第五節 東南の風、あるいは死臭の予感
戦争準備とは、つまるところ、膨大な熱量を消費して、より効率的な「死」を量産するための生産ラインを構築する作業に他ならない。
柴桑の港は、焦げ臭い活気に満ちていた。硫黄、硝石、魚油、そして乾いた葦。それらの可燃物が、まるで冬越しの食料のように次々と船の腹へと詰め込まれていく。だが、それらは生命を維持するためのものではない。数万の人間というタンパク質を一瞬で炭化させるための、純粋な破壊の蓄積である。
周瑜という男は、この死の連鎖を指揮する差配人としては、あまりにも優美すぎた。彼は知っていた。曹操軍という巨大な恐竜を殺すには、正面からの殴り合いなど不可能であることを。必要なのは、免疫系を狂わせるウイルス(偽装投降)と、細胞を一気に壊死させる高熱(火攻め)である。
その精密な回路を完成させるためには、一つの「虚偽」を真実に変えるための、生贄が必要だった。
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老将・黄蓋への鞭打ち。それは、極めてサディスティックな脚本に基づく、凄惨な茶番劇であった。だが、その「痛み」だけは本物でなければならなかった。曹操の放った間者の目を欺くためには、実際に肉が裂け、血が飛び散るという物理現象が必要不可欠だからだ。
シュッ、バシッ!
鞭が空気を切り裂き、老いた皮膚を叩く音が、規則正しい音律で響く。
孫権は玉座の上で身を硬くしていた。最初は目を背けていた。父の代からの忠臣が、背中を朱に染めて呻く姿に、生理的な吐き気を催したからだ。だが、ふと周囲を見れば、並み居る将軍や文官たちが、青ざめた顔で震えている。彼らは恐れているのだ。周瑜の冷酷さを。そして、その暴力を黙認している孫権という主君の、測り知れぬ不気味さを。
その瞬間、孫権の脳内で奇妙な回路が繋がった。
恐怖。これまで自分が曹操に対して抱き、震えていたその感情を、いま、目の前の家臣たちが自分に対して抱いている。自分が恐怖する側から、恐怖させる側へと反転したのだ。
シュッ、バシッ!
黄蓋の背中の皮膚が弾け、白くなまなましい脂肪層が覗く。血飛沫が床に点々と模様を描いた。孫権は目を見開いてそれを直視した。不思議なことに吐き気は消えていた。代わりに、下腹部のあたりに、ドロリとした熱い塊が生まれた。
それは捕食者が獲物の断末魔を聞く時に感じる、全能感に近い昂ぶりであった。
(これは、僕の痛みではない)
孫権は冷徹に観察した。(これは僕が『権力』という牙を振るうために必要な、対価に過ぎない。この老人の肉体は、僕が曹操に勝つための燃料なのだ)。
黄蓋が五十発目の鞭を受けて気絶した時、孫権の心の中で「憐憫」という名の臓器が完全に壊死した。彼は血の匂いが充満する広間で、深く息を吸い込んだ。鉄錆のようなその匂いは、彼にとって初めて嗅ぐ「支配の香気」であった。
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黄蓋という疑似餌を、曹操は疑いなく飲み込んだ。船団を鎖で繋ぎ合わせ、巨大な集積回路と化した曹操軍に、残る変数は「風」のみとなった。
南屏山の七星壇。その中心で諸葛亮が舞い、剣を振るう。いかにもな祈祷であったが、遠くから監視する周瑜には、その演技の裏にある冷めた目が見えていた。
(……大根役者め)
周瑜は舌打ちした。諸葛亮は神になど祈っていない。あれは周囲の兵士に「天の加護」を信じ込ませるための演出だ。実際の彼は、古今の竹簡に記された膨大な天文学を、その冷徹な脳髄で確率論的予測へと収束させているに過ぎない。
周瑜は背筋に冷たいものが走るのを感じた。妖術使いならまだいい。だがこの男は、自然現象すらも論理の檻に閉じ込め、兵器として利用する「気象の解剖学者」だ。この時代において、それは魔術よりも遥かに異質で、未来から来た災厄のような能力だった。
「……風が、変わった」
魯粛が声を上げた。頬を撫でる風が、冷たい北風から湿り気を帯びた南風へと変化する。東南の風。諸葛亮の計算通りだ。
諸葛亮は舞いながら、チラリとこちらを見た。その目は笑っていなかった。
(予定通りです、提督。盤面に「誤差」はありません)
「……殺せ」
周瑜は低い声で命じた。「孔明の首を刎ねろ。あれは人間ではない。知性という皮を被った怪異だ」
だがその時、すでに諸葛亮の姿は祭壇になかった。風が吹く瞬間を見計らい、用意していた小舟でさっさと姿を消していたのである。周瑜はギリリと歯噛みした。
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建安十三年十一月二十日、夜。
墨を流したような闇の中を、火薬と油を満載した黄蓋の火船が、東南の風に乗って加速していく。
孫権は、後方の指揮艦の甲板に立っていた。風の音はゴウゴウと唸りを上げ、まるで地獄の蓋が開く音のようだった。
「火を点けろ」
孫権は呟いた。
前方の闇の中で、爆発的な炎が夜空を焦がした。鎖で繋がれた曹操軍の船は、逃げることも散開することもできず、次々と炎に飲み込まれていく。
悲鳴。肉が焼け、脂が弾け、人間が炭化していく絶叫の奏鳴。紅蓮の炎が川面を真昼のように照らし出した。その光の中で、孫権の顔は朱に染まっていた。
「美しい……」
孫権はうっとりとその光景を見つめた。
あれは曹操軍を焼く炎ではない。僕の「弱さ」を焼却処分する炉の光だ。兄上への劣等感も、曹操への恐怖も、すべてあの炎の中に放り込んで灰にしてしまえばいい。
「もっとだ……もっと燃やせ!」
孫権の手が剣の柄を握りしめ、掌から血が滲む。だが痛みはない。あるのは、破壊衝動が満たされていく甘美な全能感だけだ。隣に立つ周瑜は、炎に照らされた孫権の横顔を見て、誰にも聞こえない声で囁いた。
「……誕生おめでとうございます、我が君」
東南の風は、強まるばかりだった。その風に乗って、濃厚な死臭が漂ってくる。孫権はその匂いを胸いっぱいに吸い込み、ニヤリと笑った。それは、彼が「人間」であることをやめ、生存本能のみで駆動する冷酷な「捕食機械」へと化生したことを祝う、残酷な祝祭であった。




