099_永禄八年(1565年) 饗応
「……」
「……」
小夜が居なくなったところで、八重はおずおずと体を起こして座り直した。視線は今までにないほど泳いでいて、頬も紅潮しきっている。
緊張を物語るように彼女の指は先ほどから忙しくなく動き続け、左右で組まれたり解かれたりを繰り返していた。
そんな八重にどう切り出したものかとあれこれ考えて、しかしキリがないと思い長政は意を決する。
「八重は……」
ビクりと八重の肩が跳ねる。どうにもやりにくい。頭を搔いて、再び口を開く。
「その、いつから……私の事をそういう風に想ってくれていたんだ? 正直、全く気付かなかった」
すると今度は、八重がおずおずと告げる。
「……初めてお会いした時、私の傷を見てお声がけくださったのは覚えていますか?」
「ああ。確か、痛まないかと聞いた覚えがある」
それは八重との初めての出会い。彼女は彼女の父と共に観音寺城を訪れ、長政の部屋へ挨拶に来た。
その時チラと覗いた八重の火傷に驚いてしまい、取り繕うように彼女の心配をしたのだ。
「私の傷を見て、そういう風に心配してくれる方は今までおりませんでした。いつからか、と聞かれるとはっきりとはわかりませんが……恐らく、その時には……」
どうやら長政がこぼした咄嗟の言葉が、八重の心を動かしたらしい。
「つまり最初からか……」
思わず頭を抱えると、八重は「申し訳ございません……」と蚊の鳴くような声で謝った。それを見て長政は、慌てて手を振って否定する。
「いや違う。そうじゃなく……ここまで全く気付かなかった自分に呆れているのだ。そんなこととも知らず小夜との相談を持ちかけたりして……すまなかった」
彼女の秘めたる想いを知った上でこれまでのことを思い返してみると、長政は散々酷なことばかりしてきた気がする。小夜とのことと言い、万福丸のことと言い。
しかし八重は首を横に振る。
「いえ、姫様と仲睦まじくされていることには喜びこそすれ、妬んだことは一度もございません。ただ少しばかり……その、寂しく思っていたくらいで……」
「……すまん……」
「……私こそ、申し訳ありません……」
再び二人の間に気まずい沈黙が流れた。
頭の中では様々な考えがぐるぐると巡る。つまるところ、八重は長政のことを想ってくれていて、長政ももちろん八重のことを悪くは思っていない。
ということはやはり……そういうこと、なのだろうか。
八重を側室に、ということは、つまり同衾――夜を共にするということだ。小夜が子を産めなくなった以上、八重に産んでもらうことになる。八重が……自分の子を?
「……」
なんだかすごく、悪いことをしている気になってきた。
この時代では武家の男が妻を複数持つのは当たり前。しかし、現代人の感覚を捨てきれない長政には、かなり不誠実なことをしているように思えてしまう。
八重だって本当は側室よりも正室が良いだろうに、遠慮しているのではないだろうか。
小夜だって本当は側室を持たせることが嫌なのに、武家の娘という立場から泣く泣く提案しているんじゃないだろうか。
そんな不安ばかりがぽつぽつと浮き上がる。
ここで何の悩みもなく、無責任に二人とも幸せにして見せると豪語してみせて、男らしさを見せることが出来たならどれほど良かったか。
しかし、そんな不誠実な男らしさは長政の求めるものではないのである。
……誠実な男が女にモテないと言われる理由が、なんだか少しわかったような気がした。
「あの……もし新九郎様にそのつもりが無いのであれば、どうぞお断り下さって構いません。私は今まで通り、新九郎様の影としてお仕えできればそれで充分ですから……」
その沈黙を悪い方へと捕えたのか、八重がそんなことを口にする。不安に揺れる彼女の瞳に、長政はつい「いや、そうではなく」と口走った。
だが、何がそうではなく、なのだろうか。口を突いて出た言葉に自分で訳がわからなくなる。
結局、八重は側室になることを吝かでないように思ってくれていて、後は長政が八重を側室にするか否かという話なのだ。そうではないわけでもない。
だがこれは――
「……ええい、致し方あるまい。本当は墓場まで持っていくつもりだった話だ。このことは他言無用、この場限りの話とせよ。もちろん、小夜にもだ。守れるか?」
――なんだかぐるぐると考えているのが馬鹿らしくなってきて、だったらもうとことん馬鹿になってやろうと開き直ることにした。
まずは八重の不安を拭ってやることからだ。長政が八重を女として見ていないなどという、とぼけた不安を。
「……? はい、何でしょう」
不安そうに眉尻を下げる八重に改めて向き直り、ふうとひとつ息を落とす。そして、誰にも言うつもりのなかった重大な秘密をポツリと呟いた。
「……私の、初恋の相手はな……お前なのだ、八重」
「……え?」
「……」
「……」
みるみるうちに八重の顔が赤くなる。いや、恐らく自分の顔もそうなのだろう。長政は熱を帯びていく自身の頬を居た堪れなくなって指で搔いた。
初めて八重に憧れを抱いたのはいつだったか。今ではもう覚えていない。もしかすると、初めて会った時には長政もそうだったのかもしれない。
しかしどこか大人びた、歳不相応の冷静さが当時の長政にはとても魅力的に見えたのをよく覚えている。
当時の長政は自身が未来の記憶を有していることにまだ折り合いをつけ切れておらず、どうにも世の中から自分が浮いているような、達観したような思いがあった。
そんなとき出会った八重は自分と同じように達観したような、或いは諦めたような冷たい雰囲気をまとっていて、共感すると共にどうしようもなく興味を惹かれたのだ。
今思えばあの時の彼女は、世界に絶望していたのだろう。
そんな彼女と関わり合ううちに長政は八重に惹かれていったが、二人の間には身分の差というどうしようもない壁があった。
だからこそお互いに踏み込みすぎることなく、適度な距離を保ったまま、お互いの気持ちを確かめることすらせずにここまでずるずるとやってきてしまっていた。
……だが、そんな曖昧な関係にも終わりを告げる時が来てしまったのだ。
「八重」
長政が名を呼ぶと、八重は潤んだ瞳で長政に見つめ返す。その瞳を見つめて長政は告げる。
「私は小夜を愛している。万福丸のことも大切だ。だから、八重を一番に想ってやることは出来ないかもしれない。だが……八重のことも大事に想っているのは本当だ。幸せになって欲しいと心から願っていた。しかし――」
心の赴くまま、言葉が並ぶままに喋っていると、なんだか酷い二股宣言のような気もしてきた。だが今はあえて理性を留めて衝動だけで突き進む。
今こそ野良田で見せたような、一心不乱さで突き進むべき時なのだ。
「――しかし、それが私の傍でなければダメだと言うならば私も腹を括ろう。小夜も八重も万福丸も、全部まとめて私が背負う。そしてみなを幸せにしてみせる。だから……だから、私の妻になってほしい」
「……はい。不束者ですが、よろしくお願いいたします」
そうして長政は、二人目の妻を迎えることとなったのだった。
◆――
八重を側室に迎えることをまず小夜に報告すると、彼女はさして驚いた風も無く「承知いたしました。おめでとう八重」と柔らかく微笑んだ。
これが正妻の余裕というものか。納得していると、小夜からしっかり「泣かせたら許しませんよ」と釘を刺されたため「無論だ」とその言葉を胸に留め置いた。
祝言は結局、挙げないことになった。八重がそう望んだからというのもあるが、武家の娘ならまだしも武家ですらない百姓上がりの忍びの出ともなると、家格が伴わないという理由もあった。
だがそれでも長政は、せめて身内だけでもと人を集め、簡単な饗応を開くことにした。
その場には八重の唯一の肉親でもある父、弥右衛門も呼ぶつもりだったのだが、八重には「今はもう敵同士ですから」と止められ、それでもと思い書状を出したところ、同じことを弥右衛門も返信してきて断られた。
そのため饗応は長政と八重、そして小夜に長政の弟たち(もちろん慶は来なかった)、長政の両親に政澄、そして政澄の縁者という極々限られた身内だけで行うこととなったのだった。
その日の夜。厠に立った長政は、ついでに夜風に当たるため縁側を歩いていた。夏の夜には虫たちが鳴き、空にはぽっかりと満月が浮かんでいる。
人の気配を感じたのは、長政が庭先で月を眺めている時だった。
「何者だ?」
「……弥右衛門にございます、新九郎様」
庭のどこかから聞こえる男の声。それは八重の父である弥右衛門だった。
「弥右衛門、来ていたのか。折角なら顔を見せろ」
「いえ、書状でもお伝えいたしましたが、既に私共は敵味方。軽率にやり取りすることは控えた方がよろしいでしょう」
「そうか……ならば八重に会って行ってはどうだ? 喜ぶぞ」
弥右衛門の声の出所を探りながら庭を見渡してみるも、その影すら一切見つからない。八重に忍びのイロハを教えただけあって、その腕もまた一流だ。
「いえ、遠目からですが既に顔を見ております故。それより此度は……新九郎様に、お願いの儀があり参上いたしました」
弥右衛門とこれほど多くの会話をしたのは初めてだったが、頼みというのも当然初めてだ。
長政は内心、驚いていた。
「どうした?」
するとわずかな沈黙の後、弥右衛門はぽつぽつ語り始める。
「……我が娘、八重は……幼き頃に火事に遭い、その時に母を失いました。娘も酷いやけどを負って、もはや女としては生きてゆけぬと考えました。故に私は男手一つで、あれに忍びとしての全てを叩き込み、この乱世でも一人で生きていけるよう育て上げたつもりです」
月夜の庭に響く、弥右衛門の低い声音。虫たちの声と混じり合い、それは心地よい音を奏でていた。
「ですが……女としての作法は教えてやれませんでした。常に師として接してきたため、親としても愛してやることができませんでした。故にご迷惑をおかけすることもあるかと思います。もしかすると、子の抱き方もわからぬやもしれません。ですから……」
段々と弥右衛門の声音に熱がこもり、震え出す。その声音だけで、彼がどれだけ八重を愛しているのかが分かった気がした。
「……ですからどうか、どうか八重のこと、お頼み申し上げます。私にとっては命に代え難い、大事な大事な一人娘です。あの子が幸せに生きてくれるのであれば……私はそれ以上……何も……」
それ以上はもう、言葉になっていなかった。
だがそれ以上はもう、必要もなかった。
「……相分かった。安心せよ弥右衛門。そなたの大事な娘であるように、今は私の大事な妻だ。必ず大切にする。男と男の約束だ、違えることは絶対にない」
「ありがとう……ございまする……!」
それだけ聞き遂げると安心したのか、やがて弥右衛門の気配は消え失せて、庭先にはまた穏やかな夜が帰ってきていた。
夜空に浮かぶ満月を眺め、長政は呟く。
「愛されていたのだな、お前は」
すると、戸の向こうから震えた声音が返事した。
「不器用ですが、優しい父なんです」
不器用なのは親譲りのようだ。彼女のすすり泣く声を聞きながら、饗応の夜は静かに更けていったのだった。




