第15話、『共鳴するアフタービート』
一歩足を踏み入れた瞬間に悟った。ここは私のいた村とは「法則」そのものが違う。
講堂へと続く大理石の回廊。そこには目に見えないほど細かな魔導数式が、壁の模様に擬態してびっしりと張り巡らされている。
それが私の耳には――。
『キィィィィィン……』
と鼓膜を突き刺すような高周波の駆動音として鳴り響いていた。
(……痛い。頭が割れそう。これがアイゼンガルドの『管理』なの……?)
並んで歩くのはエリート貴族や特待生たち。だというのに誰もがこの音に精神を削られ、呼吸のテンポを強制的に乱されている。
まるで巨大な精密機械の歯車に、生身のまま組み込まれていくような感覚。
そんな時だった。
背後からコツ、コツ、と――。
この完璧なシステムをあざ笑うかのように、軽快な足音が近づいてきたのは──。
振り返った瞬間それを見た私の尻尾の毛がバリバリと逆立つ。
「…………っ!?」
そこにいたのは燃えるような紅い瞳をした一人の少女。そしてその背後に、影のように付き従う漆黒の燕尾服の男。
――死神だ。
私の野生の勘が、最大音量で警報を鳴らす。あの銀髪の執事。彼が動くたびに学院を支配する『神の数列』が、悲鳴を上げて弾け飛んでいくのが見える。
彼の一歩一歩は刻まれるメトロノームの針を力任せにへし折るような、暴力的なリズム。
存在そのものがこの世界の「死」を体現する巨大なバグの塊……!
なのに。
その死神に従えられるはずの少女は、あくびを噛み殺しながら信じられないものを零した。
「……ふふん、ふふ〜ん♪」
鼻歌。
それはあまりにも場違いであまりにも不敵な旋律。
管理された数式を、死神の威圧をまるでお気に入りの玩具のように踏みつけて歩く少女。
ドクン、
と心臓が跳ねる。
彼女が音を零した瞬間私の耳を刺していた刺々しい音の波が、一瞬で「柔らかな和音」へと書き換えられたのだ。
(え……? 今何が起きたの……?)
周りの生徒たちは「うわ、あの美少女、入学式で鼻歌歌ってるよ……」なんて呆れ顔で見ているけれど、違う。そうじゃない!
彼女が歌った瞬間この学院の冷徹で厳かな数式が、彼女の機嫌一つで「調律(ハック)」されたんだ。
「お嬢様。少しはしゃぎすぎでは?」
「いいじゃない、ライナス。ここの空気なんだか堅苦しくて肩が凝るんだもの」
死神――ライナスと呼ばれた男が、底冷えするような声で嗜める。けれどその瞳の奥には、狂おしいほどの忠誠と、彼女の歌に「跪きたい」と言わんばかりの熱が宿っているのを、私は見逃さなかった。
二人が私の横を通り過ぎていく。
その瞬間、風に乗って届いた彼女の香りは、数式のインクの匂いなんかじゃなく春の陽だまりのような温かく濃密な「生命の音」がした。
(――まざりたい……!)
本能がそう叫んだ。あの少女が紡ぐ自由なメロディの中に。
あの娘が刻む絶対的な鼓動の隣に。
私なら、もっと素敵な裏打ちを添えられる。
私なら、もっと心を揺さぶる「うねり」を作れる。
アイゼンガルド魔導学院。ここなら、私の夢――「最高の音を鳴らす」ことが叶うかもしれない。
(「………よし、決めた! 私あの子の隣で「音」を奏でたい!」)
拳をぎゅっと握り私は二人の背中を追いかけるように講堂へと踏み出した。
(お母さん、私……とんでもない『宝物』を見つけちゃったよ!)
・
新入生の適性検査が始まった。壇上に置かれた『真理の水晶』に手をかざし、魔力の純度を測る。
次々と響く「ポーン」という無機質な判定音。一喜一憂する生徒たちの中で、私はさっきの「あの二人」の行方を、耳を澄ませて探していた。
(あのお嬢様、一体何者なんだろう……。あんなに澄んだ音、村の誰からも聴いたことがないよ)
そんな私の探索をひときわ大きく、ひび割れた鐘のような声が遮った。
「どけ! 貴族たるこの私、ガスパールが、真の魔導というものを見せてやろう!」
取り巻きを連れた金髪の少年が周囲を突き飛ばすようにして壇上へ駆け上がる。
彼は得意げに鼻を鳴らすと、仰々しい動作で水晶に両手を叩きつけた。
刹那、水晶がまばゆいばかりの白光を放つ。
「ははは! 見ろ、この輝きを! これこそが選ばれし者の……ッ!?」
ガスパールが愉悦に浸ったのも束の間。私の耳が嫌な予兆をピクリと捉えた。
(……え? 今の『音』。……なにかが不協和音てる?)
直後、水晶の放つ光が急速に濁り始めた。まばゆい白は一瞬でドス黒い紫色へと変色し、その表面にはひび割れたような数式のノイズが走り始める。
キィィィィィィィィィィィン!
突如鼓膜を劈くような金属音が講堂を満たした。
「な、なんだ!? 数式が……私の完璧な計算が、書き換えられていく!?」
ガスパールの絶叫。彼の魔力は「正しい形」をなさず、水晶の精密なシステムを内側から食い破る暴力的な不協和音へと変貌していた。
バチバチと火花が散り制御不能な魔力の残滓が鋭い棘となって、周囲の生徒たちを襲い始める。
(……あちゃぁ。完全に『音』が割れてる。このままじゃ……!)
私は反射的に耳を塞ぎ、身を縮めた。エリートたちの自慢の数式が悲鳴を上げながら崩壊していく。
逃げ惑う群衆。怒鳴り散らす教師たち。パニックの波が一気に講堂を飲み込もうとした
——その時。
ふわり、と。あの春の陽だまりのような「香り」が鼻を掠めた。
――ズガガガガガガガッ!
耳障りなノイズが講堂を埋め尽くす。ガスパールの傲慢な魔力に耐えかねた水晶が、断末魔のような悲鳴を上げていた。
教師たちが慌てて防護障壁を展開しようとするが、暴走した数式の余波が、まるで鋭利なガラス片のようにそれらを次々と叩き割っていく。
「ひ、ひっ……止まれ! 止まれよ、この出来損ないがぁ!」
ガスパールが腰を抜かし無様に這いずり回る。パニックの波が頂点に達し、誰もが目を逸らしたその瞬間――。
「……やっぱり。そんなにギュウギュウに詰め込んだら、苦しくて爆発しちゃうわよ……」
私のすぐ真横で鈴を転がすような、涼やかな声が響いた。驚いて隣を見ると、そこには先ほどの紅い瞳の令嬢
――リーンお嬢様が立っていた。彼女は恐怖に凍りつく群衆とは対照的に、荒れ狂う魔力の奔流をまるで「少し散らかった譜面」でも眺めるような、穏やかな目で見つめていた。
「リーンお嬢様……」
「わかってるわライナス。……少し、風を通してあげなきゃね」
お嬢様は、背後に控える銀髪の執事――ライナスと呼ばれた男の制止を待たずにトントン、と軽やかな足取りで壇上へ歩み出た。
飛んでくる魔力の破片が彼女の肌に触れる直前で、見えない「和音」に包まれて霧散していく。
お嬢様はどす黒く澱んだ水晶の前に立つと、手にした銀の杖をまるで指揮棒のようにスッと掲げた。
「おい、狂ったのか! そこはもう理論上の死域だぞ!」
壇上の端でうずくまる教師が絶叫した――刹那。
音が消えた。
爆発寸前の水晶が放っていた耳障りなノイズも、逃げ惑う者たちの悲鳴もすべてが深い水底に沈んだかのように静まり返る。お嬢様の唇からこぼれたのは言葉ですらない。
それは、たった一筋の旋律だった。
「――♪」
厳格なアイゼンガルド学院の理論では「ノイズ」として切り捨てられるはずの、震えるような吐息の混じった声。
しかし、その音が空気に触れた瞬間講堂を埋め尽くしていたどす黒い魔力の霧が、一斉に黄金色の粒子へと反転する。
「な……んだ、これは……!?」
呆然と呟くガスパール。彼の「完璧な数式」という名の堅牢な檻が、お嬢様の声という「聖なる賛歌」によって内側から優しく解きほぐされていく。
それは冷たい数式という「骨組み」に、歌という名の「魂」を宿す儀式。
(すごい……。まるでお嬢様に合わせて踊ってるみたい……!)
私の耳には確かに聞こえた。今まで「命令」でしかなかった魔導式が、彼女の歌に共鳴し、意志を持った生き物のように脈動し始めた音が。
それは理論の否定じゃない。冷たい数式に彼女の感情という名の色彩が流れ込み、命が吹き込まれていく光景だった。
「……信じられん。数式が……笑っているのか……?」
一人の教師が震える手で眼鏡をかけ直す。
暴走していた水晶は、今や聖母のような慈愛に満ちた輝きを放ち講堂全体を温かな安らぎで包み込んでいる。
歌い終えたリーンお嬢様は、ふう、と小さく肩を回すと壊れ物を扱うように水晶へ指先を触れた。
カラン、と心地よい音を立てて水晶の中の濁りが一粒残らず消え去る。
「はい、おしまい。……ねえライナス、この子とってもいい声で笑ったわよ?」
お嬢様は嵐が去った後のような静寂の中、満面の笑みで傅く執事の元へと駆け寄っていった。
ありがとうございます。
次回投稿は月曜日となります。




