第3話、夜の外張
アイゼンガルド学院の入学式という「死線」を潜り抜け、ようやく公爵邸の自室に戻った私――リーンを待っていたのは、安眠ではなく、高難易度アクションゲー特有の「夜間ボーナスステージ」の気配だった。
(……ち、ちょっと待って。なんで扉の向こうに『裏ボス』が完全武装状態で待機してるのよ!?)
本来、このゲームの夜時間は、週に1回ほどの間隔で暗殺者や魔物をなぎ倒して経験値を稼ぐボーナスゲームがある。
問題は、中ボスとしてのライナスが「お遊び程度の強さ」で襲ってくるイベントがあるはずなのだが
……今の状況は、その中ボスが味方の顔をして、部屋の真ん前で不動の姿勢を貫いているのである。
(寝られない……。あいつの放つ「守護の圧」が強すぎて、空気がキンキンに凍りついてるじゃない!)
耐えきれなくなった私は扉を細く開け、廊下に佇む「死神」へ声をかけた。
「……ライナス。もう夜も更けたわ。貴方も自分の部屋で休んだらどうかしら?」
チラッ……チラッ……
遠回しな「帰れ」の合図。だが、ライナスは氷の彫刻のような無表情のまま、至極真面目に答える。
「お嬢様。本日の学院での一件により、貴女の異才を危険視する勢力が動き出すのは自明の理。このライナス、一粒の塵すらお嬢様の眠りを妨げることは許しません。これは公爵家筆頭執事としての、最低限の『実務』にございます」
(……嘘おっしゃい! 今のあんた、本来なら窓から侵入してくるはずの敵を、庭の時点で全滅させたわね!? さっきから庭の方で『ポリゴンが消滅する音』が聞こえてるもの! あっ、さてはこいつ、道中の攻略手順を効率化して、イベント自体を消滅させたな……?)
本来なら私が戦って経験値を得るはずの敵を、彼は「実務」という建前で一掃している。パニックに陥った私の情緒は、もう限界だった。
極限状態の混乱の中「ヒナ」の理性がふっと途切れる。代わりに顔を出したのは、肉体の年齢に引きずられた十二歳の「リーン」の純粋な感情。
私はライナスの燕尾服の裾を、涙目でぎゅっと握りしめた。
「……ライナス。……怖いよ。……いっしょに、いて……?」
上目遣いで、本気で甘えるような震える声。
その瞬間、目の前の死神の身体が、一瞬だけ石のように硬直した。
「……左様でございましたか。お嬢様を不安にさせてしまったこと、深くお詫び申し上げます。……では、扉が閉まるその瞬間まで、私の存在を感じていてください」
ライナスはいつものように完璧な微笑みを浮かべ、私の頭を優しく撫でた。その手つきは驚くほど丁寧で、まるで壊れやすい神像に触れる巡礼者のようだった。
その落ち着いた所作に、私の混乱もようやく和らぎ、ベッドに入ってすぐに深い眠りにつくことができた。……その直後に、扉の向こうで何が起きているかも知らずに。
リーンの寝室の扉が、静かに閉まる。
その瞬間まで、完璧な「執事」の仮面を維持していたライナスの表情が、劇的に崩れ去った。
「…………っ、……は、ぁ……ッ!!」
彼は弾かれたように扉から数歩下がり、激しく高揚した顔を片手で乱暴に覆った。
白磁のような彼の頬は、今や熱を帯びて真っ赤に染まり、耳の付け根まで赤みが差している。壁に手をつき、荒い呼吸を繰り返すその姿には、戦場を支配した『銀盤の死神』の威厳など微塵もなかった。
(……なんと、恐ろしい。……いや、なんと美しいんだ……!)
脳裏に焼き付いて離れない。涙を浮かべた大きな瞳。自分の裾を握りしめた、小さくて震える指先。そして、あの甘えるような、魂を直接揺さぶられるかのような無垢な声。
「……いっしょに、いて……?」
リピートされるその言葉に、ライナスの胸の奥が激しく脈打つ。
それは色欲などではない。もっと根源的な、己の信仰が具現化した奇跡を目の当たりにした者の、狂信的な羨望と『崇拝』だった。
(数式が、組めない……。私の演算が、彼女の一言で全て吹き飛んでしまう……! このライナス、一生をかけてもこの輝きを理解し尽くせぬかもしれん……!)
彼は再び、愛おしげに、そして執念深く扉を見つめた。その瞳には、もはや「執事」としての職分を超えた、ドロドロとした熱を帯びた「崇拝」が渦巻いている。
「……ええ。どこまでも、地獄の果てまでもお供いたしましょう。お嬢様……貴女が望むなら、私は神にさえなってご覧に入れましょう。……この、胸の震えが治まるまでは……」
彼は自嘲気味に微笑み、再び仮面を被り直す。
だが、その心臓は未だに、主という名の「唯一の太陽」への異常なまでの渇望で、激しく打ち震えたままだった。
・
━━翌朝。
昨夜の「甘え攻撃」の記憶を(あ、あれは極限状態のバグだったのよ!)と脳内消去した私は、清々しい気分で食堂へ向かった。
「おはよう、ライナス。……あら、なんだか少し顔色が悪いわね? どこか具合でも悪いのかしら」
迎えてくれたライナスは、相変わらず一分の隙もない立ち居振る舞いだったが、その瞳の奥にはうっすらと隈が浮かんでいる。
「……いえ。お嬢様の安眠を確実なものにするため、少々『術式の最適化』に没頭しておりましたゆえ。お気になさらず」
(……嘘ね。あの隈、絶対に昨夜の私のせいで一睡もできなかったパターンのやつだわ。裏ボスを不眠症に追い込む十二歳って、強すぎない?)
若干の申し訳なさを感じつつ席に着くと、テーブルには朝食と共に、一通の重厚な封書と、宝石箱のような小箱が置かれていた。
「お嬢様。旦那様――ブッシュバルド卿より、入学祝いの品と手紙が届いております」
「お父様から? ……開けてみましょうか」
私は背筋を伸ばし、公爵家の印章が押された手紙を開いた。
書き出しは、いかにも『魔導工学の父』らしい、厳格で威厳に満ちたものだった。
『親愛なる愛娘、リーンへ。アイゼンガルドの門を潜ったとのこと、まずはその壮挙を称えよう。伝統という名の錆びついた数式に、君が新たな風を吹き込んだと聞き、我が血脈の誇りを感じている。これからは、公爵家の名に恥じぬよう――』
(……うっ、緊張するわね。やっぱり当代最強の魔導師、言葉の重みが違うわ……!)
私は居住まいを正し、続きを読み進めた。だが、中盤からインクの跡が怪しくなり、文体が劇的に崩壊し始める。
『………というのは建前でね! ああ、パパはもう寂しくて実験どころじゃないんだ! 寮生活なんて中止にして今すぐ帰っておいで!
入学祝いに、魔導演算を千倍にする特注のタクトを贈るよ。えっ?どんな杖かって?
……これを使えばムカつく公爵令息の家の結界くらい鼻歌一曲で更地にできるからね!
頑張れパパの天使! 世界で一番愛してるよ!!ちゅっ!!』
………パタン、と。
私は無言で手紙を閉じ、何事もなかったかのようにパンを口に運んだ。
「……お嬢様? 旦那様は何と?」
「……。魔導工学の発展を願っている、という非常に有益なアドバイスだったわ」
(………そっとじね。なかったことにしましょう。パパ、国家機密レベルの兵器をお祝いに贈ってこないでよ!)
朝食を終え、私はカレンダーを確認した。
今日はゲーム内での「休日(自由行動)」にあたる日。
学院生活初日に向けて、歌学の構成を練り直そうか、それともライナスの機嫌を取るためにガレットでも焼きに行こうか……。
チリンチリンチリンッ……
そんな私の思考を遮るように、玄関の呼び鈴が、せわしなく、そして無遠慮に鳴り響いた。
「お嬢様。……どうやら、休日の平穏を乱す不届き者が現れたようです」
「こらこらっ、物騒よライナス……とりあえず出てみましょう……」
ライナスの声が、一瞬でマイナス四十度の殺気を帯びる。
扉の向こうに立っているのは、ゲームの攻略対象か、それとも━━━。




