第13話、救い出した日常とベルベット家の顛末
眩い朝日が、公爵邸の私の自室に降り注いでいた。
天蓋付きのベッドの中で、私はゆっくりとまぶたを持ち上げる。
昨夜の廃倉庫街での隠密潜入、そして『歌学』による初の実戦。心地よい気怠さが全身を包んでいた。
(……あ、れ? 身体が……軽い?)
音大生時代、無理な練習やコンクールの翌日には、這い上がることすら億劫なほどの激しい筋肉痛に襲われていたものだ。
今回も「明日の朝が怖い」と震えながら眠りについたのだが、いざ目覚めてみれば、12歳の公爵令嬢の肉体は驚くほど快調そのもの。指先まで魔力が淀みなく循環し、疲労の「ひ」の字すら感じさせない。
(……凄いわね、ゲームキャラのスペックって。これなら毎日徹夜でピアノを弾いても平気じゃない?
……いや、そんな不健康なこと、ライナスが許してくれないでしょうけど)
そんなメタ的な感心に耽っていると、不意に、部屋の重厚な呼び鈴が小気味よく鳴り響く。
「リーン様! おはようございます、入ってもよろしいかしらっ!?」
扉の向こうには、三つ編みのポニーテールを弾ませて駆け寄ってくるシャルの姿があった。
本来、公爵令嬢の私室に許可なく入るなど不敬の極みだが、背後で「すまし顔」で扉をホールドしているライナスの姿が見える。
(……あ、ライナスが通したのね。あいつ、シャルなら私の『癒やし』になると思って、警備のザル化を推奨した……?まさかね……)
そんな他愛もない考えを巡らせているのをよそに、シャルは私のベッドの端に勢いよく腰掛けると、昨夜兄のフェリックスといかに楽しく語り合ったかを、身振り手振りで、それはもう幸せそうに話し始めた。
「聞いて、リーン様! お兄様ったら、昔の話をたくさんしてくださって! それにね、これからはもっとお茶会にも顔を出してくれるって約束してくれたの。
……リーン様が、お兄様に魔法をかけてくださったんじゃないかしら?」
嬉々として語るシャルの無垢な笑顔。一点の曇りもないその瞳。
昨夜、彼女を狙う暗殺者たちが闇に沈んでいたことなど、彼女は微塵も知らない。
(……ああ。尊い。救えてよかった。この笑顔を守るためなら、昨夜のあの恥ずかしい決め台詞を百回唱えても後悔はないわ……!)
込み上げる感情を抑えきれず、私は思わずシャルの柔らかな髪を「なでなで」と慈しみ始めた。
「ふふ、よかったわね、シャル」
「えへへ、リーン様に撫でられるの、大好き……っ」
最初は、ただの微笑ましい光景だった。……けれど。
(………待って。何この質感。シルク? シルクなの? それとも高級な羽毛? 柔らかすぎる、いい匂いがする。
……ああ、ダメだ、手が止まらない。……ええい、どうにかしてこのままテイクアウト(保護)して持ち帰りたい。冗談半分、本気半分……いや、九割くらい本気で、この子を私の部屋に住まわせたい……!)
「あ、あの、リーン様? ちょっと、ちからが、つよい、かも……?」
次第に「なでなで」が「わしゃわしゃ」へと加速し、私の目が据わり始めた頃。
ふと、部屋の隅にある大きな三面鏡の影に、違和感を覚えた。
そこには、シャルからは死角になる位置で、ひらひらと、軽薄に手を振る男の指先が見える。
(……フェリックス)
彼は昨夜の事件を共有する者として、私に「報告がある」と視線で合図を送っていた。
その指先は、シャルの眩しい光を裏で支えるための、少しだけ苦い「真実」を予感させていた。
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私がシャルの髪を吸い込まんばかりの勢いで愛でていると、視線の端でフェリックスが露骨に「早く来い」と手招きをしていた。
私は名残惜しさを無理やり噛み殺し、髪をボサボサにされたシャルに
「どうしてもあそこのワゴンにある、期間限定の冷たいお菓子が食べたいの。用意してきてくださらない?」と、なかば強引にお願いして彼女を部屋から遠ざけた。
シャルが席を外した直後。三面鏡の影から、這い出るようにフェリックスがふらりと姿を現した。
「……おはよう、小さな歌姫。昨夜の事後処理――メイド長の処分の顛末を語りに来たよ」
彼は先ほどまでの軽薄な仕草を消し、ひどく疲れた、けれど静かな表情で言葉を紡ぎ始めた。
「……永久追放にしたよ。ベルベット領からだけでなく、この国の貴族社会からもね。……二度とシャルの前に現れないという条件で」
その言葉を聞いた瞬間、背後に控えていたライナスの周囲の温度が、一気に氷点下まで叩き落とされた。
「……。フェリックス。貴様のその甘さが、いつかお嬢様を危険に晒す火種になる。主の命を売った裏切り者だ。今からでも遅くはない、私がその女の存在ごと消してこようか?」
ライナスの声には、殺気の籠もった冷徹な響きがある。それは一族郎党含めて「消去」されても文句は言えない重罪に対する、この世界の「正解」だった。
だが、私はフェリックスの、どこか寂しげな横顔をじっと見つめていた。
(……彼は、シャルの記憶の中にある『優しいメイドさん』まで殺したくなかったのね。たとえ裏切られても、妹が慕った時間を守りたかった……)
それは、合理性など微塵もない、あまりに不器用な兄の祈り。
私は一歩前に出ると、ライナスの峻烈な殺気を手で制し、フェリックスに向き直った。
「……あなたのその処罰を、私は非難しないわ。甘いかもしれないけれど、それが貴方の選んだ『ベルベットの兄』としての答えなんですもの」
「……リーン……」
「……いいんじゃないかしら。泥水を啜ってでも大切なものを守る、その信念の先に掴み取れる何かが、
……私はきっとあると信じてる。」
私は振り返りながらフェリックスを真正面に見つめる。
「ふふっ──嫌いじゃないわよ、そういうの」
「………」
飾らない本音を吐露した、その瞬間。フェリックスの瞳から完全に「仮面」が剥がれ落ちた。
「………参ったな。……ねえ、リーン。君って子は、本当に……」
フェリックスが、吸い寄せられるように私の顔を覗き込んだ。彼の長い指先が、そっと私の頬に触れようと伸びる。甘く、危うい沈黙。彼が本気で、口説き文句を紡ごうとした――その刹那。
「――『永久氷結』」
パキパキパキィィィィッ!! と、凄まじい凍結音が響いた。フェリックスが立っていた床から、致死量の鋭利な氷の棘が、天井を貫かんばかりに噴き出したのだ。
「おっとぉ!? 怖い怖い! ライナス、今のはマジで僕の存在を抹消しに来たよね!?」
フェリックスは間一髪、窓枠を蹴って宙返りで回避すると、そのまま庭園へと飛び降りた。
「……逃がしたか。お嬢様の肌に触れようとした罪、万死に値する。死ねっ!」
本気で悔しがるライナスの背中に、私は呆れてツッコミを入れた。
「ちょっと、ライナス! 部屋の中に氷山を作らないでって言ったでしょ! お片付け大変なんだから!!」
救い出した平穏の裏で、私の日常は、また別の不協和音で賑やかになろうとしていた。




