第11話、月光の旋律と浄化の願い
庭園での緊迫したやり取りから数時間後。
公爵邸の私の自室は、窓から差し込む月光によって青白く照らされていた。
寝間着姿の私は、天蓋付きのベッドに腰掛け、影の中から現れたライナスと向き合っている。
「……ライナス。改めて確認するわ。今回の『演奏』、指揮者は私よ。貴方は私の楽器であり、盾。勝手な即興演奏は許さないわ」
私は前世の音大時代に、指揮者が楽団員をねじ伏せる時に見せたような威厳を瞳に宿した。
「……畏まりました、お嬢様。ですが、不快なノイズがお嬢様の肌に触れようとすれば、私は反射的にその源を『消去』してしまうかもしれません。それは、執事としての本能ゆえ、ご容赦を」
ライナスの声は穏やかだったが、その背後に渦巻く魔力は、いつでもこの部屋を絶対零度の墓場に変える準備を終えている。
(……ライナス)
私は声には出さず、彼をじっと見つめた。
原作の設定によれば、彼は私が前世の記憶――杉並ヒナとしての意識を取り戻す前から、その手を幾度となく血で汚してきた男だ。
この「死にゲー」の世界において、それは生存のための必然だったのかもしれない。
(けれど、今の私には耐えられない。過去の罪が消えないとしても……これ以上、貴方の手を汚させたくないの)
それは現代人としての倫理観であり、同時に彼をこれ以上歪ませたくないという、私の中のエゴでもあった。
「……ダメよ。いい、ライナス。私の歌学は、不協和音を『調律』するためのもの。貴方の暴力で敵の命を奪えば、それは私の旋律に拭えない血の汚れをつけることになるわ。
一人の死人も出さず、かつシャルを救い出す。━━これが、今回のルールの絶対条件よ」
私の強い言葉に、ライナスは一瞬、動きを止めた。彼はゆっくりと跪き、私の小さな手を包み込む。
「……死人を出さぬ調律、ですか。殺すよりも遥かに難度の高い、残酷なまでの美学。流石はお嬢様。貴女の求める『完璧』は、死神の理解を遥かに超えておいでだ」
「それと、フェリックスとロレッタへの箝口令。徹底してちょうだい。私の『歌学』の正体、そして私がこの事件の立案者であることは、口が裂けても漏らさないこと」
「承知いたしました。あの放蕩息子と女騎士の口は、私が魔法的に『施錠』しておきましょう。お嬢様の神聖なる領域を、下俗な噂話で汚させるわけにはまいりませんから」
・
翌日の放課後。私たちは学院の隅にある、人気のない旧図書室の一角に集まっていた。
フェリックスがテーブルの上に広げたのは、王都周辺の緻密な地図と、彼が独自に収集した暗殺者集団の潜伏先データだ。
「見つけたよ。王都西区の廃倉庫街。あそこを拠点にしている『灰色の猟犬』という集団が、シャルの誘拐を計画している。実行は今夜だ」
フェリックスの顔には、その仮面の下に隠しきれない焦りが浮かんでいた。私はその情報を、楽曲分析の要領で読み解いていく。
(ふむ……やっぱり、おかしい……タイミングが良すぎるわ。
この『灰色の猟犬』は本来のゲームなら、ただの雑魚キャラのはず。なのにこの情報の並びが、まるで誰かが彼らに『正解のルート』を教えているような不自然さを感じる……)
私は声に出さず、深く考え込んでしまった。地図の上に示された敵の配置は、まるで計算された「五線譜」のように、こちらの防衛線をすり抜けるための隙間が用意されていたからだ。
「……フェリックス。この情報、貴方はどこで手に入れたの?」
「僕の馴染みの情報屋さ。信憑性は高い。でも━━、確かにできすぎているとは思う」
フェリックスも同じ違和感を抱いているようだった。
私はタクト(杖)を地図の上に滑らせ、敵の拠点を一点、鋭く指し示した。
「いいわ。罠なら、その罠ごと『調律』してあげる。ライナス、こことここ、それからこの搬入口に、私の魔力を媒介にした『反響結界』を仕込んで。敵を殺す必要はないわ。彼らの耳元で、私の最高に不快な不協和音を響かせて、意識を飛ばすだけで十分よ」
「……。お嬢様の声を武器にする、と。それは、彼らにとっては死よりも残酷な、至福の処刑になるでしょう」
ライナスの物騒な賛辞を流し、私はフェリックスとロレッタに向き直った。
「貴方たちはシャルの側を離れないで。これは、私のステージ。指揮者の合図があるまで、一歩も動かないこと。いいわね?」
「ええ……」「ああ……」
音大生・杉並ヒナ。
この世界の歪んだリズムを正すための「初の実戦演習」に向けて、私は静かに、自分の喉を調整し始めていた。
・
作戦当日の夜。
ベルベット侯爵邸の広大なラウンジには、暖炉の爆ぜる音だけが穏やかに響いていた。
本来なら刺客の影に怯えるはずの夜。だが、そこにはフェリックスが「久しぶりに兄妹で語り合おうじゃないか」と持ちかけた、和気あいあいとした時間が流れている。
「それでね、それでねお兄様! リーン様が数式を歌い始めた瞬間、ゴーレムたちが一斉にワルツを踊りだしたの! 私、あんなに綺麗な光景、生まれて初めて見たわ!」
シャルは瞳を輝かせ、身振り手振りで親友の「やらかし」を語り続ける。最近の彼女の口から出るのは、公爵令嬢リーンのことばかりだ。
「ハハッ、それは傑作だね。ライナスの奴、さぞかしドヤ顔をしていたんだろう?」
フェリックスは優しく相槌を打ちながら、楽しげに笑う妹を見つめていた。
その笑顔の裏で、彼の意識は遠い過去の、泥濘のような記憶へと沈んでいく。
(……ああ。あの日、この子が生まれてこなければ、──僕はもっと楽に生きられたんだろうか……)
フェリックス・フォン・ベルベット。
彼はこの「不沈の鉄壁」を誇る侯爵家において、唯一の「不純物」。
いわゆる――妾の子だった。
世継ぎの座を巡る親族たちの醜い争いや、父親であるアイアン侯爵との冷え切った関係。そして何より、本妻への複雑な嫉妬。
幼い頃の彼は家の中のどこにも居場所がない「日陰者」だった。
(……いっそ、全てを放り出して消えてしまいたい。何度そう思ったことか……)
そんな彼の絶望を繋ぎ止めたのは他でもない、後から生まれた正嫡の妹、シャルだった。
彼女は家柄も、母の涙も、兄の出自も知らないまま、ただ純粋に
「お兄様!」
と彼の手を握り太陽のような笑顔を向けてくる。
(僕は……その時、呪いを解かれたんだ。家名の重圧からも、血の汚れからも。
……この子だけは僕のような日陰を知られてはいけない。
──たとえ誰に後ろ指を指されようと、どんな汚い手を使ってでも、僕はシャルを陽の光の下へ連れ出してみせる……)
フェリックスの瞳に仮面の下に隠した「不落の決意」が宿る。
現在進行形で、王都の廃倉庫街ではリーンとライナスが、彼の「依頼」を受けて死線を潜ろうとしている。
「お兄様? どうかしたの?」
「……いや。少し、幸せすぎて眠気が来ただけだよ、シャル」
フェリックスは妹の頭を優しく撫で、窓の外、暗雲に覆われた夜空を見つめた。
(……さあ、始めてくれ、小さな歌姫。君の旋律が、僕たちの明日をどう調律してくれるのか、期待させてもらうよ……)




