第一節:灰色の祝祭
歴史という奴はじつに、体裁を繕うのが巧い。
後世の講談師や詩人たちは、この建安十三年の冬を「赤壁の火」などと呼び、あたかも天が火の粉を散らして悪を焼いたかのように語り継ぐ。だが、そこに現出した物理的な真実を語るならば、それは「巨大な質量の急速な炭化」と、それに伴う死骸の始末に過ぎない。
夜明けの長江は、勝利の熱狂に沸いているはずだった。しかしその実態は、機能不全に陥った巨大な投棄場の様相を呈していた。
視界を塞ぐのは、船の残骸である。曹操という巨大な宿主が繋ぎ合わせた数千の艦船は、炎という名の理によって結合を解かれ、水面を漂う物言わぬ炭の塊へと成り果てていた。そこには勇壮な軍旗も、煌びやかな装飾もない。あるのは、ただ燃え残り、湿り、腐敗を待つ木材の死骸だけである。
しかし、真に歴史という巨大な胃袋を苦しめていたのは、その隙間を埋め尽くす生物学的な残渣――すなわち、北来の兵士たちの死体であった。
曹操が北方から連れてきた八十万という名のタンパク質の質量は、長江という巨大な消化器官にとって、あまりに硬く、消化の悪い異物であった。火に焼かれ、あるいは冷たい水に肺を焼かれて絶命した彼らは、いまや一様に水を吸い、パンパンに膨張している。
その膨らみは、もはや人間としての輪郭を保っていない。それは歴史という新陳代謝が排出すべき、巨大な排泄物の山であった。
孫権は、その光景を断崖の上から見下ろしていた。
数日前まで、彼はこの質量に怯え、胆汁を吐き散らしていたはずだった。だが、目の前に広がる凄まじい密度の死と腐敗を前にして、彼の内臓は奇妙な静止を保っている。
兄・孫策であれば、この光景を見て豪快な勝利を叫んだろうか。あるいは、戦友の死を悼んで熱い涙を流しただろうか。現在の孫権の脳髄が刻んでいるのは、情愛でも熱狂でもない。
「……この量を片付けるのに、何日かかるか」
彼の呟きは、勝利の凱歌というよりは、蔵の在庫が合わぬことを嘆く役人の独り言に近かった。
膨張した死体が発する、硫黄と脂の混じった臭気。それは英雄譚が意図的に削ぎ落とす生理的な現実であったが、孫権はその臭いから逃げようとはしなかった。彼は白絹の端切れで鼻を覆うのをやめた。この肺の奥にこびりつくような死臭こそが、権力という装置を動かすための潤滑油の匂いであることを、彼の冷徹な理性は理解し始めていた。
勝利という言葉の耳ざわりの良さに騙されてはいけない。
本来、戦争における勝利とは、敵の生命を奪う権利を得ることではなく、敵が所有していた「物質」を一方的に再分配する権利を得ることを指す。平たく言えば、公認の追剥に過ぎない。
長江の岸辺では、いまやその再分配という名の凄まじい狂宴が繰り広げられていた。
呉の将兵たちは、つい数刻前まで英雄を演じていた顔をかなぐり捨て、一心不乱に泥濘へ膝をついていた。彼らが向き合っているのは、もはや曹操軍の兵士ではない。それは良質な革、磨けば光る鉄、そして運が良ければ数枚の銀貨を内蔵した剥き出しのリソースである。
「……おい、この死体、指輪が抜けねえぞ」
「指ごと叩き斬れ。どうせ明後日には魚の餌だ」
湿った革を剥ぐ鈍い音。死後硬直の始まった関節を強引にへし折る乾いた音。それらの音響は、勝利の勝鬨よりもはるかに生々しく、力強い生命の律動を伴っていた。
孫権はその光景を、高台から無機質な眼差しで眺めていた。
かつての彼なら、この醜悪な光景に目を背け、武士の情けを説いたかもしれない。だが、現在の彼を支配しているのは、そのような甘美な道徳の類ではなかった。
(これが、人間の正体か)
孫権の胸中を去来したのは、嫌悪ではなく、むしろ深い「納得」であった。
忠義や報恩といった言葉で包み隠してきた家臣たちの本質が、いまや剥き出しの臓器のようにさらけ出されている。彼らを動かしているのは、孫家への愛着でも祈りでもない。ただ、目の前の肉を喰らい、空腹を満たそうとする、原始的な「飢え」という名のエネルギーだ。
「……美しいな」
孫権の口から、漏れるような呟きがこぼれた。
略奪に狂奔する兵士たちの姿は、ある種の機能美に満ちて見えていた。嘘がないからだ。支配者とは、この欲望という名の腐肉を適切に管理する差配人に過ぎない。
「魯粛、兵たちに伝えろ。略奪は三日の間、一切を咎めぬとな。ただし――」
孫権は一度言葉を切り、喉の奥でくぐもった笑い声を漏らした。
「――曹操軍の将軍位を示す印章を見つけた者には、別途、私から褒美をとらす。死体の腹を割いてでも探し出せ、とな」
勝利とは、本質的に「贈与」である。
泥に埋まった曹操軍の旗艦は、内臓を抜き取られた巨鯨の死骸のようであった。孫権はその死骸の内部へと足を踏み入れた。
最深部、主将の居室と思われる場所で、彼は黒漆の文台の上に置かれた一束の竹簡を見つけた。孫権がその紐を解くと、そこには他者を嘲弄するような力強い筆跡が躍っていた。
『よくやった、江東の小僧。
貴殿が今、赤壁で焼き尽くしたのは私の軍勢ではない。肥大しすぎた余分な脂肪だ。貴殿のおかげで、私は軽くなった。
だが、貴殿はどうだ? 今日この瞬間から、貴殿は勝利という名の重い脂肪を背負い込むことになる。人を信じ、情に溺れていた甘い少年時代は、この炎で焼き殺されたはずだ。
あとに残ったのは何か?
孤独だ。もはや貴殿を理解する者は、この世に私以外にはおるまい。さらばだ、私の「同類」よ。
その灰は、一生お前の肌にこびりつくぞ。』
孫権は竹簡を叩きつけた。曹操は負けてなどいない。彼はこの竹簡を通じて、孫権の精神に「独裁者の論理」という呪いを植え付けたのだ。
「……ふん。狂人の戯言だ」
孫権の声は凍てつくように冷たかった。彼は理解してしまった。曹操が言ったことは、呪いであると同時に、統治者としての残酷な真実である。迷うことを許される「人間」という領域を、彼はすでに踏み越えてしまったのだ。
歴史という名の帳簿を整理する際、最も厄介なのは、その「容積」である。
赤壁の空を覆っていたのは、瑞雲ではなく、巨大な「火葬の祭壇」から立ち上る、粘りつくような黒煙のカーテンであった。
孫権は、その煙の直下に立っていた。
当初、彼は白絹の端切れで鼻を覆っていた。それは、まだ彼の内側に残っていた人間としての防衛本能だった。だが、彼はふと、その手を下ろした。
(何を拒んでいるのだ、僕は)
不快感というノイズを切り捨てたあとに残ったのは、純粋な情報であった。煤の混じった黒煙を正面から肺の奥深くへと吸い込む。肺胞にまとわりつく死者の脂を、彼は自らの血肉に溶け込ませるようにして受け入れた。
彼にとって、この異臭はもはや死の臭いではない。それは巨大な国家を維持するために排出される「理の排気」であり、権力が正常に稼動している証明であった。
「……もう、鼻は曲がらなくなったな」
独白する孫権の顔に、奇妙な静寂が訪れる。かつて孫策が愛した人間の熱気は、灰色の煙の中に埋没した。あとに残ったのは、数万の死を数として処理し、身内すら部品として天秤にかけることができる、鋼の理性を備えた怪物である。
灰色の祝祭は続く。
空から降ってくる灰を雪のように肩に積もらせながら、孫権は次の標的――長江の隙間にカビのように増殖し始めた「劉備」という名の寄生虫に、その碧眼を向けた。




