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江東の蛇 ――碧眼の独裁者・孫権記――  作者: 武陵隠者
第四章:赤壁の霧、知略の蜜

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第一節 北からの疫病

 歴史という巨大な肉体の新陳代謝を俯瞰ふかんするならば、曹操孟徳そうそうもうとくという存在は、あまりに強力な「消化酵素」であった。あるいは、あらゆる地方の色彩を分解し、均質な灰色へと還元していく、極めて感染力の強い「菌糸」と呼ぶべきかもしれない。


 建安十三年(二〇八年)、秋。

 中華の北半分は、すでに曹操という名の無機質な静寂に染め上げられていた。かつて群雄が割拠し、袁紹や呂布といった色とりどりの野心が百花繚乱ひゃっかりょうらんのごとく繁殖していた華北の地は、いまや単一の秩序によって塗り潰され、窒息している。


 曹操軍。その実体は、もはや「軍隊」というカテゴリーを超越していた。それは、秩序という名の排泄物を垂れ流しながら南下する、巨大な捕食生物の群れだった。彼らが通過した土地からは、個人の野心や、独自の文化、そして「己が主」という誇りといった雑菌が死滅する。残るのは、効率的に管理された戸籍と、規則正しく徴収される税、そして息が詰まるような静寂だけだ。


 その灰色の菌糸が、いま、長江という大動脈の北岸にまで達しようとしていた。

                     *


 最初の崩壊は、荊州けいしゅうで起きた。

 荊州の主・劉表りゅうひょうが病死するや否や、後を継いだ息子の劉琮りゅうそうは、戦うことなく曹操に降った。これを「臆病」と断じるのは、戦場の外にいる者の感傷に過ぎない。生物学的に見れば、劉琮の判断は、圧倒的な環境変化に対する「適応」であった。

 抵抗しても食い殺されるだけなら、早々に腹を見せて、巨大な捕食者の一部として取り込まれた方が生存確率は高い。劉琮の細胞は、恐怖によって壊死するよりも、曹操という巨大なシステムの一部として代謝されることを選んだのだ。


 問題は、その消化スピードが速すぎたことだ。

 曹操軍は、荊州の水軍と物資を丸ごと飲み込み、それを己の栄養として肥大化させながら、休むことなく南下を続けた。その数、八十万とも百万とも号する。

 重要なのは、それが「江東の全人口をすり潰しても余りある質量」を持っているという、残酷な事実だけであった。

                     *


 孫権の手元に届いた檄文げきぶんは、最高級の素材で作られていたが、そこからは圧倒的な暴力の臭気が漂っていた。


『近頃、罪人の劉琮を討ち、荊州の地を平らげた。今、水軍八十万の衆を率い、まさに貴地へ向かんとしている。願わくは、将軍と呉の地にて、共に狩りを楽しみたいものである』


「共に狩りを(会猟)」

 文学的な表現である。だがその行間に刻まれているのは、極めて即物的な通告だった。

 ――首を垂れよ。さもなくば、消毒する。


 孫権は、竹簡を持つ手がじわりと汗ばむのを感じた。恐怖という言葉で処理するには、その感覚はあまりに生理的すぎた。胃の腑が冷たくなり、はらわたが収縮し、心臓が不規則な鼓動を刻み始める。それは、草食動物が、風に乗って流れてきた肉食獣の強烈な獣臭を感知したときの、全身の毛穴が逆立つような防衛反応だった。


(……来る)

 兄・孫策が死んでから八年。必死に守り、耕してきたこの江東を、あの北の怪物が蹂躙じゅうりんしに来る。父の仇を討ったことも、山越を鎮圧したことも、今となってはコップの中の嵐に過ぎない。いま、孫権の目の前に迫っているのは、天を覆い尽くす本当の暴風であった。

                     *


 広間には、呉の主要な家臣たちが集まっていた。だが、そこに秩序はなく、沈没船の甲板で逃げ惑うネズミのようなパニックだけがあった。


「八十万だぞ! 抵抗などできるわけがない!」

「荊州の水軍まで奪われたのだ。もはや丸裸同然ではないか!」


 孫権が席に着くと一瞬の静寂が訪れたが、すぐにまた騒音が再開した。

 孫権は、碧眼へきがんを細めて彼らを観察した。彼らの目は、死を恐れているのではない。「損」を恐れているのだ。曹操という新しい宿主の下で、自分たちがどれだけの資産を維持できるか。その損益分岐点を必死に弾き出しているのだ。


「……皆の意見を聞こう」

 孫権が、かすれた声で言った。最初に進み出たのは、張昭ちょうしょうだった。


「我が君。……ここは曹操の檄文に従い、和を請うべきかと存じます。戦えば江東の民は灰燼かいじんに帰し、孫家の血も途絶えましょう。家を保つためには、一時、頭を下げるのが賢明な策……」


 もっともらしい言葉だ。「民の安寧」という砂糖をまぶしてあるが、その芯にあるのは「寄生きせいの論理」であった。

 張昭ら江東の名家たちにとって、孫家とは栄養を吸い上げるための「宿主ホスト」に過ぎない。宿主が死にかけているならば、彼らは心中などしない。より巨大で、より栄養豊富な新しい宿主――曹操へと乗り換える準備を始めているのだ。


 孫権は、怒りよりも先に、激しい吐き気を覚えた。

 こいつらは、僕を守ろうとしているのではない。孫権という古い看板を下ろして、曹操という新しい看板に掛け替えようとしているだけだ。彼らにとって、孫権は「交換可能な部品」に過ぎないのだ。


「……少し、頭を冷やす」

 孫権は立ち上がった。張昭の制止を無視して、奥のかわやへと逃げ込んだ。

                     *


 個室に入り、壁に手をついてえずいた。

「うっ、おぇぇ……」

 黄色い胆汁が逆流してくる。喉を焼くのは、純粋な恐怖の味だった。


 ふと、隅にある水瓶を覗き込んだ。暗い水面に揺れている自分の顔は、虎の皮を被っただけの、惨めな猿に過ぎなかった。曹操が怖い。八十万の軍勢が怖い。そして何より、自分を売り渡そうとしている家臣たちの冷徹な眼差しが、何よりも恐ろしかった。


(降伏すれば、助かるのか?)

 張昭たちは助かるだろう。実務の才ある彼らを、曹操も統治のために利用するはずだ。

 では、僕は?

 ……殺される。直感的に、そう確信した。一度でも王の座に座った人間は、新しい王にとって最大の不純物ウイルスだ。孫権という存在は、あの合理主義者の曹操にとって、真っ先に排除されるべき異物なのだ。


「……僕は、廃棄されるだけの器か」

 水瓶の水を顔に浴びせ、水分をぬぐったその時、扉の外で声がした。


「我が君。……魯粛ろしゅくでございます」


 孫権は身なりを整えて扉を開けた。魯粛はどこか飄々《ひょうひょう》として、底知れぬ深みを湛えた瞳で立っていた。


「……張昭たちの意見、どう思う」

 孫権は、すがるような響きにならないよう注意して尋ねた。魯粛はゆっくりと首を振った。


「張昭殿らの言うことは、彼らにとっては正論です。彼らは曹操に降っても、これまで通りの地位を保てるでしょう。ですが、主君は……貴方様はどうなされますか?」


 魯粛は一歩、孫権に近づいた。

「彼らは『着替え』ができます。孫家という衣を脱ぎ、曹操という衣を着るだけのこと。ですが、貴方様には脱ぐべき衣などございません。貴方様は、この呉という肉体そのものです。衣を脱ぐのではなく、皮を剥がされるのです。……それでも、和をわれますか?」


 図星だった。孫権の最も柔らかい肉を、魯粛の言葉が正確に抉り取った。

 そうか。僕は、逃げられない。寄生虫たちは宿主を変えられるが、宿主自身は、自分の体から逃げ出すことはできないのだ。


「……魯粛。周瑜しゅうゆを呼べ」


 孫権の目から、怯えが消えたわけではない。だが、その瞳孔の奥に、追い詰められた獣特有のくらい光が宿り始めていた。

「それと、お前が連れてきたという、あの客人もだ。……劉備りゅうびのところの、諸葛亮しょかつりょうもな」


 魯粛が、かすかに口角を上げた。それは禁忌の術を試そうとする方士ほうしの笑みであった。「北からの疫病には、劇薬が必要です。……ただし、その薬もまた、身体を焼き尽くす猛毒かもしれませんが」


 孫権は窓の外を見た。長江が茶色く濁った水を湛えて流れている。

 巨大な消化器官。あの胃袋の中に、曹操軍八十万をぶち込んで、消化できるだろうか。それとも、呉が消化されて排泄されるのが先か。


 孫権は自分の腹をさすった。吐き気は、いつの間にか「飢え」に似た感覚へと変わっていた。殺意という名の、空腹感だった。


(僕を食おうとする奴は、全員、餌だ)


 孫権の中で、何かが音を立てて切り替わった。それは英雄の覚醒などという美しいものではなく、生存本能のリミッターが外れ、彼自身が「巨大な消化器官」へと変容した音だった。

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