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江東の蛇 ――碧眼の独裁者・孫権記――  作者: 武陵隠者
第四章:赤壁の霧、知略の蜜

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第二節 舌という名の解剖刀

 魯粛ろしゅくが連れ帰ったのは、人間というよりは、天の運行を精密に模した「神霊的な観測機器」のような男だった。諸葛亮、あざなは孔明。


 長身である。皮膚は薄く、血管が透けて見えるほどに白い。その体軀は、泥を這う労働や血を流す戦闘といった生身の熱量を拒絶していた。ただ天の理を抽出し、地上の混迷を演算するためだけに設計された、冷たい青磁器のような透明感を漂わせている。彼が船から降り立ち、呉の土を踏んだとき、周囲の温度が数度下がったように感じられたのは、おそらく気のせいではない。彼は、熱狂や恐怖といった湿度の高い感情を削ぎ落としていた。あるのは、絶対零度の論理による「星算せいざん」だけである。


 魯粛は、この「劇薬」を慎重に運搬していた。劇薬は死に瀕した病を治すこともあるが、扱いを誤れば宿主を即死させる。魯粛は、この男が呉という国に対してどのような煉丹れんたん的変容を起こすのか、期待と不安の入り混じった表情でその横顔を盗み見ていた。


「……ここが、柴桑さいそうですか」


 諸葛亮が呟いた。感嘆の色はない。彼はただ、目の前にある都市の構造、兵の配置、そしてそこから漂う「敗北という名の死臭」を、ことわりの断片として脳に吸い上げているだけだった。


「いい風が吹いていますね。……腐肉に群がる蠅の羽音も聞こえる」

                     *


 謁見の間には、呉の名士たちが待ち構えていた。張昭を筆頭とする文官たちである。彼らにとって諸葛亮は「疫病神」であった。曹操という新しい宿主へと乗り換えようとしている最中に、「抗戦」という非現実的な毒を持ち込まれては、商談の邪魔なのだ。


 諸葛亮が部屋に入ると、数十の鋭い視線が突き刺さった。だが諸葛亮は動じない。彼はまるで檻の外から騒ぐ獣を観察するような目で、ぐるりと一同を見渡した。


「曹操軍は百万と号しております」


 口火を切ったのは張昭だった。老獪な行政官らしく、まずは数字という質量を突きつけた。「劉備殿は当陽で敗れ、逃げ回るばかり。そのような敗軍の将の使いが、我が呉に何を説こうというのか」


 周囲から失笑が漏れる。だが、諸葛亮は羽扇をゆっくりと揺らすと、薄い唇の端を数ミリだけ吊り上げた。それは微笑みというより、処置を前にメスの切れ味を確かめる外科医の表情だった。


「敗軍、とおっしゃるか」


 諸葛亮の声は静かだが、よく通った。「我が主・劉備は、寡兵をもって曹操の野心に抗い続けている。それは、義を知る者としての当然の生理です。……ですが、あなたがたはどうでしょう?」


 諸葛亮は、羽扇の先を張昭に向けた。


「戦わずして膝を屈し、家の安泰と己の禄位を守ろうとしている。……それは『賢明』なのでしょう。ですが、それは人としての賢明さではなく、宿主の腹の中で養分を啜る、寄生虫としての生存本能に過ぎない」


 一瞬、場が凍りついた。彼らの本質――「国家という宿主が死ねば、次の宿主に移ればいい」という無意識下の戦略を、あまりにも正確に言語化されたからだ。


「な、無礼な!」

「我々は呉の安寧を思って……」


「安寧?」


 諸葛亮は、汚らわしいものでも見るように目を細めた。「あなたがたが守りたいのは、己の屋敷の塀の内側だけでしょう。曹操が来れば民は焼かれるかもしれないが、名士であるあなたがたは統治の『部品』として重宝される。……その計算高い安全地帯から、命がけで抗う者を笑う資格が、どこにありますか?」


 解剖であった。諸葛亮の舌は鋭利な刃となって、文官たちの分厚い虚飾を切り裂き、その下に隠された醜い保身を白日の下に引きずり出していった。次々と論客が挑みかかるが、その度に諸葛亮の一言で返り討ちに遭う。それは議論というより、害虫を一つずつ潰していく作業に似ていた。

                     *


 文官たちを黙らせた後、諸葛亮はついに孫権の前に通された。


 孫権は玉座の上で強張っていた。彼は見ていたのだ。自分の家臣たちが、この青白い男に次々と皮を剥がされていく様を。恐怖と、そして奇妙な爽快感。だが、もしこの解剖刀が自分に向けられたら――。


「……お初にお目にかかる。劉備殿の使い、諸葛孔明か」


 孫権は、威厳を取り繕おうと、あえて低い声を作った。諸葛亮は孫権を見上げた。その瞳は、暗い井戸のように深く、底が見えない。彼が見ているのは孫権という個体ではなく、「曹操に対抗しうる軍事リソースの管理者」という機能だけだ。


「孫将軍」


 諸葛亮は挨拶もそこそこに本題に入った。

「曹操の勢いは凄まじい。このままでは呉もひとたまりもないでしょう。……そこでご提案があります。降伏なさいませ」


 孫権の眉がピクリと跳ねた。


「戦力差は歴然です。無理に戦えば、将軍ご自身もただでは済まない。……幸い、曹操は有能な『器』を好みます。早々に北面して臣下の礼を取れば、命までは取られまい。せいぜい、長安あたりの静かな屋敷で、飼い殺しにされる程度で済みましょう」


 諸葛亮の口調は事務的だった。死相を読み取り、淡々と死を宣告する司命神しめいしんのように。


「……ふざけるな」


 孫権の声が震え始めた。「ならば、なぜ劉備殿は降伏しない! 彼の方が、よほど追い詰められているではないか!」


「我が主は、漢室の皇叔こうしゅくであり、天下の英傑です」


 諸葛亮は、ここぞとばかりに毒を注入した。「英傑というものは、義のためには命を惜しまぬものです。逆賊に膝を屈することは、その血脈の『生理』が許さない。……しかし」


 諸葛亮は、憐れむような目で孫権を見た。「あなたは違う。……無理をすることはありません。王のたねを持たぬ者として、ふさわしい生き方をなさればよい」


 それは、孫権の急所を正確無比に貫く一撃だった。兄・孫策への劣等感。自分は凡庸だという自覚。諸葛亮は言っているのだ。『お前には王たる血脈の輝きがないのだから、大人しく去勢されて、安全なベッドで寝ていろ』と。


 血管の中で、血液が沸騰する音が聞こえた。屈辱。曹操への恐怖以上に、この男の「透明な軽蔑」が、孫権の内臓を雑巾のように絞り上げた。


「……黙れ!!!」


 孫権は叫んだ。自分でも驚くほど高い声だった。


「もういい! 退さがれ! 更衣かわやへ行く!」


 王が尿意や嘔気に支配されるという、最も無様な生理反応を晒してでも逃げ出すしかなかった。孫権は逃げるように広間を出て行った。背中に、諸葛亮の冷ややかな、すべてを予見しているような視線を浴びながら。

                     *


 隠し部屋に入った瞬間、孫権は崩れ落ちた。壁に手をつき、荒い息を吐く。指先が痺れ、心臓が肋骨を内側から叩き割ろうとするかのように暴れている。図星を指された自分自身への、惨めな怒り。


 孫権は壁を爪で引っ掻いた。ガリッ、ガリガリッ。漆喰が剥がれ、爪の間に食い込む。痛みが、少しだけ理性を引き戻す。


(僕は、弱い)


 誰よりも知っている。兄上のように、戦場で笑うことなどできない。曹操が怖い。死ぬのが怖い。諸葛亮の言う通り、降伏して、田舎で静かに暮らすのが一番幸せなのかもしれない。


 ――だが。

 脳裏に、あの外科医のような諸葛亮の目が浮かんだ。「あなたには無理だ」と、僕という存在の敗北を断定したあの目。


(……あの目を、見返したい)


 曹操を倒したいのではない。ただ、あの澄ました顔をした氷の神像を驚かせてやりたい。「計り知れぬ」と言わせてやりたい。僕を去勢された不能者扱いしたことを、後悔させてやりたい。


 孫権の中で、ドロドロとした暗い情念が凝固し始めた。それは、正義感などという美しいものではなく、極めて個人的で、幼稚なまでの「殺意」だった。


「……魯粛!」


 孫権は扉の外の魯粛を怒鳴りつけた。


周瑜しゅうゆを呼べ。至急だ。公瑾こうきんを呼べ!」


 孫権は、剥がれた爪から滲む血を舐めた。鉄の味がした。その味は、これから始まる血みどろの宴への、呼び水のようだった。

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