んだ両眼だけが血走っている。怒りと焦燥によって急激に上昇した血圧は、すでに膿と炎症でボロボロになっていた内臓の血管を容赦なく破壊した。


「ぐはっ……!」


 周瑜の喉の奥から、不快な濡れた音が響いた。

 直後、彼の薄い唇から大量の赤黒い血飛沫ちふぶきが噴出し、乾いた床板と、すぐ傍らに立っていた孫権の高級な絹の衣装を汚した。

 周瑜の身体はガタガタと激しく痙攣し、その眼には主君に裏切られたという無念と、己の身体が崩壊していくことへの圧倒的な恐怖が交錯していた。かつて江東の誰もが憧れた「美周郎」の影はどこにもない。そこにあるのは、血と吐瀉物に塗れ、崩れ去っていく哀れな男の姿だけであった。


 側近たちが悲鳴を上げて駆け寄る中、孫権は眉一つ動かさなかった。

 彼の碧眼へきがんは、自らの衣服にこびりついた周瑜の血塊を、ただの温度を失っていく物質として検収していた。孫権は懐から白い布を取り出すと、赤黒い液体を事務的な手つきで丁寧に拭い取った。


(これでいい……)


 孫権の内面で、冷ややかな満足感が広がる。

 この血とともに、兄・孫策の時代から呉を支配してきた旧世代の呪縛(周瑜)は、完全にその機能を停止したのだ。


 周瑜が倒れ、劉備が荊州の泥沼に足を取られ、魯粛が帳簿の管理に右往左往する。そのすべての駒を配置し直した盤面の上で、唯一正気を保ち、感情を排して全体を俯瞰しているのは自分だけである。


「都督を奥へ運べ。手厚く看病せよ」


 孫権は、血に汚れた布をゴミのように床へ放り投げた。

 周瑜の吐血によって、呉という国家の主導権は、完全に孫権という一人の統制者の手中に収まったのだ。彼は背後で苦しげに喘ぐかつての名将の声を背に受けながら、冷たい微笑をその唇に浮かべ、一人静かに部屋をあとにした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ