101_永禄八年(1565年) 甘い天下
秋。それは日本において実りを告げる季節。黄金に輝く一面の田畑は、かつて日本を訪れたマルコ・ポーロに黄金の国と言わしめたという一説があるほどに美しい。
百姓たちが真冬の痛む寒さをこらえ、春の陽気と共に腕を痛めながら土を耕し、夏のうだる暑さの中で汗を流して草むしりに励むのは、ひとえにこの光景を拝むためである。
浅井家の直轄地から始まった長政の農業改革は、数年の時を経て既に近江各地へと広まっていた。
いつの間にか長政が伝えた塩水選や正条植えは口伝で各地へと伝わり、下坂衆によって作られた近江鍬や千歯こきは気付けば近江中の村々で使われるようになっていた。
これらによってもたらされた恩恵は米の収穫量が物語っている。毎年、税という形で納められる米の量はかつての数十倍にまで膨れ上がっており、長政自身も目を疑うような数字が並んでいるほどだ。
その結果、かつては六角兵による略奪で貧困に陥っていた近江国四木村においても、当時の光景はどこへやら。今年も大豊作を迎え、百姓たちはうれしい悲鳴に包まれていた。
そんな彼らが稲刈り歌を歌いつつ懸命に収穫に励む中、いつもの顔が彼らの中に見え隠れする。
「実る稲穂が頭を垂れれば、実りの秋がやって来る、よっこいそらそらさーっさ!」
北近江浅井家当主、浅井長政。例によって村に繰り出した今日は、稲刈り歌を村人たちと共に歌いながら、四木村で畑仕事の真っ最中である。
「浅井様に負けてらんねえぞ! 情けねえところ見せてたまるか!」
「おーらよっこいよっこいよっこいさ!」
この頃になると長政もすっかり手慣れたもので、槍や刀より鎌の方がよっぽど手に馴染んでいる気がしているほどだ。自慢の体格も畑仕事をするにあたって都合が良い。
かつて六角兵と戦った折、長政の顔が割れていることもあって新十郎と名を偽ることすらせず、村人たちと共に畑仕事に励む長政の姿を見れば、きっと直経辺りは卒倒していたことだろう。
しかし今回はそんな直経の代わって珍しい顔が長政と共に畑仕事に勤しんでいた。
「はっ……はっ……」
見ているこちらが心配になるほど汗をだくだく流しながら、肩で必死に息をして、村人や長政に比べると三分の一にも満たない速度で稲を刈るその男。
彼こそ稀代の天才軍師こと竹中半兵衛である。
明らかに畑仕事に慣れていない手つきで、それでも必死に食らいつくように稲を刈っていく半兵衛。元々力があるわけではない彼にはとてつもない重労働なのだろう。
「どうした半兵衛、手が止まっているぞ」
そこへ稲の束を抱えた長政が通りがかる。しかしその足は止まることなく半兵衛の隣を素通りし、その先にある稲架へと向かって稲束をかけた。
そして再び戻ってきたところで長政はすれ違いざまにまた一言。
「もたもたやっていてはそのうち日が暮れてしまうぞ」
「……ッ!」
声なき声を上げて、半兵衛は中腰のまま長政を睨む。しかし長政はそんな半兵衛を一瞥すらせず、再び稲を担ぐともう一度隣をすたすた歩いて。
「そんな風ではお前を馬鹿にしたという斎藤の者たちにまた笑われるぞ」
そう言い残し、また通り過ぎて行った。
遠ざかる長政の背中を睨み、半兵衛は叫ぶ。
「武士が畑仕事なんかするわけないだろ――!!」
四木の秋空に、息も絶え絶えな半兵衛の絶叫がこだましたのだった。
◆――
陽が傾き始めた夕刻頃、ようやく休憩に入った二人はあぜ道に腰かけて、秋風を頬に感じていた。
「今年の米も豊作だな。また一年、私も民も飢えずに済みそうだ」
手ぬぐいで汗を拭きながら、稲の刈られた田んぼを満面の笑みで眺める長政。その隣に腰かける半兵衛は項垂れるようにして顔を俯け、相変わらず肩で息をしている。
鼻先からは流れる汗が地面にぼたぼたとしたたり落ちて、気の毒になる程の水染みを作り出していた。
「今仲達が……! 畑仕事に興じていたなどと……! 後の歴史家が知れば……! ……!」
「息が切れておるぞ。普段から身体を動かさぬからだ」
「やかましい……! はぁッ、はぁッ……!」
なぜ半兵衛がこんな目にあっているのかと言えば、長政が彼を連れだしたからに他ならない。
かつて長政が半兵衛と問答をした折、天下の有りようを知るべしと言った。いわばこれは、その天下を知るための一環なのである。
本来武家が畑仕事をすることなどあり得ないのだが、そのあり得ないをやっているのが長政だ。そしてそれこそが長政に勝てない一番の理由だと半兵衛は考えている。
だからこそ半兵衛は毒を吐きながらも、こうして慣れない重労働に従事しているのであった。
「大体、丹波の内藤宗勝が討たれた以上、今こそ丹波に攻め入る時でしょうに……!」
ようやく息が整い始めて来た半兵衛がそう言うと、長政は「……そうかもしれぬな」と、遠い目をしたまま夕陽を見つめていたのだった。
散々長政を悩ませた男、内藤宗勝の死が知らされたのはつい先日のこと。以前長政が支援した丹波の国衆、荻野直正との戦いで数百の兵共々討死したらしい。
永禄の変の影響で力が削ぎ落され、不安定となっていた三好政権において、この内藤宗勝の死と丹波失陥は相当な痛手となることだろう。
てっきりこれから若狭を巡って、内藤宗勝や三好と渡り合うことになると思っていた長政からすれば、どこか拍子抜けするような幕引きだった。
「あの松永久秀の弟……一度会ってみたかったが」
きっとこうやってこれまでも、そしてこれからも、長政の知らないところで戦乱に巻き込まれ、数多の英霊が命を落としていくのだろう。
そしてその中には、長政が歴史を捻じ曲げてしまったがために命を落とす者も居たはずだ。
もし長政が丹波の国衆に鉄砲を送らなければ。或いは内藤宗勝と手を結ぶ未来もあったのかもしれない。
今更そんなことを考えてもどうしようもない。わかっていても、長政の中にはそんな『もしも』ばかりがふつふつと湧き上がるのだ。
これは長政が未来の知識を有しているからか。それとも、朝倉景垙の一件が尾を引いているからか。
「……ままならんな」
近頃口癖になりつつあるそれを、長政はため息混じりにこぼすのだった。
「お侍様ぁ!」
そこへ、村人が二人の元へ駆け寄って来た。その手には何やら包みのようなものを抱えている。
「どうした?」
「米が炊けました! この村でとれた米でさ! お礼に腹いっぱい食っていってくだされ!」
差し出されたのはいくつかの握り飯が包まれた竹の皮だった。開いてみると、中にはそれぞれ炊き立ての握り飯が真っ白に輝いていた。
「有難い。半兵衛、せっかくだ。頂くとしよう」
握り飯を渡して去っていく村人の背を見送り、半兵衛にそれを手渡す。すると半兵衛は難しい顔で受け取り、ぽつりと呟いた。
「……わからぬ。どうしてこんなにうまい米を作れる手がありながら、人は下らぬ戦を続けるのでしょう。その手に槍ではなく鍬を持ち、畑を耕せば、天下はもっと豊かになるというのに」
それはある意味、半兵衛にとっても長政にとっても、永遠の課題ともいうべき疑問だった。
誰だって、戦なんかしたくないに決まっている。だと言うのに、なぜこの天下から戦は無くならないのだろうか。
「俺にもわからん。その答えがわかれば、この乱世ももっとマシになるだろうにな」
ひょいと持ち上げた握り飯に食らいつくと、米の香りと甘みが口の中いっぱいに広がって、それだけで幸せな気持ちが溢れて来る。
握り飯をめいっぱい頬張り、水で喉を潤しながら二口、三口と食べ進める。ちょうど腹が減っていたせいもあって、あっという間に長政の胃の中に一つ目の握り飯が収まってしまった。
手に付いた米を一粒残らずついばんでいると、長政の豪快な食べっぷりを黙って見ていた半兵衛が問う。
「なぜ浅井殿は畑仕事なんかを? 浅井家は銭に困ってなどおらぬでしょうに」
「なぜ? なぜ、か……そうだな……」
改めて問われると答えに困ってしまう。初めは内政改革の一環で始めた畑仕事だった。誰も知らないやり方や道具を使って改革を進めるには、どうしても自分でやってみせて、その効果を見せる必要があったからだ。
だが、今はもうその必要も無くなった。誰もが長政の言っていたことの意味を知り、それを実践し、そして豊作という結果も導いた。
にも関わらず、長政は未だにこうして畑仕事を続けている。それが何故か、と問われれば――
「……たまに、己が嫌になるからだろうな。善意や親切のつもりで手を差し伸べても、頭の中ではいつの間にか、損得を勘定している。この施しがどうすれば己の利に繋がるか考えついてしまう。そんな打算まみれの手を差し出して感謝されると、どうにも胸が痛んでな」
――長政は、先ほど渡された握り飯に視線を落とし、ぽつりと呟く。
「だからせめてこんな時くらい、打算抜きで力になってやりたいのだ」
もし未だに畑仕事に従事している理由があるとすれば、きっとそんな、どこまでも利己的な罪滅ぼしのためなのだろう。
「笑うか?」
再びもぐもぐと握り飯を喰らいつつ、半兵衛に苦笑いをしてみせる。てっきりこんな答えでは馬鹿にされると思っていたのだが、返ってきたのは意外な反応だった。
「……少し、わかる気がします」
「……」
「……何ですかその顔は」
「いや、てっきりいつもの調子で馬鹿にされるかと……」
「私を心ない物怪か何かと思っておりませんか?」
そういう訳ではないのだが……
答えに困る長政が握り飯を飲み下したのを見て、半兵衛もまた語り始めた。
「……いつかあなたが言っていたように、天下を上からではなく横から見てみようと思い、先日若狭を訪ねました」
「ほう?」
近頃姿を見ないと思っていたら、どうやら若狭へ出ていたらしい。長政もまだ若狭の町を見ていない。半兵衛が何を見てきたのか気になるところだ。
しかし半兵衛は、相変わらず憂いを帯びた顔で続けた。
「酷いものでした。賊に荒らされ、あちこちで人が死に、だというのに武家の者たちは素知らぬ顔で練り歩いている。彼らの通る道を、糊口をしのいで生きる百姓たちが開けて、頭を地面に擦り付けていました」
「……」
「だが、彼らはそれでも畑を耕していた。すっかり焼き払われ、踏み躙られた畑を、それでも必死に……汗を流して耕していた。その実りの半分は、先ほど自分たちを蔑んでいた武家の者らに持っていかれるというのに」
この時代の百姓は誰よりも命が軽く扱われる。言葉や知識でそのことを知っていたとしても、その光景を直接目の当たりにしたことが半兵衛にとっては衝撃的だったのだろう。
半兵衛はまるで、思い出すように遠い目をする。
「あの時の光景が未だに瞼から消えません。私はかつて、そういう者たちを救ってやろうとして稲葉山を乗っ取ったが、それでも上手く行かなかった。私はどうすればあの者たちを救ってやれたのか。そもそも救ってやろうという考え自体が過ちなのか……未だ、答えは見つかりません」
「半兵衛……」
「ですが、近頃私は思うのです。悩み、苦しみながら最善を模索し続ける浅井殿だからこそ、この景色を生み出すことが出来たのではないか、と。少なくともこの景色は、かつての私が作ろうとして作れなかったものだ」
半兵衛の視線の先には愉快そうに歌いながら、今日の仕事終いをしている百姓たちの姿。きっとかつての半兵衛もまた、この光景のために様々な苦労に見舞われたのだろう。
そしてその時は見ることのできなかった光景をこうして目の当たりにすることで、彼も何かを感じているのかもしれない。
長政は穏やかな半兵衛の横顔を見て、彼の中で何かが変わっていることを感じていた。
「争いのない世の作り方は俺にもわからん。だが――」
振り向いた半兵衛にニッと笑って見せてやり、最後の握り飯を鷲掴みにする。傾く夕陽で橙色に染まった握り飯は、何より美味そうな御馳走に見えた。
「――だが、あいつらの作るこのうまい米は、戦ばかりの天下でもまだ捨てたものではないと思わせてくれる。俺はあいつらが、そんなうまい米を作り続けられる、そういう天下を目指したいのだ」
そうして握り飯に食らいつき、もぐもぐと飲み下した長政は半兵衛に問う。
「お前に言わせれば甘すぎる天下かもな、半兵衛」
すると半兵衛も同じように握り飯を持ち上げて。
「……かつての私なら、甘すぎると断じていたことでしょう。ただ――」
長政に倣うように、豪快に一口食らいつく。そして。
「――今の私は、そういう天下も悪くない……そう思います」
間抜けにも口元に米粒を残したまま。半兵衛は強い眼差しと共に、確かにそう答えたのだった。




