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第20話、銀盤の死神が生まれた日(其の一)

 あの頃の僕はまだ「音」の本当の恐ろしさを知らなかった。


 ましてや遠く離れた国の情勢なんて僕にとっては別世界の、全然関係のない話だったんだ。






 ──アイゼンガルドという大国が魔法兵器を量産しているとか、国境の緊張が高まっているとか。そんな不穏なニュースは、僕の住む街には微塵も届いてはこなかった。


 そこはどこにでもある平和な街。


 人々の笑い声と、季節を運ぶ風の匂い。それらが当たり前のように溶け合うその場所が、当時の僕にとっての世界のすべてだった。


 あの日、あの「音」がすべてを塗りつぶしてしまうまでは。



        




カーンッカーンッカーンッ………


 「おいライナス! 授業終わったぜ。これから裏山に、秘密基地の続きを作りに行こうぜ!」


 終礼の鐘が鳴り響く教室。机を叩いて騒ぐ友人たちの誘いに、僕は教科書を鞄に詰め込みながら苦笑いで返した。


「あー、悪い今日はパスだ。母さんと約束があるんだよ」


「ちぇっ、またかよ。お前本当に母ちゃんのこと大好きだなぁ!」


「うるさいな、まったく……じゃあまた明日!」


 冷やかしを背中で受け流し僕はそそくさと校舎を飛び出した。

 一刻も早く家に帰りたかった。


 (今日は、父さんに学校で習った算術の解き方を自慢するんだ。

 ……それに母さんは確か、今日のアフタヌーンティーにアップルパイを焼くって言ってたな。あの甘くて香ばしい匂い……もう通りまで漂ってるかも……)


 そんな他愛もない独白が僕の頭の中を心地よいリズムで満たしていた。


「ただいま! 母さん、帰ったよ!」


 玄関の扉を勢いよく開け靴を脱ぎ散らかして中へ飛び込む。


「あら、おかえりなさいライナス。……こら、ちゃんと手は洗ったの? そんな泥だらけの手でパイに触ったら承知しないわよ」


 キッチンから顔を出した母さんが、エプロンで手を拭きながらからかうように笑う。


「わかってるって! 今すぐ洗ってくるよ。……ねえ、着替えたらちょっと外で遊んできていい? パイが焼き上がるまでには戻るから!」


「もう、元気ねぇ。……夕飯までには必ず帰るのよ。お父様も今日は早く帰るって仰ってたんだから」


 母さんの小言を背中で聞きながら、僕は二階の部屋で素早く外着に着替えた。


「さっさと行ってきなさい!」と苦笑い混じりに送り出された僕は、再び表の通りへと駆け出す。


 午後の光が降り注ぐ通りは、いつも通りの活気に満ちていた。


 石畳の道を、荷物を積み上げた馬車が「ゴトゴト」と規則正しい音を立てて追い抜いていく。

角の露店では、馴染みの店主が「今日はいい林檎が入ってるよ!」と威勢のいい声を上げ、買い物帰りの婦人たちが立ち止まっては楽しげな噂話に花を咲かせていた。


 どこからか聞こえる子供たちの笑い声と、パン屋から漂う焼き立ての香り。


 僕はそれらすべてを全身に浴びながら、弾むような足取りで広場へと向かった。


 さて、何をしようか。


 裏山の連中に合流するか、それとも広場ここで誰か探すか。

 そう考えて足を止めた時――。


「……あれ?」


 ふと見上げた空の色が、いつもと違っていた。


 穏やかな橙色の夕焼けを塗り潰すように、不自然なほど濃い影が、地平線の向こうからじわじわと広がってくる。

 

 そして、聞こえてきた。

 僕の敏感な耳がこの街には存在しないはずの「音」を捉える。

 

 重厚な金属が擦れ合う、低い唸り。

 空気を震わせ内臓まで響くような不快な重低音。

 

 雲を切り裂いて現れたのは、巨大な鉄のクジラのような禍々しい輝きを放つ魔導飛空艇だった。




        ・





 空を埋め尽くす巨大な影。聞いたこともない重低音が街の空気を震わせる中、僕は金縛りにあったように動けなくなっていた。


 その時、背後から荒い足音が近づき強い力で肩を掴まれる。


ガシッ!


「ライナス! 何をしてるんだ、はやく中に入れ!」


 振り返ると、そこには仕事から飛んで帰ってきた父さんが立っていた。いつもは整えられている髪は乱れ、実直な文官である彼の顔は、見たこともないほど蒼白だった。


「父さん……あれ、なあに? すごく嫌な音がするよ……」


「……魔導艦隊だ。なぜ、こんな何もない街に……」


 父さんは空を見上げたまま、忌々しげに奥歯を噛み締めた。その瞳には、一介の文官にはどうすることもできない圧倒的な「暴力」への、絶望的な理解が浮かんでいた。


「いいか、ライナス。今すぐ母さんを連れて地下室へ向かうんだ。保存食と水がある。いいな、絶対に外へ出るんじゃないぞ!」


「父さんは!? 父さんも一緒に――」


 「私は後から行く。いいから走れ!」


 父の怒鳴り声に背を押され、僕は全力で駆け出した。


 振り返れば、空はもう僕の知っている「夕焼け」ではなかった。雲を割り天を覆い尽くすように現れたのは、巨大な鉄のクジラ――軍事国家の誇る『魔導艦隊』だ。


 ドォォォ……ン。


 遠く、街の端のほうで低い地響きが鳴った。


「……っ、急げ!」


 父さんに腕を引かれ、僕たちは裏路地へと飛び込む。


 ズゥゥゥン!


 先ほどより明らかに大きな振動が、足裏から脳を揺らした。


 逃げ惑う群衆の悲鳴をかき消すように、爆撃の音は一定の間隔を置いて確実にこちらへと近づいてくる。魔導艦隊が街を端から順に「掃除」しているのだ。


  ドゴォォォォン!!


 二つ隣の通りで火柱が上がった。 熱風が路地裏まで吹き抜け、肺が焼けるような感覚に襲われる。


 あと数秒、立ち止まってしまえば次は僕たちだ。


 角を曲がるたびに、見慣れたパン屋の軒先や、いつも挨拶を交わす隣人の庭先が、巨大な影と爆炎に飲み込まれていく。


 自宅まであと少し。門をくぐろうとしたその時だった。


 ――キィィィィィィィィィン!! 


 鼓膜を直接針で刺されるような高周波。

 艦隊の主砲が、至近距離で魔力を充填する不吉な予兆。


「伏せろっ、ライナス!」


 ドォォォォォン! 


 直後、地響きと共に家々の屋根が吹き飛び、美しい橙色の夕焼けは、一瞬にして真っ赤な火柱と黒煙に塗り潰された。


 衝撃波で突き飛ばされるようにして、僕たちは玄関へと飛び込む。



 家の中では、母さんが棚から落ちた食器の破片の中で立ち尽くしていた。


「あなたっ?! ライナスは?!」


「一緒だ!それより、地下へ! 早くしろ!!」


ドォォォォォン!!



 父さんの叫びと同時に、家のすぐ近くで二度目の爆発が起きた。

 衝撃波が窓ガラスを粉々に砕き、猛烈な熱風が部屋を駆け抜ける。


 さっきまでアップルパイの甘い匂いがしていたリビングは、一瞬で砂埃と焦げた臭いに支配された。


「父さん、母さん! 怖い、怖いよぉ!」


 僕は二人の服を必死に掴んだ。

 でも、僕の耳には聞こえていたんだ。

 次に降ってくる「死の音」が。

 建物の構造が軋み、限界を超えて砕け散る、あの最悪な予兆が。



ドゴッォォォォン!!!


 三度目の轟音。


 それは、今までの比ではなかった。

 家の真上に直撃した魔導爆弾が、天井の梁を、壁を、僕たちの愛した家庭のすべてを無慈悲に押し潰した。


「――っ、――!!」


 父さんと母さんが、示し合わせたように僕を突き飛ばした。

 

「逃げなさい、ライナス! 走り続けなさい!」


 母さんの最後の叫び。

 崩落する重い梁。

 僕の手が届くはずだった二人の背中が、一瞬にして瓦礫の山の下に消えていく。


「父さん!! 母さん!!」


 喉が張り裂けるほど叫んでも、返ってくるのは轟々と燃え盛る炎の音だけ。

 熱風が皮膚を焼き、煙が肺を刺す。

僕の小さな手では、どれだけ瓦礫を掻き出そうとしても、石一つ動かせない。

 

誰かの「領土拡大」という理屈のために。

誰かが描いた冷酷な「進軍の数式」のために。

 僕の世界という名の楽譜は、そこで完全に真っ二つに引き裂かれる。

 燃え盛る街を背に、泥水をすすりながら走り続けた僕の目には、もう黄金色の草原は映っていなかった。


 ただ、灰色の空から絶え間なく降る、冷たい「死の雨」だけが。

僕の幼い心に、消えない氷の楔を打ち込んでいった。




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