第22話、忘却のアリア、放課後の残響
暗闇の中、熱病のような記憶が一つだけ剥がれ落ちずにこびりついている。
「復讐しよう」
――そう言って、汚れた手で飴玉を差し出した少年。
直後に響いた重い金属音と、引き離される感覚だけが俺に残された「人間」としての最後の温度だった。
あれから数年。繰り返される手術と調整の果てに、かつて分かち合った懐かしい飴玉の味も、その手の温もりも、演算のノイズとして処理されるほどに薄れてしまった。
だが、彼と交わしたあの不確かな「約束」だけが、冷え切った脳の片隅で今も小さな火花のように明滅している。
──実験棟の冷たい寝台から引き剥がされた瞬間、俺の意識は既に自分のものではなかった。
脳内に埋め込まれた『銀盤』の最終調整が完了した数週間後、与えられたのは休息ではなく実戦という名の「最終検品」だった。
「1042番、兵装展開。……適合率97パーセントを維持……」
白ずくめの研究者たちの声が、遠いノイズのように聞こえる。彼らはついこの間まで、友と飴玉を分け合っていたガキであることなどとうに忘れていた。
それは彼らの野心を形にするための、最も高価で最も無慈悲な「魔導回路」に過ぎない。
首筋のプラグに重厚な魔導外骨格が直結され、俺の神経系は強制的に軍の広域演算ネットワークへと同期させられた。
行き先も戦う理由も教えられない。
ただ移送用のコンテナに詰め込まれ、戦火の立ち込める最前線へと「投下」されるだけだ。
魔導飛空艇のコンベアから放り出されるように戦場に降り立った瞬間、周りを包んでいた沈黙は爆音と断末魔の不協和音に塗り潰される。
だが、俺の心臓は驚くほど静かだった。
脊髄に埋め込まれた銀盤が、溢れ出そうとする「恐怖」をコンマ数秒で演算し無機質な「敵排除の数式」へと変換し続けていたからだ。
俺は、ただの『道具』になった。
俺は、ただの『数式』になった。
「――1042番、演算を開始せよ。目標、第一防衛線を維持する敵精鋭の排除」
脊髄にある銀盤が高周波を上げ、視界を幾何学的な魔導数式で埋め尽くす。
瞬間、泥を跳ね上げ戦場を駆けた。
かつて母さんの鼻歌に聞き入った耳は、今や風を切り裂く魔力の摩擦音と、銀盤が導き出す「殺戮の最適解」しか受け付けない。
一歩踏み出すごとに、指先から放たれる圧縮魔導が敵兵の急所を正確に射抜く。返り血が頬を濡らしても、俺の鼓動は一定のテンポを刻み続けていた。
感情は去勢され、痛みは数値として処理される。ただの「歩く演算機」だった。
視界の端で赤く明滅していた敵の反応が、一つ、また一つと消えていく。
周囲に満ちていた絶叫はいつしか途絶え、残されたのは肉が焦げる臭いと、システムが告げた一面青色の盤面。そして、無機質な文字列だけだった。
すでに大勢は決した。
この戦場に残る生者は、処理を待つだけの「残骸」に過ぎない。終わりの処理へと向けて、最適化された思考を指示通りに実行に移そうとした――その時だった。
――戦火の煙を切り裂いて、一人の敵兵が肉薄してきた。
「――っ!?」
速い。銀盤の先読みさえも、その「泥臭く、必死な動き」に一瞬の遅延を強いられる。
(こいつは━━同業者か?!)
漆黒の外套に身を包んだその敵兵は、首筋のプラグから黒い雷を迸らせ、自らの命を削り取るような過負荷で食らいついてくる。
ガギィィン!!
剣と魔力がぶつかり合い、火花が視界を焼く。
互いに首筋のプラグを激しく明滅させながら、死の舞踏を繰り広げる。
圧倒的な力。脊髄の銀盤が弾き出す最適解を、相手は「執念」に近い動きで次々と崩してくる。
(くっ………)
肺が焼け魔力が枯渇しかける。俺は初めて、この『死神』の演算が追いつかない恐怖を感じていた。
――だが決着の瞬間相手が僅かに手を緩めた。
一瞬の隙。
反射的に銀盤が「正解」を叩き出す。
俺は最短の軌道で、魔力を凝縮させた短剣を敵兵の胸へと深く突き立てた。
「……がはっ、あ……、……な……す……」
耳に届いたのは喉を震わせる、掠れた吐息。
「……アル? ……え……?」
返り血で真っ赤に染まった視界を、震える両手で何度もこすり合わせる。
(嘘だ……違う、そんなはずはない……ただの錯覚だ!)
自分の目にこびりついた赤を必死に拭い去ると、そこには胸を貫かれ、力なく崩れ落ちるアルの姿があった。
かつて泥にまみれた拳を合わせ、復讐を誓い合ったあの少年が、今は俺の剣に貫かれている。
──気づいたときには遅かった。俺たちは、互いに「実験体」として、敵対する軍勢へと使い捨ての駒(スペア)のように配置されていたのだ。
「……よかった……。お前、は……ちゃんと、生きて……たんだな……」
アルは溢れる血を厭わず、かつて初めて出会ったときと同じように、優しく俺の頬を撫でようとした。だが、その手は血で汚れ、震えている。
「……本当は、……こんなものお前に……背負わせたくなかった……。……お前は、もっと……別の……何かを……」
アルの瞳に、ライナスへの深い悔恨が滲む。復讐などという呪いではなく、普通の幸せを掴んでほしかったという兄のような慈しみ。だが、今のこの地獄で復讐という火を消してしまえば、彼はただの「数式」として使い潰されるだけなのだと理解していた。
「……約束だ。……これだけが俺たちの……証だから……」
アルは震える手で、俺の血塗られた拳を、あの日のようにそっと包み込んだ。
「……ライナス。……行け。……俺を殺した、この世界……全部を……ぶち壊し……。……お前が、……俺たちの『正解』に……なるん……だ」
それは、重荷を背負わせるための呪いではなくライナスが「ライナス」として在り続けるための、最後で唯一の希望。
アルの瞳から光が消え、彼が命を賭して守り抜いた「復讐」という名の灯火が、今、俺の手の中で消えることのない業火へと変わった。
「――ぁ、……あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
銀盤の制御限界を突破し絶望が爆発する。
脳内を真っ赤なエラーログが埋め尽くし、首筋のプラグから黒い雷が噴き出して、周囲の土を爆ぜさせた。
殺す──殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺すぁぁぁぁぁ!!!!!!
暴走。
俺は叫びながら、見境なく周囲を破壊し始めた。自分自身の肉体さえも、魔力の奔流で引き裂こうとする狂気の咆哮。
「……1042番! 停止しろ! システムが焼き切れるぞ!」
後方で「白ずくめ」の管理者が叫ぶが、狂乱した俺の耳には届かない。
その時だった。
ドォォォォォォォォン!!
雷鳴のような衝撃。
突如、視界を焼き潰すほどの圧倒的な「光」が目に飛び込んだ。直後、天から巨大な質量が降り注ぐ。
「?!! がはっ……!」
暴走していた魔力も狂熱も、張り裂けんばかりの咆哮も、その一撃の下に完封された。
圧倒的な「重力」を伴う魔力が俺をねじ伏せ、石畳へと叩きつける。
……薄れゆく意識の中、見上げた先にいたのは、巨大な戦斧を肩に担ぎ、野獣のような笑みを浮かべた一人の男――。
若き日のブッシュバルドだった。
「やかましいぞ小僧。……せっかくの酒が不味くなるような『音』を立てやがって」
魔術師とは到底思えない立ち振る舞いで、瓦礫の向こう側から詰め寄ってきた「白ずくめ」の管理者を鼻で笑い飛ばす。
「くっ……これは軍の資産だ。貴様のような野良魔術師が触れていいものではないぞ!」
「資産? ほぉ、これがか? 俺の目には、ただの腹を空かせたクソガキが泣き叫んでるようにしか見えねえんだがな。
……そうだ。いいことを思いついた」
ブッシュバルドは倒れた俺を無造作に抱え上げた。
「このガキは、俺がもらう。お前ら『粛清』の薄気味悪い管理から解放してやるよ。……あぁん、なんだってぇ?文句があるなら陛下に直接言えよ。意見だけは聞いてやる。
……だが、俺の戦場を汚した落とし前はこいつの『教育』で返してもらうぞ」
「……き、貴様……! 正気か!?」
気圧され反論できずに立ち尽くす白ずくめの男。
ブッシュバルドは豪快に笑い俺を抱えたまま硝煙の立ち込める戦場を悠々と歩き出した。
遠のく意識の端で、俺は初めて誰かの「熱」を感じながら暗闇へと落ちていった。
・
━━━深い、深い闇の底。
ライナスの絶望的な記憶の濁流に呑み込まれたリーンの意識は、穏やかな「残響」の中へと着地した。
とめどなく流れていた涙の後をぬぐい、目を開けるとそこは夕暮れに染まった放課後の教室だった。
窓の外からは野球部が白球を追う「カァン!」という乾いた打音と、遠く響く掛け声。
それは、リーン――かつて音大生だった「ヒナ」が過ごしたありふれた現代の日常。
「……あ」
窓際の席に誰かが座っていた。
少し崩した制服。いたずらっぽく笑う見覚えのある姿。
「――ねえ、先輩。音楽は好き?」
後輩ちゃんは頬杖をつきながら問いかけてくる。その瞳の奥には、どこか現実離れしたこの世界のすべてを見透かしているような「何か」が揺れていた。
「……辛いならやめてもいいよ? 先輩。……だって、あっちの世界は、最初からバッドエンドが決まってる、ただの残酷なステージなんだから」
後輩ちゃんの言葉は甘い毒のようにヒナの意識に絡みつく。
「ここなら誰の死を悼む必要もないし、重すぎる愛に怯えることもない。……ここでただ窓の外を眺めていれば、……それで終わり。どう? 投げ出しちゃう?」
ヒナは一瞬だけ目を閉じた。
──瞼の裏には血に濡れた手でライナスの拳を包み込み、「お前が、俺たちの『正解』になるんだ」と、命の火を振り絞って笑ったアルの最期……彼の壮絶な過去が、鮮烈に焼き付いていた。
(……あんなの、見ていられないわ。……あんな復讐でしか自分を証明できないような残酷な旋律、私が書き換えてあげなきゃ……)
ヒナはゆっくりと目を開け、後輩ちゃんを真っ直ぐに見つめた。
「……ううん。私、歌うよ。……やめるわけないじゃない」
「……へぇ。どうして? 先輩はただのプレイヤーなのに」
「プレイヤー? 何それ。……でも、私の隣には世界一不器用で、一生懸命に私を守ろうとする執事がいるんだもの。……彼に、私にしか出せない最高の『和音』を聴かせてあげなきゃ。……それが、私のプライドよ」
後輩ちゃんは一瞬きょとんとした表情で目を見開いた。
やがて、その瞳に少しの憂いと満足げな微笑みを浮かべると、ゆっくりと椅子から立ち上がる。
「……やっぱり先輩は面白いや。……いいよ。その『不協和音』。最後まで鳴らしきってみて。……またね」
後輩ちゃんの姿が夕闇の中に溶けるようにフェードアウトしていく。
それと同時に、教室の景色も野球部の掛け声も、すべてが泡となって弾け飛んだ。
・
ハッと目を開けるとそこは自分の寝室だった。
窓からは月明かりが差し込み柔らかな夜の静寂が満ちている。
(……あれ? 私、何を……。……そうだ、後輩ちゃんと、教室で……)
さっきまで脳内を支配していた、ライナスの凄絶な過去の記憶。
それが朝日が露を消すように瞬く間にリーンの意識からこぼれ落ち、消えていく。
(……何かすごく悲しい夢を見ていた気がする。……でも、思い出せない)
心に残ったのは、ただ、目の前の男を「守りたい」という、強い敬愛の感情だけ。
ふと視線を落とすと自分の小さな手を包み込むように、大きな、けれど微かに震えるライナスの手が重ねられていた。
彼はベッドの脇に膝をつき祈るような姿勢で、目を覚ましたリーンを見つめている。
「…………」
その瞳には自分の「不協和音」と向き合ってきた後のような、深い、深い沈黙が宿っている。
「……ライナス」
「…………。……お目覚めですか、お嬢様」
リーンは微かに微笑み重ねられた彼の手にぎゅっと力を込めた。
「うん……おかえりなさい、ライナス。……私の、大好きな執事さん」
最後に、聞き取れないほどの小さな声でつぶやいた私の旋律は、ライナスの顔にかつてないほど穏やかな、敬愛と忠誠の波が広がっていくのが分かった。
お読みいただきありがとうございます。
次話は金曜となります。




