100_永禄八年(1565年) 組香
八重との婚姻から早数日。毎晩毎晩代わる代わる小夜と八重の相手をしている長政は、近頃随分と寝不足気味だった。
何せ今までは小夜一人を満足させれば良かったものが、小夜と八重の二人の相手を日替わりでしなければならなくなったからだ。
今日も今日とて寝不足気味の長政は、昨晩同衾した八重と朝のじゃれ合いの後に別れ、あくび交じりに執務室へ向かう。
するとその廊下の途中で、見覚えのある顔が向かいから現れた。
「新九郎、ここに居ましたか」
「姉上。何か御用ですか?」
長政の姉、慶だ。このくそ暑い中で涼しい顔をして艶やかな小袖を羽織り、相変わらず魔性の微笑みを湛えている。
後の京極高次を産んでから早二年経つというのに、慶の美貌は未だ衰えることを知らない。それどころか近頃ではむしろ、ますます妖艶さに磨きがかかっているような気さえする。
長いまつげが並ぶ目元は夏の暑さを忘れさせるかのように涼やかで、どこか憂いを帯びているその顔は慶の持つ色香を辺りにまき散らす。
輝く長い黒髪や整えられた眉、艶やかな唇は古風な美しさを湛えており、どこか浮世離れした神秘性を彼女に与えていた。
そんな魔性の美を湛える彼女の影から、小さな顔がチラリと覗く。
それは慶の神秘的な美しさの代わりに愛らしさを足したような、どこか慶の面影を感じさせる少女だった。
「竜子も来たか。元気だったか?」
その愛らしさに長政の頬も思わずほころぶ。この少女の名は京極竜子。高次よりも先に生まれ、今年十歳になろうという慶の娘であり、長政の姪でもある。
そう、慶は既に二児の母なのである。
「お竜。ご挨拶なさい」
自身の後ろに隠れている竜子を、慶は軽く前に押し出した。押された竜子はおずおずと、二、三歩前に出て来たところで長政を上目遣いに見て小さい声で呟いた。
「お、お久しぶりにございます、叔父上様……」
「お、おじ……」
確かに竜子から見れば長政は叔父なのだが、とは言え未だ二十歳の若者だ。おじさんと呼ばれるような歳ではない。
それでも軽く衝撃を受けてしまうのは、浅井長政と呼ばれる前の、別の記憶を既に有しているからだろうか。
少しばかり……ほんの少しばかり気持ちを萎えさせていると、慶は自身の後ろにとてとて回る竜子を撫でながら言った。
「お竜が新九郎と組香をしたいと申しております。少し遊んでやってはくれませんか?」
慶に続いて小さく頷く竜子。竜子は長政のことを気に入ってくれているらしく、度々こうして遊びに誘われていた。
今日はどうやら組香の日らしい。
竜子が近頃夢中になっているのが組香と呼ばれる遊びだ。組香とは香りの種類や数、順番などを当てる雅な芸道のことである。
現代では香道とも呼ばれているが、その歴史は奈良や平安まで遡るらしい。
その中でも竜子が特に好んでいるのは、源氏香と呼ばれる遊び方だ。
これは五つの香りを組み合わせ、その並び方を答える遊び方で、香りが全て別の種類なら帚木、二番目と三番目だけが同じなら夕顔、といった風に役を当てるのである。
この組み合わせを全五十二種類の役の中から選ぶため、源氏物語の巻数に準えて源氏香というのだが、これがまた難しい。
「……これは……先ほどと同じ香りか……? いやしかし……まずは一、三が同じとして見るべきか……」
締め切った部屋で早速と組香に勤しむ長政。そんな長政を見て、少しばかり呆れ気味に慶は言う。
「新九郎。これは日常から離れ、心を落ち着けて優雅な時を楽しむ遊びですよ。そんなに難しい顔をして行うものではありません」
続いて竜子も愉快そうにころころ笑った。
茶道や花道もそうなのだが、こういう公家向けの雅な遊びが長政に向かない一番の理由は、真剣になりすぎてしまうところにある。
因みに香道において、香りは嗅ぐものではなく聞くものらしいのだが、長政にはいまいちピンとこなかった。どうやら公家にはなれそうもない。
「生憎と私は武家の生まれ、武家の当主ですから。まずは勝ってこそ本にて候。姉上こそ、すっかり京極の女になってしまわれましたな」
皮肉混じりに言ってやると、なぜか慶は心底嬉しそうに笑う。
「ふふ、言うようになりましたね新九郎。ではこういう話ならあなたも興味があるのではありませんか?」
それから辺りを一瞥して人の通りがないことを確認すると、手に持った扇で口元を隠し、頭を長政の方へすっと寄せた。
その拍子、彼女のまとう艶やかな香りが長政の元へふわりと漂う。
「……ここだけの話ですが、義輝公の後を弟君に継がせるため、還俗させる動きがあるようですよ」
それは永禄の変によって揺らぐ京の政局についてだった。
現在、将軍不在となった京は三好義継と三好三人衆が押さえているものの、義輝暗殺による反発が大きく上手く掌握できない状態だった。
それに対して反三好派は、義輝の次の将軍を擁立しようとしているらしい。
長政が呟く。
「確か名前は……覚慶様、でしたか」
無論、後の第十五代将軍にして室町幕府最後の征夷大将軍、足利義昭その人である。
長政がその名を出すと、慶は「存じておりましたか。さすがは新九郎ですね」と少しばかり目を見開いた。
「この話はまだ、一部の近臣にしか伝えられていないというのに……」
「……朝倉がそのために三好と交渉し、破談したと聞いておりましたから。たまたまですよ」
もちろんたまたまなどではなく、全て未来の知識によるものなのだが。
「たまたまですか」
当然そんなこと知るよしもない慶はいつものように妖しく微笑むも、すぐにその表情に影を落とした。
「しかし……それも上手く行ってはいないそうです。覚慶様は今、三好の監視下にあり身動きが取れないのだとか。三好の警備も一段と厳しくなっているようですから、何とか京を出る手立てがあればよいのですが……」
そうして頭を長政から離した慶は、優雅な手つきで香炉を持ち上げる。そしてそのまま静かに香りを聞いた。一連の所作はまるで公家のそれだった。
そんな所作を眺める長政も、さすがに三好の監視下から脱出する方法など知るはずもない。もちろん、史実通りならばこの後何かしらの方法で脱出するのだろうが……
「……酒呑童子のように、三好も酒で酔わせて退治できればそれが一番なのですが」
……そんな冗談が口を突いて出たのは、近頃丹波や若狭のことばかりを考えているからだろうか。
悪事を働く鬼、酒呑童子は、勧められた酒を飲んで酔い潰れたところを源頼光に討たれたという。
その大元は丹波の盗賊という説もあるせいか、不意にそんな話が脳裏をよぎったのだ。
「いえ、何でもありません。忘れてください」
自嘲し、次の香炉を手にしようとして慶の方を向く。彼女が先ほど聞いた香を次は長政が聞く番なのだが、何故か一向に回ってこない。
おかしく思って慶の顔を伺うと、何故か彼女は妙に真剣な面持ちで「なるほど」と頷いていた。
「存外、妙案かもしれませんね」
「……え?」
「近頃、京では近江酒の噂が広まっていると聞き及んでおります。将軍家への献上品として近江酒を手土産にすれば或いは……」
「いや、或いはって……そんなわけ無いでしょう。ただの戯れですよ」
どこまで本気なのかわからず半笑いで押し留めようとするも、慶の表情は真剣そのもの。力強い光を瞳に宿して長政に向き直る。
「戯れでも何でも、試してみる価値はありましょう。高吉様の手勢に近江酒を持たせ、義輝公旧臣との渡りをつけてみます。誰かありますか!」
「いや、ちょ……!」
止める間も無く現れた京極の手の者は、慶から仔細を聞くなりすぐさま駆けていってしまった。なぜか長政の冗談を実行するため、おぜん立てが進められていく。
「ダメで元々。もしうまくいけば、京極はもちろん新九郎の名も将軍様の覚えめでたきことになりましょう」
「いやそれは……まぁ……そうでしょうが……」
こんな冗談みたいな方法が上手く行くはずがないだろう。そう思いつつも今更止める気にもなれず、姉の好きにさせてやろうと一人納得することにした。
「叔父上様。次は叔父上様の番ですよ」
そんな話をしていると、竜子が少し膨れっ面になって長政を呼んだ。
組香がおろそかになっていることが不服らしい。長政はすぐに「すまぬすまぬ」と謝って、組香の続きに勤しむことにした。
そうして五つ目の香りを聞いた頃には、長政の頭からは義昭の件はすっかりきれいに忘れ去られていた。
義昭のことより、今は聞いた香りの役が何かの方が重要なのである。
――それから、覚慶が京を脱したのと知らせが入ったのはしばらく後になってからのことだった。
一連の仔細が記された書状が長政の元へと届けられた。長政の提案した、近江酒で見張りを酔い潰しての脱出劇であったことと合わせて、である。
「そんな馬鹿な」
協力した京極や長政に対しての感謝の添え書きと、浅井は名臣であると褒め称える数々の賛辞を読みながら、長政の口からはそんな言葉が漏れ出ていた。
源氏香の始まりについては諸説ありますが本作では後法興院記に源氏香の記述があることからこの頃には既に存在したものと仮定しています。
恐らく現代のものとは異なる原型のようなものだとは思いますがご承知おきください。




