第12話、『灰色の猟犬』
王都の西端、運河の澱みに沿って立ち並ぶ廃倉庫街。
かつての物流の要所は今や、崩れかけたレンガ壁と腐った木材が積み上がる、法と光の届かない「吹き溜まり」と化していた。
海風が錆びた鎖を揺らし、不規則な金属音が夜の静寂を掻き乱す。ここが、暗殺集団『灰色の猟犬』の根城だ。
(……ずいぶん陰気な場所。まさにアクションゲームの『ダンジョン』そのものね。あちこちから魔法の反応が響いてくるわ)
私は遮蔽物の陰に身を潜めながら、隣に立つ相棒……もとい、最強の執事を見上げた。
「……ねえ、ライナス。一つ聞いてもいいかしら。なぜ貴方は、よりにもよってこの潜入任務に『黒のタキシード』を選んだの?」
月光に照らされたライナスは、これから夜会にでも出席するかのような完璧な正装で静かに佇んでいる。
(くっ……認めるのは癪だけど……たしかに顔が良いのは認めるわ。
隣で一緒に歩く度に、少しばかり心臓が跳ねてしまうのも否定はしない。
……けれど、今はそんなことよりも!)
彼は裾のライン一つ乱さず、気配を殺して立っている。
燕尾服のポケットに赤いバラの一輪でも差していそうなその姿は、殺風景な廃倉庫にはあまりに不釣り合いで、それでいて腹立たしいほど様になっていた。
対する私はといえば、動きやすさ重視の革の軽鎧の上に、あろうことか『猫耳フード付きケープ』という、ふざけた隠密装備を纏っていた。
(……すっかり忘れていたわ。このゲーム、アバター課金要素がえげつなかったのよね。『戦場に舞うタキシードセット』に『限定コラボ:魔法少女風アーマー』……。
そんな「いつ着るのよ」と言いたくなる派手なコスチューム群に比べれば、この猫耳はまだマシな方。ええ、私も猫は好きよ。大好きだけど!)
しかし、何よりの問題はこの男だ。ライナスは私の猫耳を茶化すことも、指摘することすらもしない。
それどころか、まるで伝説の聖遺物を拝むような、至極真面目で厳かな眼差しを私に向けているのだ。
「……お嬢様、何をおっしゃいますか。執事たるもの、いついかなる時も主の隣で最高の礼節を保つのが義務。たとえそれがドブネズミの巣穴の中であろうとも、です」
(うぅ……その「お似合いです」と言わんばかりの慈愛に満ちた瞳をやめてよぉ!!
殺気より鋭い視線が私の羞恥心にぐっさぐさ刺さってくるんだけどぉ!)
一刻を争う潜入任務。敵の足音に神経を尖らせるライナスと、この格好で公道を歩いた精神的ダメージから立ち直れない私。
(だめだ……ねえ、この状況で死ぬほど恥ずかしくなっているのは、もしかして私だけなのかなぁっ!?)
──そんな運営の悪趣味な課金衣装(装備)に対する憤りを押し殺しながら、私たちは幾重にも張られた監視術式を「歌学」で一時的に麻痺させ、倉庫の深部へと潜り込んだ。
崩れかけた二階のキャットウォークから下の広場を覗き込んだその時。
私の耳が、もっとも嫌な「音」を捉えた。
「――準備は整った。ベルベットの小娘を攫い、侯爵家の喉元にナイフを突き立てる」
中心にいたのは、全身を灰色の外套で覆った男。その手元にある地図には、シャルが今まさに眠っているはずの寝室の「数式鍵」の解除コードが、不自然なほど詳細に書き込まれていた。
(……やっぱり。ただの小悪党に、侯爵家の結界を突破できるはずがない。……この『譜面』を書いた、本物の指揮者が裏にいるわね)
私は指先を喉元に当て、空気を調律し始める。
隣で、ライナスが「いつでも消去できます」と言わんばかりに、死神の貌で私の合図を待っていた。
埃っぽく、カビと鉄錆の匂いが充満する廃倉庫の広場。そこに潜伏していた『灰色の猟犬』の面々が、突如現れた私たちに武器を向ける。
「?!だれだっ!!」
私は、「本番直前の震え」を深呼吸でねじ伏せ、一歩前へ出た。
「………待ちなさい。貴方たちの奏でている計画は、すでに聞き苦しいレベルにまで狂っているわ。……今すぐ武器を捨て、その譜面を破り捨てなさい!!」
(………ひゃー、恥ずかしい! 何これ、いかにも主人公っぽいこのセリフ!
でも、今の私は公爵令嬢で、かつ『歌学』の体裁を守らなきゃいけないんだから、こういう演出は大事なのよ……うん!)
内心で顔を真っ赤にしながらも、冷静沈着な指揮者の仮面を維持する。だが、悪党たちに「はいそうですか」と引き下がる理性などあるはずもなかった。
「ガキがナメたことを! ぶち殺せ!」
怒号と共に、男たちが一斉に殺到する。その瞬間、私の隣にいた影が爆ぜた。
「――お嬢様の旋律を邪魔する雑音は、私が『消音』いたします」
ライナスが動く。
スッ、と影が揺れたかと思えば、次の瞬間には敵の懐に入り込んでいた。
ガキィッ――!
火花を散らして弾かれる長剣。
しかし、耳を貫くはずだったその金属音は、響き渡る寸前で断ち切られた。余韻さえも残さない。
放たれた衝撃波ごと掌で強引に抑え込み、ライナスは最短の予備動作で目前の敵を無力化してみせた。
息つく暇もなく、その視線はすでに次の標的を捉えている。本来の彼なら、一瞥するだけで広域破壊の『数式魔法』を叩き込み、一瞬で塵に変えることも容易いはずだ。
だが、彼は私の「一人の死人も出すな」というオーダーを完璧に遵守していた。
(うぇぇ……凄まじいわね。ライナス、本来は後衛の魔術師のはずなのに……)
ライナスはタキシードの裾すら乱さず、洗練された近接格闘――不殺の手刀のみで敵を翻弄していた。
ヒュン、と空気を裂く鋭い音。
振り下ろされる刃の側面をコン、と小気味よく叩いて重心をずらし、無防備になった項へと手刀を吸い込ませる。
ドサリと力なく崩れ落ちる敵。
頸動脈を的確に捉える、一撃必倒の精密な挙動。
彼は瞬き一つの間に次々と敵を「処理」していく。
かつてゲーム画面の向こう側で、数え切れないほどのプレイヤーを絶望させた「ルナティックモード」の裏ボスとしての、戦慄的なまでの処理能力。
(……これが、本物の『銀盤の死神』。魔法を使わずにこれって、バグを疑うレベルだわ)
私も立ち止まってはいられない。迫りくる敵に対し、私はタクト(杖)を振るい、喉を鳴らす。
「――♪」
短いハミングが、物理的な衝撃波となって敵の足元を払う。
ゲーム時代のアクションパートで培った「回避からカウンター」のタイミングは、私の体に染み付いている。敵が振りかぶる瞬間の「予備動作の音」を聞き分け、その「音」を突くように杖の石突きで鳩尾を打つ。
「……く、バカな! 増援はどうした、外の伏兵は何をしている!」
リーダーの男が絶叫するが、無駄だ。
外に配置されていた狙撃手たちは、私が事前に仕掛けた『反響結界』によって、自身の放つ足音や駆動音が耳元で増幅され、すでに平衡感覚を失い昏倒しているのだから。
戦況は、完全に私たちの独演会だった。
だが、その勝利を確信した一瞬の隙。
――ヒュッ!!
倉庫の梁に潜んでいた伏兵が、死角から毒矢を放った。
「っ、?!しまっ……」
完全に意識の外。死の予感に背中が凍りついた直後、視界に黒い燕尾服が割り込んできた。
パシッ……!
ライナスが、無造作に伸ばした左手で毒矢の根元を掴んでいた。
彼はそのまま伏兵に鋭い視線を投げ、一瞬で距離を詰めると、その男を床に叩き伏せて無力化した。
「がはっ………」
「……助かったわ、ライナス。ありがとう」
「礼には及びません。お嬢様」
ライナスは再び私の斜め後ろに控え、残されたリーダーの男に向かって、奈落の底のような冷徹な声を浴びせた。
「……もはや、貴様の拙い数式で抗える段階は過ぎている。負けを認め、投降しろ。……お嬢様の『調律』を受けるか、私に文字通り消去されるか……選ぶ時間はすでに残っていないぞ」
「……ひっ、あ、ああ……化け物め……!」
リーダーの男は腰を抜かして後ずさり、背後のレンガ壁に激突した。周囲に転がっているのは、傷一つ負っていないのに魂を抜かれたように眠る精鋭たち。
その中心で月光を背負い、汚れなきタキシード姿で佇むライナスの威圧感に、男の精神は限界を迎えていた。
「答えなさい。貴方たちに、シャルの寝室の術式コードを教えたのは誰?」
私が問いかけると、男はガタガタと歯を鳴らしながら、途切れ途切れに白状した。
「……ベルベット家の……メイド長だ。あいつが、内部の……鍵を……っ」
(……え? シャルのあのお付きのメイド長……?)
ドォォォォンン!!
意外な名前に思考が止まりかけた瞬間、倉庫の搬入口を蹴破る音が響いた。
「ハッハァー! 遅くなってごめんよ、小さな歌姫! ……おっと、随分と綺麗に片付いちゃってるねぇ!」
現れたのはロレッタと、普段とかわりない空気を纏ったフェリックスだった。彼は倒れた男を一瞥すると、私の疑問を先回りするように言葉を紡ぎ始めた。
「ああ……メイド長の件なら、もう拘束したよ。……あの子が赤ん坊の頃から、実の娘のように育てていた忠義の塊のような女だったが……。どうやら遠方の家族を人質に取られ、脅されていたらしい。
……だが、それを差し引いても、彼女がやったことは決して許されることじゃない」
フェリックスの声は低く、淡々としていた。その「理由」を聞いて、私の胸には微かな痛みが走る。
(……人質。事情を鑑みれば同情の余地はあるのかもしれない。……けれど、そのためにシャルを死の淵に追いやり、家を売った罪は消えない)
これが貴族社会の、そしてこの「死にゲー」の世界の構造的な欠陥なのだ。どれだけ個人に情があったとしても、システムの不協和音を前に、一介のメイドの愛などは容易く踏み躙られてしまう。
(……私がこれ以上何かを言ったところで、彼女の運命は変わらないわね。……私が救えるのは、今ここにいる『親友』の命までよ)
私は深く考えるのを止め、一度だけ静かに目を閉じた。
「……そう。事情はどうあれ、決着ね。……ロレッタ、後始末はお願いするわ。フェリックスとの約束通りに」
「ええ、任せて、リーン。ベルベット家の名にかけて、二度とこんな不快な事は起こさせないわ」
ロレッタは騎士らしい凛とした所作で男を拘束した。
ライナスが私の隣へと戻り、恭しくエスコートの手を差し出す。
「お嬢様、お疲れ様でした。……帰りましょう。不浄な空気はお嬢様の肺を汚します。温かなお夜食の準備を急がせましょう」
「ええ……お願い、ライナス」
フェリックスのどこか寂しげな背中を後に、私はライナスと共に夜の静寂へと戻っていった。
(……ふぅ。予想とは違ったけれど、これでシャルの『誘拐フラグ』は落着ね。……明日からは、また普通の学院生活に戻れるかしら)
私は馬車の中で、心地よい疲労感に身を委ね、眠りに落ちていくのだった。




