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江東の蛇 ――碧眼の独裁者・孫権記――  作者: 武陵隠者
第四章:赤壁の霧、知略の蜜

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第四節 震える虎の爪

 議論は、もはや腐敗した肉にたかる銀蝿ぎんばえの羽音に似ていた。

 不快な羽音が、謁見の間に充満する。言葉の意味など、とっくに消失していた。そこに漂っているのは、「生き残りたい」という、あまりにも純粋で、それゆえに醜悪な生物的渇望の波形だけであった。


 孫権は、玉座の肘掛けを指が白くなるまで握りしめていた。血流が阻害され、末端から感覚が失われていく。指先が壊死えしし始めているような錯覚を覚えた。目の前では、またしても張昭ちょうしょうが口角に泡を溜めて熱弁を振るっている。


「曹操の水軍は長江を埋め尽くしております! これに抗うは、虎の尾を踏むがごとし。どうかご決断を。降伏こそが、江東の民を、そして孫家の血脈を救う唯一の道なのです!」


 嘘だ、と孫権は腹の中で反芻はんすうした。こいつは「孫家の血脈」などどうでもいい。こいつが守りたいのは、張家の蔵にある穀物と、書き溜めた書物、そして老後の安寧だけだ。

 胃袋の中で、未消化の朝食が胆汁たんじゅう混じりの酸っぱい液となって逆流してくる。


(僕を売る気だ)


 その事実は、冷厳な「資産洗浄ロンダリング」として成立しようとしていた。呉の豪族たちは、孫権という「不良債権」を曹操に差し出すことで、自らの資産と家名を、未来永劫の安寧へと繋ぎ変えようとしている。彼らにとって孫権は、集団の生存を買い取るための「決済用デバイス」に過ぎなかった。


 怖い。曹操という遠方の怪物が怖いのではない。昨日まで「殿」とかしずいていた家臣たちが、平然と自分を梱包し、値札をつけて出荷しようとしている。その集団心理の変貌の速さが恐ろしかった。

 人間という群れは、種を維持するために欠陥のある個体を切り捨てる。今、排除されるべき不純物は、間違いなく孫権という一個体であった。

                     *


「……主戦論者は、おらぬか」


 孫権は、掠れた声で問いかけた。誰も目を合わせない。

 唯一、平然としているのは、柱の陰に控えている周瑜しゅうゆだけだった。


 周瑜は、薄く笑っていた。その笑みは美しいが、溺れかけている子供を見つめるような、あるいは実験動物の最後のあがきを観察するような、残酷な慈愛に満ちていた。周瑜は、孫権が「正解」を選ぶのを待っているのではない。孫権の理性が耐えきれずに悲鳴を上げ、別の生き物へと姿を変える「化生けしょう」の瞬間を、司祭のような沈黙で待っているのだ。


(逃げ場はない)


 孫権の脳裏に、諸葛亮のあの無機質な顔が浮かんだ。『あなたには無理だ』。あの言葉が、呪いのように内耳で反響する。


 もし降伏したら?

 曹操の前に引き出され、土下座をし、額を地面に擦り付ける自分。曹操は笑うだろう。「よく来た、孫堅の息子よ」と。そして去勢された家畜として飼われ、数年後、誰も見ていないところで毒を盛られる。竹簡には一行、「孫権、某年某月某日、死す」と記されて終わる。


 ――嫌だ。


 全身の毛穴が収縮した。それは英雄としての誇りなどではなく、「個体としての消滅」に対する、猛烈な拒絶反応だった。家畜として屠殺とさつされるくらいなら、牙を剥いて噛み殺された方がマシだ。

 いや、それも違う。噛み殺されるのではない。噛み殺すのだ。僕を殺そうとする奴らを。僕を売ろうとする奴らを。全員、肉塊に変えてやる。


 恐怖が限界点を超えた。極度の「怯え」が、純粋な「殺意」へと相転移した瞬間であった。


「……公瑾」


 孫権は呼んだ。周瑜が、滑るように進み出た。


「勝てるか」


「勝てます」


 根拠などどうでもよかった。周瑜の声の響き――その完璧に調律された楽器のような響きだけが、孫権の震える背骨に一本の鉄筋を通した。


「曹操軍は所詮、北の馬乗り。水の上では、ただの浮いた肉塊です。……天は、我らに味方しております」


「天か」


 孫権は鼻で笑った。天など関係ない。これは、僕が生き残るための、極めて私的な虐殺の始まりだ。

                     *


 孫権は立ち上がった。膝がガクガクと笑っている。それを隠すために、右手を腰の剣に伸ばした。


「皆、聞け!」


 孫権は叫んだ。声が裏返ったが、もう構わない。「曹操は漢の賊である! 予は、父と兄の志を継ぎ、逆賊を討つ! 降伏などありえん!」


 広間が静まり返った。文官たちの顔には「何を言っているんだ、この若造は」という侮蔑の色があった。張昭が再び理路整然とした降伏論を吐こうと、老いた喉を鳴らした。


(黙れ、黙れ、黙れ!)


 論理では勝てない。ならば、論理が通用しない領域――暴力で、ねじ伏せるしかない。


 孫権は、剣を抜いた。金属音が静寂を引き裂いた。その手は激しく痙攣けいれんしていた。だが、制御を失った暴力ほど、周囲に根源的な恐怖を与えるものはない。


「これより!」


 孫権は、目の前の紫檀したんの書案を見下ろした。


「降伏を口にする者は!!」


 孫権は剣を振り上げた。狙いなど定めていない。ただ、体の中に溜まった汚泥のような恐怖を叩きつけたい一心だった。


 ――斬ッ!


 鈍い音が響いた。鮮やかな一刀両断ではない。過剰な力任せの一撃が、机の角を砕き、へし折った音だ。木片が飛び散り、ささくれ立った断面が白く露出する。その断面は、開放骨折した手足のようになまなましく、引き裂かれた神経のような髄が覗いていた。


「この、机のようになると思え!!」


 孫権は叫んだ。視界が赤い。目の前の文官たちが、全員、首のない死体に見えた。この机のように、お前たちの頭蓋を叩き割ってやれば、僕のこの震えも止まるだろうか。


 今までとは違う種類の沈黙が、謁見の間を支配した。張昭の顔から血の気が引いていた。

 彼らは理解したのだ。孫権が「立派な決断」をしたから黙ったのではない。目の前にいる若者が「狂った」と直感したから黙ったのだ。


 理性も損得勘定も通じない、純粋な暴力。ここで口答えをすれば、本当に斬られる。生理的な危機感が、老人たちの口を縫い合わせた。


「……承知いたしました」


 周瑜が静かに頭を下げた。その優雅な所作が、孫権の粗暴な振る舞いを「至高の決断」へと塗り替えた。

「軍の指揮は、私が執ります。……文官の方々は、兵站と物資の輸送に全力を尽くしていただきましょう。誰一人、遊ばせておくわけにはいきませんよ」


 周瑜の視線が文官たちを射抜く。それは、もう逃げられない地獄への同行を強いる、共犯者の目であった。


 孫権は、剣をさやに戻そうとしたが、手が震えてうまくいかなかった。鞘口に切っ先が当たるカチャカチャという乾いた音が響く。誰も笑わなかった。その震える手こそが、彼らが直面する「予測不能な未来」そのものだったからだ。


 ようやく剣を収めると、孫権は玉座に座り込んだ。汗が背中を伝う。

 だが、不思議と気分は悪くなかった。むしろ、下腹部のあたりに、くらく熱い塊が生まれていた。他者の生殺与奪を握るという、生理的なたかぶりであった。


(燃やしてやる)


 孫権は、ささくれ立った断面を見つめながら心の中で呟いた。

(曹操も、この老いぼれどもも、兄上の亡霊も、全部灰にしてやる)


 震えは止まっていた。その瞳孔は開ききり、そこには人間的な光彩は一切残っていなかった。そこにいたのは、虎の毛皮を被った英雄ではなく、生存本能のみで駆動する、冷酷な「捕食機械」であった。


 建安十三年の冬。こうして呉は、赤壁という巨大な火葬場へ向かうことを決定したのである。

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