0-2 ひととき
夜の薄暗い灯り中、軽い夜食と、酒の入ったグラスが置かれていた。
目の前には婚約者がじっと見て、静かに話を聞いていてくれた。そして、視線が合うなり微笑み返してくる。
長い黒髪に黒い瞳。華奢な体つきに対して背は高く、凛とした自信に満ちた姿。一見すればそうした印象を抱くのだろう。
そして、よくよく見れば、印象に反して、ただ微笑み返しているだけの他人の機嫌を伺うような上目遣いをしていた。
それが計算されたものであれば、良くも悪くも彼女にとって強力な手段としての武器と成り得たのかもしれない。
けれども、彼女が持っていたのは過去に虐げられていた中で、心を守り、生きるために身につけた癖でしかなかった。
壊れた器は戻らない。虐げられた過去で、彼女という人格は永遠に失われた。知らない頃を懐かしげに語ってくれることも。
それでも新たな道を進んだ。その彼女の努力が過去を覆い、凛とした自信に満ちた姿がどこまで達するのかと更なる期待をしてしまう。
「今日も美しいな」
「……ご当主様。御前様からナイトと呼ばれている理由をお聞きしてもよろしいですか?」
「突然だな」
「今日、御前様のお話でご当主様の話をされまして。その、御前様はいつもナイトと呼ばれていますよね」
「なるほど……。これは母上だけだったのか」
グラスの酒を一口含み、喉に流して潤す。
「帝国の貴族は初陣を経てナイトという称号を与えられる。それは知っているだろう。
まだ幼い頃、父上の遠征時に留守を任されたことがあってな。父上はいずれ当主となる心構えのつもりだったのだろうが、気合いを入れて子どもながらに頑張ろうとしてな。母上は私が守る。そんな一言に対して母上は私をナイトと呼ぶようになった。
つまり、私はまだ名ばかりの称号を持たぬ半人前という事だ」
表情が強張る事を自覚した。それを誤魔化すようにまた飲み物を口に含み乾いた喉を潤す。対して婚約者は落ち着いた様子で頷いた。
「……そういうことでしたか」
「…………」
「ご当主様は誠実なのですね」
「誠実?」
周りから一度も言われたことのない言葉に首を傾げる。
「外から来た私です。それなのにこうしてご当主様と二人でお話することが許される。馬に乗ることも許される。剣の稽古だけでなく、帯剣も許される。ご当主様のおかげなのだと理解しました」
「それは、そなたが得た信用の積み重ねという努力の結果だろ?」
「ご当主様、努力が評価されるというのは、自身がただ頑張れば報われるというものではないのですよ。それを認めてくれる者がいて、周囲もそれを認識してくださるのです。そして、そういう事ができるのはそういう環境があるときだけです。
ご当主様の場合は……その、少々、私に対して甘いといいますか……嬉しくはあるのですが……。私は周りの方ほど有能でも素晴らしい人でもありませんから」
ふっと瞳が揺れて表情が曇った。
「連れ帰ってきた母上が熱心に教えようとするほどだ。それとも母上の目を疑うのか?」
「いいえ、そういうつもりでは」
小さく首を横に振る彼女を見て、微笑み返す。
「懐かしい話をしたな」
「そうですね。セントポール家へ訪問された御前様は……私を庇ってくださり連れてくださって」
「あぁ。そなたが私に会うなり土下座して体を震わせていた事は今もよく覚えている。それも家臣も集まった大広間でな」
表情が戻ったのがわかった。
「御前様が突然、許嫁を選んでまいりました、とおっしゃったんですよね」
「あぁ。母上のその言葉に驚いた。だが、そなたの顔を見た瞬間に惚れた」
「宣言してくださった御前様と、皆さんの目の前で私に跪いて手を差し伸べてくださったご当主様には今も感謝しております」
最初こそ家臣たちの間で許嫁を蹴落とすべく見下し、悪評を流布する者もいた。
しかし、許嫁は悪評や見下しすら正面から受け止めた。母上に教わり、ときに教えを請い、身だしなみ、歩き方、表情、礼儀の些細な動きは数か月で形は整い、内面でも学問、武芸、乗馬に至るまで、欠点などないかのように成長を形で見せてきた。
そこへ母上の後ろ盾と当主としての許嫁という地位。それは、許嫁としての彼女の悪評を終息させ、御前様としての政の人選への信頼を支える役割も果たしていた。
その恩恵は、当主にもあった。それは、当主の身でありながら自身には出来なかったことでもあった。
胸がざわつく感覚に思わず手に力が籠った。
「ご当主様、どうか自信をお持ちください」
ハッと我に返ると、許嫁は手を優しく両手で覆っていた。
「どうか私を信じてください。私にはまだ、ご当主様を支える力も、それを信じてもらえるようお伝えする術もありません。ですから言葉でお伝えします。目を瞑ってください」
言われるままに目を瞑ってみる。
「…………」
………………
…………
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