2-10 父の背
呆然としながらも無意識に剣をおさめて近づき、まじまじとベルディアの顔を見る。
微笑む顔は人ひとり殺したことがなさそうなほど、か弱く善良な老人にしか見えない。
「……どうして」
「それは、帰りにお答えしましょう。今は目的に集中してください」
頷き、目の前の大きな扉の前に立ち、手で触れる。すると、扉は意思があるように開き出し、思わず後ずさった。
目の前にある光景は鏡だった。扉全体を見渡しても、入り口らしき場所はなく、目の前に映るのは自身の姿と周りの景色。
一歩、二歩と慎重に近づき、手の届くほどに近づいたところで手を伸ばして触れようとした。
「っ!?」
眩しい光に目を瞑った。
再び目を開けたとき、そこに広がる天井は青い空に変わり、地は緑に覆われた低い草の広がる明るい平原だった。
そして、そこには決してこの世では二度と会うはずのない人がそこにいた。
「……ち、父上?」
出陣の姿を最後に見送ったときの姿だった。かつて見上げて大きく見えた身体は、今は見上げる必要はなくなった。あまりにも遠く手の届かないように思えた印象さえも今は母上より近くに思えた。
ただ、それゆえに胸が熱くなった。唾を飲み込み、目から溢れそうになる涙を堪える。
「大きくなったな。今は……私と変わらないほどに」
「…………貴様は何者だ」
「何を言っている。この父の顔を忘れたのか?」
「父上は死んだ」
剣を両手で持ち、持ち上げると剣先を父上に向け身構える。
「妥当な答えだ。では一つ質問としよう。……賢人と愚人の差は、学ぶと学ばざるなり」
「自立と依存の差は、自らの頭で考え、行動するかなり」
「その目的のための必要なことは?」
「知識、武力、そして富。それらは自らを守り、自らが大事に思う人を守り、繋がる手段でもある。どれも決して軽視することなかれ」
「では最後に。将としての心得とは」
「戦うと決めた者に交渉は意味をなさない。戦え。そして生きろ。すべてを見捨て、失う覚悟ができた時にだけ剣を捨てろ。そして将として死ね」
「よくぞ覚えていた」
「あの頃は毎日、稽古のはじまりに復唱しましたから」
剣先を下ろしかけたことに気づいて握りなおす。
「良い判断だ。さて、では次を問おう。今、ここにこうして私がいる。それをお前ならどう見る」
父上は何かを期待するように不敵な笑みを見せ、剣を抜いた。
「……私は死んだ、ということか?」
「だとしたら私は全身全霊をもってお前を生きて帰さねばならんな」
父上が剣を両手で持ち、身構えた。
「…………」
「…………」
お互いに動き出すことは既に決まっていた。
「私を、殺せ」
「…………今、なんと?」
「その覚悟が決まったら動くといい」
聞き返したのは聞こえていなかったからではなかった。
尊敬し、死を悲しんだ。その父に殺せと言われ、剣を向けられていた。
吐き気のするような息の詰まる感覚に朦朧としかける意識。手も足もおそらくは震えていたかもしれない。
目の前の父は剣を向け、殺さなければ殺されるという確かな意思を示すように静かに睨み、動くのを待っていた。
「父上を殺すことなんて……」
剣を再び握りなおす。そして、父の姿を見て、隙を伺う。父に迷いはなく、言葉を投げれば襲いかかり、剣を下ろせば斬られることはハッキリとしていた。
深呼吸し、剣をまた握りなおす。
「…………」
「…………」
息を整え、鼓動を整える。
「………迷えば、死ぬ。必ず一撃で決める」
いつまでも高鳴りが治まらない鼓動。喉が詰まる感覚に足が前に出ようとするのを堪え、平常心を探す。
目の前の父は静かに身構え、既に何度か隙を見せていた。しかし、それらは一度走りだせば一瞬で消える誘いの仕草。幼いながらに何度も経験した悔しく苦い思い出が本能として警告する。
「…………」
「…………」
敵を見て、自身を整える最高の瞬間。
「っ!」
気づけば既に走り終えていた。確かに行動したのにその記憶は過去しかない。そう理解しながらも剣を握りなおして振り返る。
父はうつ伏せに倒れていた。そこには行動の結末である血だまりが広がっていた。
駆け寄りたい気持ちを堪え、剣を構え続ける。
父上が教えてくれた勝負後も周囲を警戒して安全を確保するまで気を抜くなという教えを忠実に守って。
直後、背後の悪寒にかわしながら本能的に何かを斬る。
この世の者とは思えない耳をつんざくような悲鳴。黒い影が倒れるのを見ながら距離を取ると、その黒い影は倒れた直後に三体に分裂し、黒い全身甲冑姿で長剣を手に襲いかかってきた。
「ぐっ!?」
その勢いで振り下ろされた剣は重く、食いしばっても堪えきれない全身に響いて体勢が後ろに崩れる。
黒い影がその隙を突かんと追撃の一撃を振り下ろす。
足を踏ん張り、体勢を立て直しながら受け止めようとした時だった。
目の前の三体は上下に切り裂かれた。直後、父上が前に立ち、背を見せ守ってくれていた。
「よく堪えた。後は私に任せろ」
「父上、一緒に帰りましょう!」
「子を守るのが父親だ。これは当主として義務ではなく、親としてのな。…………ようやく言えたよ」
背を向けた父上の顔は見えなかった。ただ、その声は決闘さえ喜んでいるかのような弾んだ声だった。
際限なく溢れだす黒い影が父上に向かって襲いかかる。父上に向かって手を伸ばしてもその手は届かず、突如として眩しい光に視界は真っ白になった。
先ほどまでの景色は嘘のように洞窟へと戻っていた。
胸と頭に手を当て、周囲を確認する。
「あれは……夢? それとも?」
「いかがなさいましたか?」
驚き、振り返ると、ベルディアがこちらを見ていた。
気づけば、全身から汗が噴き出て、手足までも震えている。
「い、いや。……何でもない」
震える声で抑えきれていないことを自覚し、深呼吸をしてみるが動悸はおさまらない。
再び扉の鏡の方を向き、息を整え鏡を見る。
「…………」
背を向けないように一歩、また一歩と下がっていた。それに気づいたのは、扉が閉じ始めてからだった。
その扉の動きを見ながら前に進むことができない。そして、扉が完全に閉じたとき。力が抜けるように大きな息を吐き、機会を逃したと理解した。




