第三節 二つの美しい腫瘍
周瑜、字は公瑾。この男の存在を一言で定義するならば、呉という湿潤な風土が生み出した、最高傑作の「免疫機能」である。
彼は美しかった。だが、その美しさは愛でるためのものではない。研ぎ澄まされた刃が放つ機能的な冷たさと、触れれば指が落ちるような危うい鋭利さ。それが人の目には、ただ「美」として映るだけの話だ。
鄱陽湖での練兵を切り上げ、柴桑へ帰還した周瑜は、まさに一陣の疾風であった。彼が城門をくぐった瞬間、それまで澱んでいた城内の空気が一変した。降伏論という名の腐敗臭が吹き飛ばされ、代わりに鉄と革、そして男たちの吐息――すなわち「戦」という、健康的で暴力的な活気が満ちたのである。
周瑜にとって、呉という国家は自らが調律すべき「旋律」であり、手入れを欠かさぬ「庭園」であった。そこに曹操という無粋な不協和音が混じることは許されない。雑音は消し、雑草は抜き、害虫は握りつぶす。それは政治的な判断というより、完璧を求める奏者が鍵盤の上の塵ひとつを許せぬのと同様の、生理的な潔癖さであった。
「……公瑾、戻ってきてくれたか」
孫権は、救いを求めるように周瑜の手を握った。周瑜は、主君の瞳の奥に澱む怯えを冷徹に見抜いたが、それを咎めはしなかった。怯えは生存の種火だ。それを「殺意」という名の推進力へ変換してやるのが、兄・孫策から託された、守護者としての己の役目である。
「我が君。心配には及びません。曹操軍八十万など、所詮は北の乾燥地帯で育ったカビの塊。長江の湿気と波に晒されれば、自重で崩壊いたします」
周瑜の声は、よく響く楽器のように心地よく、孫権の脳内に溜まった不安の滓を洗い流していく。だが、周瑜の鋭敏な嗅覚は、別の異臭を嗅ぎ取っていた。曹操という腐敗臭とは異なる、無機質で、透明で、それゆえに猛毒の気配を漂わせる何者かが、この城の奥深くに潜り込んでいる。
「魯粛が連れてきた客人がいるそうですね。諸葛孔明とか」
対面は、夜に行われた。
周瑜の執務室。調度品の一つ一つに至るまで美意識が行き届いたその空間に、諸葛亮が入ってきたとき、周瑜は自分の脳の未使用領域が、チリチリと発熱するのを感じた。
(……なるほど。これは、人間ではないな)
諸葛亮は静かに拱手した。その佇まいは、血の通った肉体というよりは、一振りの冷たい青磁器のようであった。血管の中を流れているのは熱い血ではなく、水銀のような透明な冷気ではないかと思わせるほどの異質さ。激情に突き動かされる江東の人間とは、明らかに生命の設計図が違う。
「周瑜提督。お噂はかねがね」
「孔明殿。……私の『噂』か。音の乱れを咎める、偏屈な音楽家とでも聞いているのかな?」
「いいえ。混沌たる濁流を、美しい旋律へと変える、稀代の『指揮者』である、と」
視線が交錯した瞬間、二人の間では膨大な思念の奔流が交換された。
凡百の将が一生を賭しても迷い歩く混迷の盤面を、二人は一瞥の間に共有した。兵站の細り、風が孕む熱、長江の水底に沈む岩の起伏。それら千変万化する戦の呼吸が、二人の知性という名の濾過器を通るや、瞬く間に「勝利」という一滴の劇薬へと精製されていく。
それは、高次元の生命同士による、求愛にも似た優位の簒奪であった。
「曹操軍は巨大です」
諸葛亮が、歌うように言った。「巨大すぎる生物は、自らの重力で潰れるのが天の理。……ですが、その巨大な死体を片付けるには、いささか大きな『火』が必要でしょう」
「火、か」
周瑜は口角を上げた。この男は、すでに答えに辿り着いている。火攻め。風向き、鎖による船の連結、偽装投降――それらすべてを、この男は呼吸するように計っている。
周瑜の背筋を、ゾクゾクとした快感が走り抜けた。理解者がいる。この孤独な宇宙で、自分と同じ深度で理を見ている同種がいる。それは魂が震えるほどの歓喜であり、同時に、胃の腑がねじ切れるほどの強烈な拒絶反応の源泉でもあった。
(……殺さねばならん。曹操などより、よほど危険な異物だ)
曹操は物理的な脅威に過ぎないが、諸葛亮は概念を書き換える脅威だ。彼は、周瑜が完璧に作り上げようとしている「呉」という作品に、勝手に筆を入れ、書き換え、あるいはキャンバスごと焼き払う力を持っている。
一つの生態系に、頂点捕食者は二匹いらない。
「孔明殿」
周瑜はあえて甘い、毒を含んだ声を出した。「貴殿の主、劉備殿は兵力が少ない。……ここは一つ、我々のために、曹操軍の兵糧庫を襲ってはくれまいか? 聚鉄山にあるという」
婉曲的な死刑宣告。無理難題を押し付け、失敗すれば軍律で斬る。魯粛が慌てて止めようとしたが、諸葛亮は涼しい顔で羽扇を揺らした。
「……なるほど。兵糧攻めですか。提督、水に生きる者が山へ行くのは、魚に木登りをさせるようなもの。それは道理に合いませぬ」
諸葛亮はふわりと言葉を躱した。瞳が、周瑜の殺意を鏡のように反射する。
「私はもっと別の形で火種を用意いたしましょう。……東南の風が吹く頃までに」
「ほう?」
周瑜の目が猛禽のそれになった。冬のこの時期、長江では逆風である北西の風しか吹かない。だが、こいつは天候の乱れさえも指先で操るというのか。
沈黙が落ちた。蜂蜜のように重く、甘美な沈黙。互いの知略が絡み合い、相手の急所を探り合っている。かつて味わったことのない知的興奮。孫策との日々が「光と熱」であったなら、諸葛亮との時間は「氷と毒」だ。致死的だが、飲むのをやめられない蜜の味。
「……よかろう」
今はまだ、この劇薬が必要だ。曹操という巨大な病巣を切除するために、この鋭利すぎるメスを使わねばならない。だが、手術が終われば――。
「お手並み拝見しよう。だが、期待を裏切れば、軍法は容赦しない」
「心得ております」
諸葛亮は深々と頭を下げた。その細い首の上にある脳髄には、周瑜ですら戦慄するほどの怪物が棲んでいる。
諸葛亮が去った後、周瑜は自分の指先を見つめた。まだ微かに痺れている。
「公瑾、あのような無理難題を」
「子敬。……あれは、生かしておけんよ」
周瑜は立ち上がり、窓を開けた。暗い夜の水面下で、魚たちが食らい合いながら生きている。
「この世に、美しいものは一つでいい。……二つの太陽は、空を焦がすだけだ」
それは、己の作品の完成度を守ろうとする芸術家の、悲痛な叫びにも似ていた。諸葛亮という存在は、美しすぎる「腫瘍」だ。呉という宿主の論理を無視して肥大し、いつかすべてを飲み込んでしまう。今はその毒をもって北の疫病を制するが、用が済めば切り捨てねばならない。
「……殺すのは、赤壁が燃え尽きてからだ」
周瑜は夜風を吸い込んだ。肺の奥まで冷気が染み渡る。その冷たさは、獲物を前にした捕食者が飛び掛かる寸前に体温を下げるような、静謐な殺気の冷たさであった。




