2-11 逃げ
身体は重く、昇りの階段の足取りも重い。手を強く握り、歯を食いしばる。
過ぎた時間は戻ることはなく、奇跡で戻せたとしても変えるだけの力がない。今できるのは感情を殺し、息を飲み込み、叶わない結果を真正面から受け止めることだけだった。
「お気持ちをお察しします」
「……ベルディアに気持ちがわかるのか?」
堪えても無意識に震える声。こみ上げてくる吐き気に耐え切れず嘔吐する。
息苦しさから見えたそれは黒い液体に見えた。しかし、確認する間もないまま地に染み込み何も見えなくなった。そのあとには、悔しさに反して、体が軽くなっていた気がした。
「無事、吐き出せたようですね。……起こったことはわかりません。 ですが、……そうですね。帰りの道のりですし、今、問いをお答えしましょうか」
立ち止まって振り返ったベルディア。目が合い無言で頷くと、ベルディアは微笑む。そして前を向くと再び歩き出した。
「サンフィールド伯爵は行きの際に問いました。どうやって今の地位となったのか。と」
「たしか武力でも知識でも人望でもないと答えていたな」
「その通りです。ではどうしてベルディアの地位を得たのか。それは私が現実を見ているからです」
「現実? それは誰もが見ていることだろう」
「ええ。そうでしょうね。ですがよくお考えください。竜一であればどうなったと思いますか?」
想像する。竜一は一度は躊躇い、二度目には触れる姿を思い浮かんだ。
「今、サンフィールド伯爵が何を想像したのかは尋ねません。ですが彼はあの二体の馬頭を相手に勇気と無謀を履き違えて死んでいたでしょう。それが現実です。サンフィールド伯爵との差がわかりますか」
階段は長く、考える時間は十分にあった。
数歩進む間、足音だけが響く沈黙を経て、出た答え。
「……わからない」
「正直でよろしい。お答えをすると馬頭には完璧なまでに隙がありません。剣、槍、弓、それ以外を用いても。そして、唯一の方法は相打ちしかない。
勝てない相手。でも、負けるほどの相手ではない。だからサンフィールド伯爵は耐え続け、二体をおびき寄せたおかげで私が条件を満たすことができた」
「だが、あれは私は勝てていない」
「なぜ馬頭は二体いたと思いますか? そして言葉を思い出してください」
「…………」
「最初から二対二だったのです。私はずっと動きませんでした。そして、ただ目的を果たせるかの状況のみを見ていました。そんな中、サンフィールド伯爵が仕掛けたことで事態が変わり、不可能が可能となった。それだけです」
「だが、それは耐える時間という結果があってこそだ」
「そうでしょう。ですから私はあなた様の動きを眺め、無理なら見捨てて帰るつもりでした」
「…………最初からそのつもりだったのか?」
「それを論じる意味はないでしょう。勝てる条件をサンフィールド伯爵がつくれるか。それだけなのですから」
足が止まり、ベルディアの足を見て、自身の手に力が籠るのを自覚した。
ベルディアは再び振り返ると微笑む。
「気づかれたようですね」
「……そなたはあの鏡に……あの先を見たのか?」
ベルディアはこちらを見ながら、髭を撫でた。
「そうですか。サンフィールド伯爵にも見えましたか」
「そなた……ベルディアには何が見えた?」
「…………勇敢なサンフィールド伯爵の疑問に答えるなら、扉を開いて進もうとした者として、生き残った者は一人だけです」
「その者はどうやって生き残ったのだ?」
「その問いの答えはとても難しく、それでいてとても簡単です。生きて帰る。その者は挑戦者としての必須条件を見誤らなかった。だから、守れない目の前の選択に対して生きることを選べたのでしょう」
「…………」
「人は物語に理想像を求め、如何なる死の迫る困難にも打ち勝つ英雄を好むものです。仮にそれが物語の主人公であれば、その勝利は約束され、主人公ではない者もまた勇敢なる死という美談となるのでしょう。
凡庸な私も物語の英雄が活躍する話はとても好きです。それを目指すことができる者を尊敬し、周囲が嘲笑うことでも眩しく羨ましいと思ってしまいます。ですが私は思うのです。その理想には死ぬ結果が含まれているのか。死ぬ英雄がなりたい理想像なのか。と。
そう考えたとき、その理想はいつだって生きてこそではないかと私は思うのです」
「…………」
「年寄りの戯言とお聞き流しください。」
ベルディアは再び前を向くと、階段を昇りはじめ、それに続く。




