第五節 首級と虚無
死体というものは、どれほど丁寧に防腐の処置を施そうとも、その自己主張をやめない。石灰をまぶし、何重にも油紙で包み、漆塗りの桐箱に収めたとしても、そこからは確実に「死」が漏れ出してくる。それは甘ったるく、鼻の奥の粘膜にじっとりとへばりつくような、有機物が分解され土へと還ろうとする際の生理的な拒絶を誘う臭いだ。
呉の霊廟。歴代の孫家の祖霊が眠るこの場所は、ひんやりとした石の冷気と線香の煙、そして箱から立ち昇る微かな腐臭に満たされていた。
孫権は、祭壇の前に跪いていた。正面には父・孫堅の位牌。その下段に、兄・孫策の位牌が並んでいる。孫権は手にした箱を、父の位牌の前に置いた。ことり、と軽い音がした。
「……父上」
孫権は口を開いた。儀礼としての報告を紡がねばならない。
「不肖、孫権。ついに仇敵・黄祖を討ち取りました。その首級、ここにお供えいたします。これで父上の無念も晴れましょう……」
言葉が、上滑りしていく。自分の口から出る音声が、まるで他人の台詞をなぞっているかのように空虚に響き、廟の天井に吸い込まれて消えていく。
感動がない。涙も出ない。本来なら、ここで号泣し、積年の恨みを晴らしたカタルシスに打ち震えるべき場面だ。物語作家ならそう劇的に書くだろうし、民衆もそれを期待している。
だが、現実はどうだ。
父はいない。どこにもいない。ここにあるのは、物言わぬカルシウムの塊と、石灰にまみれた腐肉の塊だけだ。復讐とは、死んだ時間を生きた時間に変える魔法だと思っていた。だが実際は、死肉を別の死肉の前に移動させるだけの、虚しい移送作業に過ぎなかった。
(……兄上なら)
ふいに、闇の奥から比較対象が這い出してくる。
もし兄が生きていて、黄祖を討ったなら。彼はきっと、この箱を蹴り開け、中身を掴み出し、血まみれの首を高々と掲げて父の霊に快哉を叫んだだろう。その姿は、どれほど残酷で、どれほど絵になったことか。
背後の闇から、先祖たちの囁きが聞こえるような気がした。
『弟君もよくやったが、やはり先代の覇気には及ばぬな』
『まあ、お膳立ては周瑜たちがやったようなものだ』
『あの方の役目は、最後に首を受け取るだけの事務員だ』
幻聴だ。だが、その幻聴は現実の喝采よりも重く、鋭く彼の芯を射抜いていた。孫権は、箱に手を置いた。箱を通して、中身の冷たさと湿り気が、まるで泥のように手のひらへ伝わってくる。
「……くだらない」
孫権は呟いた。父にか、兄にか、それとも復讐という名の茶番劇にか。自分でもわからぬまま、孫権は立ち上がった。彼はもう、振り返らなかった。
*
夜。戦勝の祝宴が開かれた。
広間は熱気に包まれていた。酒が川のように流れ、肉が山のように積まれ、瞬く間に兵たちの胃袋へと消えていく。共通の敵を解体した「共犯者」としての連帯感が、会場を支配していた。
孫権は上座で、仮面のような笑みを浮かべていた。頬の筋肉が引きつりそうになるのを、強い酒を煽ることで誤魔化している。自分だけが、分厚い氷の向こう側に隔離されているような疎外感。
「……お疲れのようですな」
涼やかな声が、熱気を切り裂いて届いた。周瑜だった。この美周郎は、泥酔した武人たちの中にありながら、一滴の酒もこぼさず、氷の彫像のように佇んでいた。
「周瑜か。……皆、楽しそうだ」
「ええ。獣は、腹が満たされれば一時は大人しくなります。これは次の獲物を狩るための、軍という名の機構の調律に過ぎません」
周瑜の言葉には微塵の感傷もなかった。彼にとってこの宴も、巨大な戦力という獣を御し、その飢えを管理するためのメンテナンス作業に過ぎない。周瑜は孫権の目を真っ直ぐに見つめた。孫権が抱える虚無も、兄への劣等感も、すべてを見透かしているようだった。
「我が君。過去の清算は終わりました。死者は、もう土に還すべきです。これよりは、生者の世の話をしましょう」
「生者の世?」
「北です」
周瑜の視線が、長江の彼方を射抜いた。
「曹操が動きます。華北を平らげた怪物が、次は必ずこの江東へ牙を剥くでしょう。黄祖などとは比較にならぬ、真の恐怖がやってきます」
曹操。その名を聞いた瞬間、孫権の背筋に冷たいものが走った。だが不思議なことに、その恐怖は今の彼にとっては救いでもあった。「父の復讐」という湿っぽい物語の終焉。代わりにやってくるのは、「生存」という剥き出しの真理の世界だ。
「……勝てるか、公瑾」
孫権は、机の下で拳を握りしめながら尋ねた。周瑜は、天盤を操る策士が難問を前にした時のような、挑戦的な笑みを浮かべた。
「勝たねば、皆殺しにされるだけです。我々には、もう逃げ場はありません。あの甘寧のような狂犬も、凌統のような激情家も、すべて使い潰して抗うしかありませぬ」
使い潰す。その言葉が、孫権の腑に落ちた。
そうだ。僕は太陽(兄)にはなれない。だが、この冷徹な刃(周瑜)を振るい、あの凶暴な獣(甘寧)を躍らせるための「空位」にはなれる。何者でもないからこそ、あらゆる者を機能として配置できるのだ。
「……そうだな」
孫権は杯を干した。酒が喉を焼き、胃の腑の冷たさを一時的に麻痺させた。
*
宴が果て、夜明け前。孫権は一人、城の裏手にある長江の岸辺に立っていた。足元には、あの桐箱があった。
川風は生臭く、そしてどこか懐かしい。孫権は箱の蓋を開けた。中には、石灰にまみれた黄祖の首がある。もはや父の仇としての威厳も、人間の尊厳もない。ただの有機的なゴミだ。
「……さらばだ。もはやお前に食わせる情念など、欠片も残っていない」
孫権は箱を逆さにした。ボチャン。鈍い音がして、首が水面に落ちた。首は一度だけ浮き上がり、白濁した目で孫権を見上げたように見えたが、すぐに濁流へと沈んでいった。
あっけない最後だった。父の死も、兄の無念も、彼を縛っていた八年間の重圧も、すべてはこの一瞬の水音と共に長江の泥の中へと消えた。孫権は空になった手を振った。恐ろしいほどに、軽い。
彼は、北の空を見上げた。群青色の空の向こうから、曹操という巨大な黒雲が迫ってくる。震えが来た。だが、孫権はその震えを止めようとはしなかった。
(来るなら来い)
孫権の碧眼が、暗闇の中で怪しく光った。虎の威を借る必要はもうない。僕は、地を這い、泥を啜り、毒を吐く蛇となって、あの巨象を待ち受けてやる。
英雄ごっこは終わりだ。これからは、生き残るための、もっと醜く、もっと生々しい殺し合いが始まる。
孫権は踵を返した。その足取りは、来る時よりも確かなものになっていた。背後で、長江がゴボリと音を立てた。巨大な消化器官が、古い時代を飲み込み、消化を終えた合図のように。




