第二節 舌という名の解剖刀
魯粛が連れ帰ったのは、人間というよりは、天の運行を精密に模した「神霊的な観測機器」のような男だった。諸葛亮、字は孔明。
長身である。皮膚は薄く、血管が透けて見えるほどに白い。その体軀は、泥を這う労働や血を流す戦闘といった生身の熱量を拒絶していた。ただ天の理を抽出し、地上の混迷を演算するためだけに設計された、冷たい青磁器のような透明感を漂わせている。彼が船から降り立ち、呉の土を踏んだとき、周囲の温度が数度下がったように感じられたのは、おそらく気のせいではない。彼は、熱狂や恐怖といった湿度の高い感情を削ぎ落としていた。あるのは、絶対零度の論理による「星算」だけである。
魯粛は、この「劇薬」を慎重に運搬していた。劇薬は死に瀕した病を治すこともあるが、扱いを誤れば宿主を即死させる。魯粛は、この男が呉という国に対してどのような煉丹的変容を起こすのか、期待と不安の入り混じった表情でその横顔を盗み見ていた。
「……ここが、柴桑ですか」
諸葛亮が呟いた。感嘆の色はない。彼はただ、目の前にある都市の構造、兵の配置、そしてそこから漂う「敗北という名の死臭」を、理の断片として脳に吸い上げているだけだった。
「いい風が吹いていますね。……腐肉に群がる蠅の羽音も聞こえる」
*
謁見の間には、呉の名士たちが待ち構えていた。張昭を筆頭とする文官たちである。彼らにとって諸葛亮は「疫病神」であった。曹操という新しい宿主へと乗り換えようとしている最中に、「抗戦」という非現実的な毒を持ち込まれては、商談の邪魔なのだ。
諸葛亮が部屋に入ると、数十の鋭い視線が突き刺さった。だが諸葛亮は動じない。彼はまるで檻の外から騒ぐ獣を観察するような目で、ぐるりと一同を見渡した。
「曹操軍は百万と号しております」
口火を切ったのは張昭だった。老獪な行政官らしく、まずは数字という質量を突きつけた。「劉備殿は当陽で敗れ、逃げ回るばかり。そのような敗軍の将の使いが、我が呉に何を説こうというのか」
周囲から失笑が漏れる。だが、諸葛亮は羽扇をゆっくりと揺らすと、薄い唇の端を数ミリだけ吊り上げた。それは微笑みというより、処置を前にメスの切れ味を確かめる外科医の表情だった。
「敗軍、とおっしゃるか」
諸葛亮の声は静かだが、よく通った。「我が主・劉備は、寡兵をもって曹操の野心に抗い続けている。それは、義を知る者としての当然の生理です。……ですが、あなたがたはどうでしょう?」
諸葛亮は、羽扇の先を張昭に向けた。
「戦わずして膝を屈し、家の安泰と己の禄位を守ろうとしている。……それは『賢明』なのでしょう。ですが、それは人としての賢明さではなく、宿主の腹の中で養分を啜る、寄生虫としての生存本能に過ぎない」
一瞬、場が凍りついた。彼らの本質――「国家という宿主が死ねば、次の宿主に移ればいい」という無意識下の戦略を、あまりにも正確に言語化されたからだ。
「な、無礼な!」
「我々は呉の安寧を思って……」
「安寧?」
諸葛亮は、汚らわしいものでも見るように目を細めた。「あなたがたが守りたいのは、己の屋敷の塀の内側だけでしょう。曹操が来れば民は焼かれるかもしれないが、名士であるあなたがたは統治の『部品』として重宝される。……その計算高い安全地帯から、命がけで抗う者を笑う資格が、どこにありますか?」
解剖であった。諸葛亮の舌は鋭利な刃となって、文官たちの分厚い虚飾を切り裂き、その下に隠された醜い保身を白日の下に引きずり出していった。次々と論客が挑みかかるが、その度に諸葛亮の一言で返り討ちに遭う。それは議論というより、害虫を一つずつ潰していく作業に似ていた。
*
文官たちを黙らせた後、諸葛亮はついに孫権の前に通された。
孫権は玉座の上で強張っていた。彼は見ていたのだ。自分の家臣たちが、この青白い男に次々と皮を剥がされていく様を。恐怖と、そして奇妙な爽快感。だが、もしこの解剖刀が自分に向けられたら――。
「……お初にお目にかかる。劉備殿の使い、諸葛孔明か」
孫権は、威厳を取り繕おうと、あえて低い声を作った。諸葛亮は孫権を見上げた。その瞳は、暗い井戸のように深く、底が見えない。彼が見ているのは孫権という個体ではなく、「曹操に対抗しうる軍事リソースの管理者」という機能だけだ。
「孫将軍」
諸葛亮は挨拶もそこそこに本題に入った。
「曹操の勢いは凄まじい。このままでは呉もひとたまりもないでしょう。……そこでご提案があります。降伏なさいませ」
孫権の眉がピクリと跳ねた。
「戦力差は歴然です。無理に戦えば、将軍ご自身もただでは済まない。……幸い、曹操は有能な『器』を好みます。早々に北面して臣下の礼を取れば、命までは取られまい。せいぜい、長安あたりの静かな屋敷で、飼い殺しにされる程度で済みましょう」
諸葛亮の口調は事務的だった。死相を読み取り、淡々と死を宣告する司命神のように。
「……ふざけるな」
孫権の声が震え始めた。「ならば、なぜ劉備殿は降伏しない! 彼の方が、よほど追い詰められているではないか!」
「我が主は、漢室の皇叔であり、天下の英傑です」
諸葛亮は、ここぞとばかりに毒を注入した。「英傑というものは、義のためには命を惜しまぬものです。逆賊に膝を屈することは、その血脈の『生理』が許さない。……しかし」
諸葛亮は、憐れむような目で孫権を見た。「あなたは違う。……無理をすることはありません。王の種を持たぬ者として、ふさわしい生き方をなさればよい」
それは、孫権の急所を正確無比に貫く一撃だった。兄・孫策への劣等感。自分は凡庸だという自覚。諸葛亮は言っているのだ。『お前には王たる血脈の輝きがないのだから、大人しく去勢されて、安全なベッドで寝ていろ』と。
血管の中で、血液が沸騰する音が聞こえた。屈辱。曹操への恐怖以上に、この男の「透明な軽蔑」が、孫権の内臓を雑巾のように絞り上げた。
「……黙れ!!!」
孫権は叫んだ。自分でも驚くほど高い声だった。
「もういい! 退れ! 更衣へ行く!」
王が尿意や嘔気に支配されるという、最も無様な生理反応を晒してでも逃げ出すしかなかった。孫権は逃げるように広間を出て行った。背中に、諸葛亮の冷ややかな、すべてを予見しているような視線を浴びながら。
*
隠し部屋に入った瞬間、孫権は崩れ落ちた。壁に手をつき、荒い息を吐く。指先が痺れ、心臓が肋骨を内側から叩き割ろうとするかのように暴れている。図星を指された自分自身への、惨めな怒り。
孫権は壁を爪で引っ掻いた。ガリッ、ガリガリッ。漆喰が剥がれ、爪の間に食い込む。痛みが、少しだけ理性を引き戻す。
(僕は、弱い)
誰よりも知っている。兄上のように、戦場で笑うことなどできない。曹操が怖い。死ぬのが怖い。諸葛亮の言う通り、降伏して、田舎で静かに暮らすのが一番幸せなのかもしれない。
――だが。
脳裏に、あの外科医のような諸葛亮の目が浮かんだ。「あなたには無理だ」と、僕という存在の敗北を断定したあの目。
(……あの目を、見返したい)
曹操を倒したいのではない。ただ、あの澄ました顔をした氷の神像を驚かせてやりたい。「計り知れぬ」と言わせてやりたい。僕を去勢された不能者扱いしたことを、後悔させてやりたい。
孫権の中で、ドロドロとした暗い情念が凝固し始めた。それは、正義感などという美しいものではなく、極めて個人的で、幼稚なまでの「殺意」だった。
「……魯粛!」
孫権は扉の外の魯粛を怒鳴りつけた。
「周瑜を呼べ。至急だ。公瑾を呼べ!」
孫権は、剥がれた爪から滲む血を舐めた。鉄の味がした。その味は、これから始まる血みどろの宴への、呼び水のようだった。




