第10話、放課後のデバッグ会議その2
軽薄な笑みを浮かべて私の手を取ろうとするフェリックス。それに対して、今にも「数式ごと消去」しそうなほど殺気を研ぎ澄ませるライナス。
(あれっ?これって………)
私は反射的に脳内の「死にゲー・ロードマップ」を検索し、フェリックスの瞳の奥にある、笑いきれていない「焦燥」を読み取った。
「……シャル。少し喉が渇いてしまったわ。あそこの噴水まで散歩がてら、冷たい飲み物を取りに行きましょう? ライナス、貴方はここでフェリックス様を『丁寧におもてなし』していて差し上げて。いいわね?」
私の言葉に、ライナスは一瞬、明白に納得のいかない顔をした。眉間に刻まれた深い皺が「お嬢様の側を離れるなど論外だ」と雄弁に語っている。
だが、私がその瞳をじっと見据えると、彼は即座に察した。主がこの場を「空ける」ことで、何かを引き出そうとしていることを。
「……畏まりました、お嬢様。……『丁寧』に、執事としての本分を尽くしましょう」
ライナスは深々と頭を下げ、私の意図を汲んでその場に留まった。私は困惑するシャルを連れて、足早に中庭を離れていく。
二人の姿が庭園の緑に消え、完全に見えなくなった瞬間。
庭園の空気は、一瞬で「一触即発な戦場」へと変貌した。
「……久しいな、フェリックス。貴様のその薄汚いツラを拝まずに済む日々は、私にとって最高の平穏だったのだが。……残念だよ」
ライナスが吐き捨てたのは、剥き出しの毒だった。だが、フェリックスはそれをまるで旧友からの挨拶であるかのように、素直に、そして嬉しそうに受け取ってみせる。
「ハハッ! 相変わらずの歓迎ぶりだね、ライナス! 君のその冷え切った声を聞くと、ああ、生きてるなって実感が湧くよ!」
「……茶化すな。貴様のような『日陰者』が、リスクを冒してまでこの学院に、それもお嬢様の前に姿を現した。
……その真実を吐け。さもなくば、今ここで貴様の存在理由を消去する」
ライナスの指先から、パチリと青白い魔力の火花が散る。その殺気は「本気」だった。
たまらずロレッタが二人の間に割って入る。
「ちょっと、二人ともやめなさい! ライナス、彼だって――っ?!」
「ロレッタ━━」
だが、フェリックスはその言葉を手で制した。
先ほどまでの軽薄な笑みは消え、ひどく疲れた、けれど切実な表情で彼は言葉を紡ぎ始める。
「すまないな……だが、君に消去されるリスクを天秤にかけても、選ばなきゃならないほど、こちらの事情は最悪なんだ……
━━最近、ベルベットの領内の治安が急速に悪化している。それだけじゃない。シャルの元には、日に日にエスカレートする脅迫状が届いているんだ」
フェリックスは懐から、一通の黒ずんだ封筒を取り出した。
「………もちろん、シャルには気づかせていない。ロレッタと二人で握り潰しているが、最近は中身がシャレにならない。
………父上は軍務で不在、母上とは別居中。妾の子である僕が公に動ける範囲にはどうしても限界がある。
……だから、僕はリーンのあの力が欲しい。あの『数式魔法』を『書き換えることができる歌』があれば、潜伏している刺客も、見えない罠も一網打尽にできるはずだ」
フェリックスの震える拳を見て、ロレッタも静かに頭を下げた
「……ライナス。私も、ベルベット家に忠誠を誓う騎士としてお願いするわ。……シャルの盾となってほしい。我が剣にかけて、リーンの安全は必ず保障する。力を貸して……」
三人の間に、重苦しい沈黙が流れる。
ライナスは微動だにせず、ただ一点――主が去っていった方向を、静かに見据えていた。
「……事情は理解した。貴様らが泥沼の片付けに、お嬢様の力を利用しようとしていることを」
ライナスの声は、どこまでも冷静だった。
「だが、それを決めるのは、私ではない。……全ては、我が主――お嬢様次第だ。……お嬢様の力に、貴様らを救う価値があるかどうか、な」
・
(リーン視点)
噴水の陰。私はシャルに「どうしてもあそこのワゴンにある、期間限定の冷たいお菓子が食べたいの。用意してきてくださらない?」
と、なかば強引にお願いして彼女を遠ざけた。
気配を殺して三人の密談を盗み聞きしていると、フェリックスの絞り出すような独白が、私の耳に届く。
(……やっぱりね。チャラい態度の裏で、彼はボロボロになりながら妹を守ろうとしていた。
……でも、これって、私の記憶にある『イベント』とは何か違う感じがする……)
私の脳内で、不吉な警告音が鳴り響く。
立ち上がるべきか、それとも「知らないフリ」でやり過ごすべきか。私の内側で、二つの大きな懸念が渦を巻いた。
(この『シャルの誘拐未遂イベント。
本来なら2年目の秋に発生する高難易度クエストのはず。
……確かにルートによっては時期もタイミングも若干違っていた記憶があるけれど、入学直後の今、フラグが立つなんて早すぎる! ……万が一、敵のレベルが今の私の『歌学』で制御できる範囲を越えていたら一撃でゲームオーバーだわ……それに)
私はそっと視線を、庭園で冷徹に佇むライナスへと伸ばした。
(ライナスに任せれば、敵を確実に全滅させることはできる。……文字通り、この世から数式ごと『消去』して。でも、前世が平和な音大生だった私に、目の前で人が肉片や数式の塵に変わる光景を直視できる?
それに、彼が本気を出せばこの街ごと氷河期に沈む。私の『平穏な生存フラグ』が物理的に粉砕されるリスクがあるわ……)
震える指先を、私は強く握りしめた。
不安は尽きない。でも、ここで逃げれば、明日にはシャルのあの屈託のない笑顔が消えてしまうかもしれない。
(……音を外したまま、舞台を降りるわけにはいかないわね)
(スーーーーッ……ふぅ。
……よし!!)
私は大きく腹式呼吸をし、肺いっぱいに覚悟を詰め込むと、重苦しい沈黙が支配する庭園へと、ゆっくりと足を踏み出した。
「……全部、聞こえていたわよ。フェリックス」
驚愕に目を見開く三人の大人たち。私は公爵家の令嬢として、冷徹な「指揮者」の眼差しで見据える。
「利用されるのは癪だけど。私の大切な『親友』の不協和音を放っておくほど、私の耳は腐っていないわ」
驚きで言葉を失うフェリックスに、私は冷たく、確かな意志を込めて条件を突きつけた。
「協力してあげる。ただし、条件があるわ。一つ、この『演奏(作戦)』のタクトを握るのは、私。ライナス、貴方の暴力は私の旋律があるまで封印すること。いいわね?」
「……。仰せのままに、お嬢様。
貴女の五線譜を汚す無粋な輩は、私が影で『調律』しておきましょう」
ライナスが恭しく、けれどその瞳の奥に狂信的な悦びを湛えて跪く。私は続けて、フェリックスとロレッタを鋭く指差した。
「そして二つ目。シャルはもちろん、誰に対しても私の関与を秘匿し、徹底的な箝口令を敷くこと。この世界の誰一人として、私が『調律』に関わったことを知ってはならないわ。
……約束できるかしら?」
フェリックスは、毒気を抜かれたように呆然とした後、深々と頭を下げた。
こうして、学院生活初の「裏クエスト」が、システムの歪みを孕んだまま幕を開けようとしていた。




