102_永禄八年(1565年) 上洛要請
小谷山にも冬が近づき、まもなく訪れる年の瀬に向けて誰もが忙しく働く十一月。赤尾清綱は、長政からの突然の招集によって浅井屋敷を訪れていた。
庭先ではつい先日まで美しく色づいていた紅葉がすっかり黒ずんで、女中が落ち葉を掃いていた。見ない顔だ。恐らく、近頃長政が近くに置き始めた夜鷹の者なのだろう、と清綱は推察した。
すっかり冷たさを帯び始めた秋風が清綱の頬を撫でて、身震いしながらそそくさと縁側を進む。
「しかし、殿から至急のお呼びとは珍しい」
赤尾家は浅井家臣の筆頭ということもあって、小谷城内に赤尾曲輪を構えている。
本来家臣は城下に屋敷を持つものだが、城内に居住を許されていることが赤尾家に対する信頼の厚さを物語っており、清綱にとっても誇りの一つとなっていた。
しかし、そんな清綱も長政の方から呼びつけられた経験は殆どない。大体が書状か、浅井屋敷を訪れた際のついでに、という形だ。
一体何事なのかと思案しつつ評定の間へ足を踏み入れると、既にそこには先客が腰を下ろして待っていた。
「海北殿、雨森殿。お二方も呼ばれておったか」
「赤尾殿。やはりただ事ではないようだな」
清綱にまず気付いたのは雨森貞清だった。丸顔の彼は清綱が訪れたことで事態の重大さを悟ったらしい。
その隣には相変わらずしかめっ面で黙りこくっている海北綱親。赤尾清綱を一瞥すると、むっつりと口を閉め切ったまま挨拶代わりに頷いて見せた。
海赤雨の三将と呼ばれる浅井きっての重臣三名が一同に呼ばれたのだ。やはりただ事ではないのだろう。何事かと思案しながら部屋の中に足を踏み入れ、彼らに並んで腰を下ろそうとした時だった。
「なんじゃ、お主らも呼ばれておったのか」
入口の方から、しわがれた声が響く。
「大殿!? それに政澄殿まで……!」
見れば浅井久政、浅井政澄の両名までもが集まってきたのだ。いよいよもってこれはただ事ではない。
一門衆である二人と自分たちが横に並ぶわけにもいかず、評定の間の真ん中を空けて向かい会うように、久政ら一門衆が上方、清綱ら家臣衆が下方へ座り直す。
近頃今浜で子供たちに算術を教えているらしい久政は、以前より表情が柔らかくなったように見えた。
少なくとも以前であれば、清綱が驚いて見せた時点で「なんじゃ、ワシがおったら都合が悪いのか」と皮肉の一つも落ちていたことだろう。
同じ一門衆とは言え、政澄はかつて清綱と共に久政へ退隠を迫った仲だ。そんな二人が連れ歩いている時点で久政も随分と心変わりしたらしい。
「政澄殿、何か殿から聞かされておらぬので?」
浅井家の二人が腰を下ろして早速、貞清がそう問いかける。しかし、やはり政澄も首を横に振る。
どうやら事の次第を知っているのは長政だけらしい。いよいよ緊張が高まり、誰もが口を噤んでその時を待つ。そして。
「すまん、待たせた。もう揃っていたか」
彼らの主人であり浅井家の当主である長政が最後に姿を現したのだった。
清綱はもちろん、他の者たちも一斉に長政へ頭を下げる。久政までそうしているのは、浅井家は完全に長政のものであると身振りで表現するためなのかもしれない。
現に今の浅井家は、誰の目にも疑いようなく長政が統括している。主戦力も着々と長政の直轄部隊、鷹の兵に置き換わりつつある。
清綱のような古臭い考えを持つ家臣団からすれば、自分たちがいつ蔑ろにされるかという不安もある。唯一の救いは、今のところ長政にその様子がないことだろう。
そんな浅井家の風雲児は早速と上座に腰を下ろしてあぐらをかくなり、まずは一言。
「みなを呼び立てたのは他でもない。まずはこれを見てほしい」
そう告げて、懐から一通の書状を取り出した。
「叔父上」
「はっ。拝見致しまする」
代表して政澄が受け取り、書状を開く。その間、長政の表情がずっと厳しいままだったのが印象的だった。一体誰から、何が告げられたのか――
「こ、これは……!」
その時、政澄が驚きの声を上げる。そして。
「これは、足利将軍家からの御内書……上洛要請にございますか!?」
「なんと……!?」
その瞬間、評定の間が騒然とし、一同の顔が驚愕に染まった。
「シッ。まだ一部の者しか知らぬことだ。声を控えよ――先日、和田惟政殿が私の元を訪れ、その御内書を持ってきた。ご丁寧に副状まで合わせてな」
御内書、つまり将軍直筆の命令書だ。それが長政の元へ届けられるとはつまり、将軍家にとって浅井は無視できない存在となっており、頼りにされているということでもある。
武家に生まれた者として、その棟梁たる足利家から頼りにされる。これほど栄誉なことは他にないだろう。
「浅井三代、ついにここまで成り上がったか」
しみじみと久政が呟いた。思うところはあれど、清綱とてその思いは同じ。大名ですらなかった浅井家が、ついにここまで。
こう考えるとやはり、政澄には悪いが義輝暗殺は好都合だった、と清綱は思案する。
そもそも京極ではなく浅井を頼りにしてきたのも、いよいよをもって足利家に余力が無くなったことの現れ。
即ち、義輝が暗殺されたことによって初めて浅井に目が出てきたのだ。
でなければ今頃、京の情勢を掌握した足利家とそれに与する六角家が再び盛り返し、浅井を仇敵として討伐しに来ていた可能性さえあるのだから。
「して、上洛要請とは? 何故将軍家は我らに上洛を求められる」
高揚する清綱たちを落ち着けるように、今まで黙りこくっていた海北綱親が続きを促す。政澄は頷いて御内書の続きを要約した。
「三好家にて、三人衆と松永久秀の間に確執が生まれ分裂の兆し有り。これに付け入り、ご上洛を目指す由。ついては六角、斎藤、織田、そして浅井の力を合力、新将軍と共に上洛し京から三好を廃せよ――というのが将軍家……新将軍となられる、覚慶様からのお下知だ」
新将軍。その響きに誰もが息を呑んだ。
現在、覚慶こと後の足利義昭は、甲賀にて和田惟政に匿われていた。この地から御内書を発布し、上洛要請をあちこちへ送っていたのだが反応は芳しくない。
どの大名も覚えの良い言葉を並べ立てるものの、その最後には『しかし――』と付け加え、周囲の敵や内部の不穏を理由に上洛要請に応えられない始末だった。
現にこの瞬間も三好と雌雄を争った六角家でさえ、すぐには上洛出来ない有様なのだ。
何としても上洛を果たし、次なる将軍宣誓を行いたい幕臣らとしては、誰でも良いから力を貸してほしいということなのだろう。そうして白羽の矢が立ったのが浅井、という訳だった。
「しかし……織田はともかくとして、よもや六角や斎藤とまで手を結べとは……」
清綱が呟くと、誰もがううむと唸りを上げた。
六角が上洛できない一番の理由はもちろん、浅井が後背を脅かしているからに他ならない。
観音寺騒動の影響で未だ完全には立ち直れていない六角が、浅井から後ろを突かれれば上洛どころではないという訳だ。
もちろん長政にも浅井家臣団にもそんな気はないのだが、国衆までそうとは限らない。
ここでかつての家督争いのように、今度は国衆たちが人質でもとって大騒ぎすれば、長政とて折れるより他ないだろう。
そしてもしそんなことになれば六角の上洛は泡と消え、足利義昭の将軍就任もまた大幅に遅れる、という訳だった。
「みなを呼んだのは他でもない。この六角、斎藤との同盟について意見を募りたいと思ってな」
ようやく一同を集めた目的を語った長政が、上洛要請などという栄誉を授かりながらも難しい顔をしている理由がこれでよくわかった。
これは難しい決断を求められる話だ。
「六角めは何と?」
清綱が問うと、長政は「ああ」と頷く。
「和田殿によると、六角は乗り気らしい。むしろこの同盟を持ちかけたのも六角なのだとか。和田殿はこの後織田にも向かうと言っていたが……」
「まだ何か?」
「私に、織田信長の妹を娶るよう勧めて来た」
「なんと……」
呟いたのは貞清だったが、他の者たちも同じ心持ちだったに違いない。
信長は元々、尾張守護代の家臣の出。そこから守護代を討ち、謀反人を討ち、敵を全て討ち払って尾張統一を成し遂げた男だ。
家格が重視されるこの時代においては浅井と同等格、或いはやや織田方が上と言っても良いだろう。
その両者が婚姻関係となり、将軍家の斡旋で六角や斎藤と手を結ぶ。確かにあり得なくはない形だが……
「織田と朝倉は犬猿の仲。織田と結べば或いは板挟み、ということもあり得ましょうな」
政澄が懸念を述べる。そう、織田と朝倉の確執は浅井家に連なる者であれば誰もが知るところだ。
特に越前との国境に領地を持つ阿閉貞征などがこの同盟を知れば、朝倉を刺激するとして頑と反対することだろう。
それに、懸念はそれだけではない。
「あの気位だけは高い朝倉のこと。織田の上洛によって新将軍を擁立したと知れば、決して京には顔を出さぬであろうな……今の将軍家は足場が揺らいでおる。朝倉の横暴を許すかどうか……」
「大殿、その場合我らは織田と朝倉、その両者の間に立たされる、ということにござりまするか」
久政の言葉に清綱が問えば、久政は渋い顔のまま「そういうこともあり得ような」と呟いた。
かつて、長政の祖父亮政は、朝倉の庇護を得て北近江一帯の基盤を確固たるものにしたと伝わる。
その後、久政は庇護先を六角に変えたため庇護の関係は終わったものの、古くからいる家臣の中には朝倉に恩義を感じている者も多い。無論清綱もその一人だ。
もし織田と朝倉が対立したなら、どちらに付くかなど明白だった。
「ならば此度の同盟は――」
「しかし、同盟を断る訳にも参りますまい。もし拒否すれば、それ即ち上意への叛意と取られ、六角や斎藤が大手を振って攻め寄せますぞ」
清綱が話をまとめようとした時、待ったをかけたのは海北綱親だった。
「しかし海北殿。そうは言ってもだな……」
「先日、殿は若狭武田と盟を結んだばかり。であるというのに六角と斎藤を今再び敵に回せば、最悪若狭も翻りますぞ。否、翻らずとも逸見が攻め寄せた折に援軍を出すという約定、違えることになりましょう」
「それは……そうかもしれんが……」
綱親の言葉にも一理あり、清綱は黙りこくる。結局、最善を考えるならばこの同盟を呑むしかなさそうだった。
「……相分かった。みなの意見を元に少しばかり思案する。恐らくこの同盟に乗ることになるだろうが……今日は屋敷でゆるりとして行くとよい。私は少し、自室にこもる」
一通り意見が出尽くしたところで、最後に長政がそう締めくくった。
そうして言うや否や足早に部屋を後にした長政。その背中に各々が頭を下げ、清綱はこれからの浅井の行く末に思いを馳せるのであった。




