第三節:美しい肉人形
後世の講談や、くだらぬ文人どもの手による『演義』とやらは、孫権の妹――のちに孫夫人と称される女――を、「武芸を好むお転婆な姫君」だの「男勝りの女傑」だのと、じつに景気の良い意匠で飾り立てたがる。彼女が寝室に百人もの武装した侍女を従えさせ、劉備を震え上がらせたという逸話は、退屈な観客を喜ばせるための、格好のおとぎ話として消費されてきた。
しかし、歴史という名の無慈悲な帳簿係に言わせれば、その実態はより即物的な、ただの「市場取引」に過ぎない。
建安十四年の京口において、孫権がその碧眼で見つめていたのは、実の妹という血肉の通った人間ではない。それは「孫氏」という名の、猛獣を産み落とし続けてきた血の檻が、最も脂の乗った時期に排出した、極上の「貢ぎ物」そのものであった。
「兄上、本当にあの荊州の老いぼれに、この私を売るおつもりですか」
尚香は、鋭い金属音を響かせて短剣を机に突き立てた。
彼女の抗議は、若さ特有の、激しい感情の排泄であった。その肌は驚くほど若く、弾力に富み、四肢の筋肉は無駄なく引き締まっている。種を宿し、育むための頑強な肉としては、これ以上ない最上級の価値を誇っていた。
孫権は、その妹の怒りを、まるで馬喰が新入りの馬の歯並びを検品するかのような、冷徹極まる眼差しで眺めていた。
女だてらに剣を振り回すその狂気すらも、孫権の脳内では即座に実用的な「用度」へと換算される。その気性の激しさは、劉備という老いた粘菌を寝室で心理的に去勢し、呉の優位性を保ち続けるための、きわめて有効な寝所に放つ蠍として機能するはずだ。
「売る、という言葉は正しくないな、尚香」
孫権の声は、驚くほど平坦で、乾いていた。そこには妹を憐れむ兄の情など微塵も混じっていない。
「これは『商い』だ。それも、百倍の利を産む種銭のな。劉備という老いた粘菌は、荊州という臓器を不当に占拠している。奴を繋ぎ止め、その養分を江東へと還流させるための『錨』が、いまの我が国にはどうしても必要なのだ」
孫権はゆっくりと立ち上がり、妹のすぐ傍らまで歩み寄った。
そして、彼女の豊かな黒髪を、まるで高級な絹織物の品質を確かめるように指先で弄る。尚香の身体が、嫌悪と恐怖によって小さく痙攣し、その皮膚に無数の鳥肌が立つのを、孫権はただ淡々と観察していた。
「お前の役割は単純だ。その若い肉で、あの老人の浅ましい生殖欲を絡め取り、骨抜きにしろ。もし子供を産むならば、それは我が呉の血を引く、この上ない極上の『人質』となる。お前が寝室で剣を抜くたびに、劉備の寿命は確実に縮まるのだ。これほど割のいい商売が他にあるか?」
美辞麗句の衣を剥ぎ取った、むき出しの統治の論理。
尚香の顔からさっと血の気が引き、その唇が小刻みに震えた。彼女は、目の前にいる男が、かつて共に笑い、兄の背中を追っていた人間の兄ではないことを、その生理的な直感で悟ったのだ。ここにいるのは、血縁すらも市場に流す商品として査定する、冷酷な怪物である。
「……あなたには、人の心がないのですか」
妹の呪詛のような呟きを、孫権は鼻で笑い飛ばした。
人の心。そんな脆弱な臓器は、赤壁の灰色の煙の中にとうに焼き捨ててきた。
「英雄、色を好む」という、古来より使い古された便利な言い訳がある。
後世の好色な文人どもは、この言葉にどこか華やかな情緒を付与したがるが、その実態を冷徹な目で見つめ直せば、そこにあるのは「美」でも「愛」でもない。ただの、老いさらばえていく肉体が死の恐怖に抗おうとする、生物としての浅ましい自己保存の本能に過ぎない。
建安十四年、京口の会見場に現れた劉備玄徳という男は、その美化を剥ぎ取った老いの生々しい標本であった。
当時、五十歳を目前にしていた劉備の肉体は、長年の逃亡生活という過酷な摩耗によって、確実にその終わりを迎えつつあった。
耳たぶこそ異様に大きく垂れ下がっているが、その皮膚は乾いた泥のようにくすみ、首筋には無数の深い皺が、まるで寄生虫の親玉のように刻まれている。笑うたびにその皺の谷間に薄汚れた汗が滲み、口からは、内臓の衰えを示す特有の、酸っぱく油臭い加齢臭が漂った。
その老いた男の前に、まだ十代の、瑞々しい弾力に満ちた孫尚香が引き据えられた。
「おお……これが、江東の至宝……」
劉備の濁った両眼が、一瞬でべっとりとした湿り気を帯びた。
その視線は、高潔な君主が未来の妻を迎えるそれではない。肉屋の主人が、屠殺場から届いたばかりの、まだ体温の残る新鮮な若雌の肉を隅々まで品定めする、あの即物的な欲情の目であった。
尚香の身体が、その視線に触れた瞬間、生理的な拒絶反応を起こした。
絹の衣服に包まれているにもかかわらず、彼女の指先は冷え、背中を冷や汗が伝う。五十歳の老人の、皺の間に溜まった垢や、不潔な息の匂いが、自分の清浄な肉体を侵食していく未来を、彼女の鋭敏な神経が直感的に拒絶していた。
孫権は、その一連のコンタクトを、一段高い席からじつに冷ややかに、かつ愉しげに観察していた。
(怯えろ、尚香。端からその嫌悪を牙に変えておけ)
孫権の胸中に、妹に対する同情など、一滴の胆汁ほども湧き上がらなかった。
劉備の浅ましい性欲も、尚香の生理的拒絶も、彼にとっては呉という巨大な装置を円滑に動かすための、ただの潤滑油に過ぎない。
むしろ、劉備がこの若い肉に執着すればするほど、その首輪は強固なものになる。尚香が寝室で老人を拒み、剣を突きつけるたびに、劉備の心臓は恐怖と興奮で摩耗し、荊州を統治するための貴重な寿命が、じわじわと削られていくのだ。
「劉備殿。我が妹は少々気性が激しく、剣を好む悪癖がございますが……どうか、その広い御心で包み込んでいただきたい」
「透明な悪意」だけを湛えた笑顔で、孫権は杯を掲げた。
皺だらけの老人と、恐怖に震える処女。その不条理で醜悪な婚姻という名の実験を、若き統制者は、ただただクリアな視界で見届けようとしていた。
後世の退屈な観客どもを熱狂させる『三国志演義』という名の壮大な大嘘は、この甘露寺における会見を、手に汗握る暗殺未遂劇として演出したがる。曰く、呉の張り巡らせた伏兵、曰く、それを見破る劉備の豪胆、曰く、石を断ち切る誓いの刀。まったく、人間の脳髄というものは、どうしてこうも権力闘争という血生臭い営みを、三流の劇場の出し物のように美化したがるのか。
歴史という冷酷な演出家に言わせれば、あの日に繰り広げられたのは、劇などと呼ぶのもおこがましい、ただの「高級な茶番劇」に過ぎない。
「我が君、北の堂の裏に、武装した兵が潜んでおります」
趙雲が劉備の耳元でそう囁いたとき、劉備の乾いた皮膚は、不快な恐怖によって粟立っていた。当然である。彼は、己がただの無防備な肉塊として、江東の主の胃袋の中に飛び込んできたことを、誰よりもよく自覚していたからだ。
だが、これこそが、孫権の設計した舞台装置の狙いそのものであった。
甘露寺の周囲に伏兵を配置させたのは、孫権自身ではない。それは、亡き兄・孫策の影を追い、いまだに「劉備を殺せば荊州が手に入る」などという手垢のついた幼稚な算盤を弾いている、呉の旧弊な老臣どもや一族の仕業であった。
普通の若き君主であれば、己の命令を無視して暴走する身内の不手際に血の気が引くところだろう。だが、いまの孫権の脳髄は、その内部統制の不全すらも、劉備を釣るための「極上の餌」として計算に組み込んでいた。
(見破れ、劉備。そして、僕を侮るがいい)
孫権は、一段高い席から、怯えを必死に隠して徳ある英雄の役割を演じようとしている劉備を、じつに乾いた嘲笑とともに眺めていた。
わざと老臣たちの稚拙な暗殺計画を劉備に見破らせる。そうすることで、劉備の脳髄に一つの致命的な誤認を植え付けるのだ。すなわち――「呉の若き二代目は、身内の制御すら満足にできない、未熟で青臭い神輿に過ぎない」という絶好の油断を。
「何ということだ! 誰がこのような神聖な場に兵を配した! 直ちに退かせよ!」
孫権はわざとらしく声を荒らげ、怒りに震える無能な若者を演じてみせた。その演技の完璧さは、彼自身の内側が完全な虚無で満たされているからこそ可能であった。
劉備は、その孫権の狼狽を見て、目に見えて安堵の息を漏らした。皺だらけの顔に、いつもの、あの他者を油断させるための生温かい仁徳の笑顔が戻る。
「いやいや、孫権殿、若い兵たちが血気盛んなのは国が盛んな証拠。気になされるな」
などと、鷹揚な大物を気取ってのける。
だが、劉備とてただの愚者ではない。この伏兵騒ぎの不自然さ、あるいは目の前の若き主君の「軽さ」が、精巧に作られた芝居ではないかという疑念は、その老獪な腑の底をかすめていたはずだ。
それでもなお、劉備はこの茶番をあえて踏み抜いた。なぜなら、疑念を口にするよりも、呉の未熟さを笑う大物の仮面を被り、目の前にある孫尚香という「若く瑞々しい肉」を合法的に貪る権利を確定させる方が、いまの彼の生存本能にとって、はるかに抗いがたい誘惑だったからだ。プライドという骨格を持たぬ粘菌は、欺かれていると知りながらも、明確な栄養の匂いに誘われて、喜んで罠へと滑り込んでいく。
劇場の特等席から、獲物が自ら罠に嵌まる瞬間を静観する観客。
それが、この甘露寺における孫権の真の姿であった。彼は一杯の茶を口に含み、その温い液体が喉を通り抜ける感触を味わいながら、己の仕掛けた透明な詐術が、老いた怪物の内臓を確実に蝕み始めていることに、深い、そして底知れぬ暗い愉悦を覚えていた。
婚礼の夜というものは、どれほど豪奢な衣装や美辞麗句で粉飾しようとも、その本質は極めて生々しい「肉の譲渡手続き」に過ぎない。
建安十四年の京口、呉の宮廷は勝利の余韻と新たな同盟を祝う酒の臭いに満ちていたが、その喧騒の最奥、燈火の届かぬ暗がりに、孫権は一人座していた。
彼の視線の先には、数年前にこの世を去った実の母、呉夫人の幻影があった。
後世の凡庸な史家どもは、呉夫人を「家族の和を重んじ、若き当主を支えた賢母」として描きたがる。だが、乱世という名の巨大な肉挽き器の中で生き残り、孫堅、孫策という二頭の狂暴な野獣を身内から排出したその生涯を解剖すれば、彼女が息を引き取る間際に孫権の耳元で囁いた遺言の、真にドロドロとした骨組みが見えてくる。
『仲謀よ、誰も信じるな。兄の熱を追うな。孫家を遺すためならば、お前は人間であってはならぬ』
それは母親の慈愛などではない。血族という名の生存の連なりを維持するために、次の世代の脳髄へと強制的に書き込まれた、血脈に伝わる呪縛であった。
「……母上。ご覧になっていますか」
孫権は、手元に注がれた冷えた酒を、じつに淡々と口に含んだ。
喉を通り抜ける液体は、もはや何の情緒ももたらさぬ、ただの温度を持った物質に過ぎない。
天幕の向こうからは、婚礼の宴の卑俗な哄笑と、それに混じって、実の妹である尚香が劉備という男の待つ寝室へと引きずられていく気配が、湿った夜風に乗って伝わってきた。
普通の兄であれば、まだ十代の妹が、加齢臭を放つ五十の老人の生贄となることに、腑が捻じれるような葛藤を覚えるはずだ。怒りによって喉が渇き、己の無力さに涙を流すのが、生身の人間というものである。
だが、孫権の脈拍は、驚くほど一定のリズムを刻み続けていた。
彼の胸中に湧き上がっていたのは、葛藤でも涙でもなく、完全な濾過の果てに得られた、冷徹な万能感であった。
(そうだ。僕は今、あの母上の呪いを完全に完成させたのだ)
実の妹の肉体すらも、市場に流す最高級の貢ぎ物として冷酷に切り売りできたという事実。それこそが、彼が真の統制者へと羽化するための、最後の通過儀礼であった。尚香の涙も、彼女の清浄な肉が老人の皺に侵食される不条理も、すべては呉という巨大な連なりの歯車を一つ噛み合わせるための、必要不可欠なコストに過ぎない。
「母上、あなたが私に望んだ『孫家の守り方』とは、こういうことでしょう」
暗闇に向かって呟く孫権の碧眼には、一滴の潤いもなかった。
彼は立ち上がり、長江を見下ろす窓へと歩み寄った。
夜の川面はどこまでも黒く、まるで底知れぬ虚無が広がっているかのようだったが、いまの孫権にとって、その暗黒こそが最も心地よい居場所であった。
家族の情愛という最後の脂肪を削ぎ落とした彼の肉体は、いまや曹操の言った通り、骨と筋肉だけの捕食者として完成しつつあった。妹が寝室で老人に短剣を突きつけ、その寿命を削っているであろうその瞬間、孫権はただ静かに、次の標的を処理するための冷徹な計算を、脳内の帳簿に刻み始めていた。




