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2-4 濃霧

 湯を沸かし、配られたスープと一口の酒、そして干し肉が身に染みる。その一日目が終わる夜の野営は空気が一気に寒くなり、焚火で暖をとりつつ、防寒が身体を守り、防雨具がほどよく風を防ぐ。ヘレナ子爵とフェミニアについては身体つきの問題もあり、二人が収まる簡易テントで風を防ぎ、一夜を越えた。


 昨日は、早朝の不運ともいうべき小雨。それに備えた装備が危機を回避する幸運となった。

 一方で、夜が明けても薄暗さは変わることはなく、濃霧が大森林に発生していた。


 朝食の輪に参加していた、眠たげにするヘレナ子爵に尋ねる。


「ココは標高が高いと思うか?」

「わかりません。緩やかな登り降りがあり、濃霧でこの視界となれば感覚に頼るのは無意味でしょう。それに、この天候も異常ではありますね」

「やはりそう思うか」

「視界を感覚に頼らないための目印と先発隊ですが…………歴史通りであれば。今はゆっくり休憩して霧が晴れるか様子を見るのが最良かと」


 ヘレナ子爵の曖昧な返事の意味はすぐにわかった。

 静かな森に足音が響いた。隊列に警戒指示をして身構えると、隊の右側から姿を現したのは先行していたヘレナ隊の伍隊だった。


「これはいったい」

「やはりですか」


 危うく同士討ちとなりかけた、驚き答えを求める周囲の視線がヘレナ子爵に集まる。


「連合王国の過去にあった、夏に一千の兵で大森林へ行軍した記録です。

 その記録では、高地は避け、川に沿い、目印もつけて行軍が行われました。十分な食料を備え、兵も体力自慢を選りすぐり、そのおかげもあって当初は順調でした。けれど川上に向かうほど霧は濃くなり、道のりは険しくなります。

 そして、川が北の山側へ進路が向けたところで、状況は変わります。西へ進むために川から離れ、方位磁石通りに進むと、目印のつけた場所に戻ってしまう。

 やむなく闇雲に進み、行くも戻るも、ついには方向がわからなくなってしまった。結果、武器も防具も放棄し、半数以上を失い飢えながらの撤退となったとか」

「……つまり、その状況を再現しつつあるのか」

「その通りです。ヘレナ隊には、方位磁石を確認しつつ西に進むよう指示していましたから」

「ほかに策はあるのか?」

「……ありませんね。策があるなら、戻るような無駄はさせません」

「それもそうか」


 話を聞いていた誰もがその言葉に沈黙し、代案を出す者はいなかった。


「主様……」


 アーロンの悲観混じりの声。他の者も同じ声が聞こえてきそうな表情だった。


「引き返しますか?」


 唯一の代案を出したヘレナ子爵の言葉に首を横に振る。そして目を閉じて思い浮かべる。


 先代当主である父上ならどう判断するのかを。私が初陣のこの日まで家を守り抜いた母上ならどう判断するのか。

 幼かった頃、父上の姿は大きすぎた。母上が悩んだとき私に相談してくれた事はない。それが率いる者の使命だから。


 何も思い浮かばないまま目を開き、濃霧で道なき道の先を見つめる。

 周囲の不安な目。父上や母上であればまた違ったのだろう。その劣等感に似た昂ぶりに反し、驚くほど感情は乖離して冷静なままだった。


「方位磁石を見せてもらえるか」

「どうぞ」


 ヘレナ子爵から方位磁石を受け取り眺める。針の位置、そしてヘレナ隊がこれを見て進み、戻ってきた理由。


「いいや。ここは北を目指そう。先発隊が合流するのを待ってから出発する」

「北、ですか? 理由を聞いてもよろしいでしょうか」


 黙るヘレナ子爵に反して、珍しくアーロンが聞き返してきた。


「北がわかるからだ。それ以外に理由など要らないだろ」


 その言葉にアーロンは呆然として、キースやオリバーは顔を見合わせていた。

 対して、ヘレナ子爵は堪えながら笑い、フェミニアは怪訝な顔をしていた。




 本当に北が分かっていれば今の状況にない。では方位磁石の針が指している北は何か。

 長年仕えてきた三人は疑問は口にせず、行動には忠実に従い体力を温存して休みつつ、先発隊の合流が終わればすぐに出発できる準備を進め、ヘレナ隊すべてもほどなくして合流した。


「私を信じろ。帰りたい者は私に続け!」

「主様に続くぞ!」


 手元にある方位磁石を眺め、針が指す北へと進む。

 後ろから聞こえる鼓舞とそれに応える声。周囲の敵を警戒する余裕がない表れでもあったが、それ以上に士気を保つ事を優先した各隊長の判断は濃霧による日中でありながら不気味で薄暗い景色を進むために必要な事であった。

 そんな行軍を察してか、アーロンがヘレナ子爵に話しかけ、何やらやり取りしたかと思うとヘレナ子爵が近づいた。


「サンフィールド伯爵、濃霧で誰よりも先頭を歩く気分はどうですか?」

「…………」


 後ろを振り返るとアーロンは見つめ返し、キースやオリバーは視線を外した。


「率直に言えば、気分が良いな」

「……意外な返事です。恐ろしくはないのですか?」

「それは否定しない。だが既に決断はした。今は方位磁石が示す先を歩くだけだ」

「なるほど」


 笑顔なヘレナ子爵の視線は濃霧の方に向かっていた。


「霧は苦手か?」

「私は賭けに弱いですから。なので先の見えない事は不得手ですね」


 ヘレナ子爵の視線だけでなく、兵たちの視線までも向いたことに気づいた。が、無視する。


 針の示す先へ進む判断に後悔はない。途中で迷い悩む必要もない。ただ、それでも先頭を歩くとなれば進みにくい道でも歩けそうなところを探して進む必要がある。しかも大森林で濃霧。怖がる馬を宥めつつ進む必要があった。

 結果、初期とは異なり道なき道を自ら選ぶ必要があり、そして兵士たちの士気や不安を考え道に後戻りという選択はない。


 道のり、言葉で表せば容易でも、踏みしめる一歩一歩は長くそして重い。大森林に濃霧という視界が進んだ距離の認識すらあやふやにさせ、心許ない足元に気を遣うばかりの精神的な疲れ、何度も休憩を挟みながらそれでも進む。

 唯一の味方は家臣も兵も私を信じ、不安や不満を押し隠して黙って従いついてきてくれる事だった。

 そして、故郷に帰る道という意思を誰もが持っていた。


 そんな霧の中をひたすら進み、従う兵たちからもやがて肉体的にも精神的にも疲労から顔をゆがめ、息も苦しそうにしている姿があらわれ始める。


「…………」


 迷いに目を閉じれば瞳に映る許嫁の私を見送る姿が思い浮かぶ。

 あらためて『帰る』という決意を固め、さらに進む。


 意思や願いをもって続ける気概はあるつもりだった。しかし、先は見えず、進めども成果を感じず、得られるのは疲労のみ。

 希望を感じない道のりは肉体以上に精神を蝕み、進ほど足取りは重くなっていった。


「主様……そろそろ兵たちも限界かと……」


 その報告を何度も躊躇い、先送りにしてきたアーロンからの明確な忠告だった。その声に力はなく、それでも家臣としての言葉を絞り出した声。

 その一言に、ヘレナ子爵も何も言わなかった。


「……そうだな。ここで一度休憩しよう」

「いえ……それは……

「わかっている」


 方位磁石を眺めれば、針は定まらなくなっていた。

 濃霧の中で、疲れ切った者たちに呼びかける。


「皆も聞いて欲しい。もし聞こえぬ者がいれば、伝えて欲しい。一度休憩を挟みあと半刻、歩みを進める。それでも何もなければそこで野営して後は諦めて引き返す。だからもう少し、あと少し辛抱して私を信じてついて来て欲しい」


 見える範囲でしっかりと私を見つめ返して頷いてくれるのはアーロンとオリバー、キースだけだった。

 沈黙。それでも大森林の濃霧で疲労で精神も限界に近い状況では今は十分だった。


 座り込み、それに合わせるようにアーロンたちが休憩の指示を始める。

 そんな中で、ヘレナ子爵が隣に座って耳元で囁いた。


「半刻には何か意味でも?」


 首を横に振り、持っていた方位磁石を見せた。針が定まらなくなった方位磁石をヘレナ子爵はまじまじと見つめていた。

 そして不意に頷いた。


「なるほど。ココからが勝負どころなのですね」


 目を閉じて思い描く許嫁の姿に祝福を求めた。


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