097_永禄八年(1565年) とある問題
さて現在、近江浅井家ではある問題が密かに鎌首をもたげつつあった。
それは対処法こそ簡単な話なのだが影響規模があまりに大きく、長政自身も問題を認識しながらあえて目を逸らし続けていたものだった。
だが、諸般の事情を鑑みるといよいよ目を背けることが難しくなりつつあり、その問題の影響も少しずつだが確実に、長政の周りを蝕んでいっていた。
近江の隆盛とは相反するように、その問題はずっしりと、重く長政の腹に横たわる。そのことを考えるだけで深くため息が漏れ出てしまうような、陰鬱な気分にさせられる。
長政にとって、ある意味最も大きな、そして対処の難しい悩みとなった問題。それは――
「ところで浅井殿。ご側室を迎えるご予定は?」
――この、側室問題である。
今の浅井家には、近江の様々な国衆が挨拶に来るようになっていた。
これはもちろん、浅井家と関係を良くすることで今浜を始めとした北近江各地の恩恵をあずかろうという魂胆に他ならないのだが、その際にほぼ必ず聞かれるのがこの側室の話なのだ。
「……いや、今のところは予定はない。そしてこれからも迎えるつもりはない」
「失礼ながら、浅井殿にはご嫡子が一人しかおらぬと伺っております。それでは万が一の折、お家の存続に関わりまする。それに姫がおれば他の大名と昵懇となることもできましょう。お家のためを思って、側室を取られては如何か?」
そう告げたのは西近江の国衆の一人だった。この者もまた、昨今の近江事情から浅井に靡いて取り入ろうとする者の一人なのだが、この手の話はここ半年の間に数えるのも馬鹿らしくなるほどに聞き飽きた。
始めこそ子を産めなくなってしまった小夜を蔑ろにされているようで、長政も本気で怒っていた。
しかし、こうも何度も何度も何度も何度も何度も何度も事あるごとに聞かれていては、やがて怒る力も尽きてしまった。
それにこれは国衆だけでなく、浅井家の家臣も同じ話だ。彼らも彼らで少し隙を見せれば側室の話に持っていこうとするのだから気が休まらない。
嫡男が生まれた以上、もはや遠慮はいらないということなのだろう。
上手く取り入れば儲けもの。もし何かがうまくかみ合って、生まれた子が浅井家当主にでもなれば近江の恵みを全て手に出来る。
ともなれば自分の娘を長政の側室に入れようとする者が後を絶たないのも無理は無いと言えた。
「しかし、なぁ……」
先ほどの国衆が立ち去り、部屋に残された長政は、同席していた浅井政澄や赤尾清綱に愚痴をこぼす。
「理屈はわかる。わかるのだが、子を産めなくなったから次の姫を迎える、というのはどうも道理に悖るような思いがして気が進まんのだ」
この戦国の時代に、道理だとか情だとか、そんなことを言っている場合ではないのは重々承知の上なのだが、それでも長政の良心がそれを良しとしないところがあった。
男も女も数で数えられ、碌に名前すら与えられないような時代だ。正しさなんてものは時代や環境でいくらでも変わる。むしろこの状況においては浅井家臣や国衆の考えこそ正しいのだろうが……
渋る長政に、清綱が告げる。
「そうは仰いますがな。お家の存続に関わる問題であることは事実にござる。この乱世、ご嫡子の身にいつ何が起こるとも分かりませぬ。その折、子を成せぬ小夜様だけを側に置き続けるというのはいささか難しいものがございましょう」
宿老だからこその責任からか、耳に痛い話でも遠慮せず長政に物申す。その姿が頼りになることもあれば、今のように鬱陶しく思う時もある。
これを排除しようとしたのがかつての六角義治であり、その結果が観音寺騒動なのだと思えば黙って聞いておくべきところなのだろうが……
長政は知っている。史実ではこの後に、信長の妹である市姫と婚約することになることを。
これは足利義昭上洛に伴う同盟締結の婚姻であり、恐らくそれは今回の歴史でも回避することが難しいだろう。
何せ断れば、その瞬間織田家と敵対――とまではいかずとも、関係を悪化させることに繋がるからだ。
史実の滅亡を回避するため、ここで織田と戦うというのであればそれでもいい。だが長政の心情は未だどちらに傾くべきかを決めかねている。
このまま史実通り織田に従い、史実を変えるために織田と共に朝倉と戦うか。それとも史実通り織田と敵対し、朝倉と共に織田と戦うか。
どちらにせよ、史実とは異なる歴史になるのは間違いない。何せ今の浅井は既に、史実の浅井よりよほど力を蓄えているのだから。
問題は、どちらに転がすべきかという長政の胸先だけだ。乱世を治める。みなが平和に暮らせる世を作る。どちらに転がせばその未来を掴めるのか。長政にはまだわからないでいた。
そのため市の扱いもどうするべきか決めかねており、従って側室問題も……と何もかもが共連れで悩みの種となっていたのだった。
「殿のお気持ちもわかりますが、やはりここは誰かしらから姫を迎えるべきと私も考えております。特に先日、若狭武田家とは手を結んだばかり。ならば武田か、もしくはその縁者から姫を貰うことも思案すべきかと」
唸る長政を説得するかのように、今度は政澄がそう続く。確かに武田家と今より昵懇の仲になれれば、若狭の小浜湊も浅井が領することが出来るかもしれない。
そうなれば浅井の力は今よりもっと強くなる。そうすれば織田にも朝倉にも振り回されることなく、大名として生き残る道も開けるかもしれない。
「わかってはいるのだが……」
「殿、今こそご決断の時にござる」
「ご側室をお迎えなされ」
清綱にも政澄にもそう詰められて、更に苦い顔になる。現状、長政の味方は家中に誰も居ないのだ。
「だが、それでもし姫を迎えて、それで小夜との折り合いが悪くなれば家中の問題にも波及しよう。小夜は六角の姫。下手をすれば六角が動く。小夜との折り合いをつけ、六角の機嫌を損ねず、更には浅井のためになる。迎えるにしてもそういう相手にせねば……それに小夜が認めるかどうか……」
苦しい言い訳だが事実でもある。この時代の側室は同時に背景勢力の外交問題にも発展しやすく、徳川家康なんかはそれで長男を処刑する羽目になっている。
安易に側室を次々と作れば、それこそお家騒動に繋がりかねないのである。
だが。
「現に今、お家の存亡に関わる事態にございます。それを、起こるかもわからぬ騒動のために見て見ぬふりをするというのは如何なものか」
と政澄が反論すれば。
「左様。それに元来はご正室がご側室を探すのもお務めのひとつ。それを怠っているのは小夜様の方。ならば我ら家臣がその務めを果たすは忠義故の道理というものにござる」
と清綱が手厳しい言葉を付け加えた。
「しかし……」
それでも長政が言い淀んでいる、まさに時だった。
「ならばわたくしが殿のご側室を見繕えば、それで文句はないのですね?」
突然部屋の外から女の声が響く。ぎょっとして三人が反射的に、声のした方へ視線を向ける。
するとそこにはよく見慣れた小柄な、しかし今は何よりも恐ろしい人影がひとつ。
「さ、小夜……いや、これはだな……」
長政の妻、小夜である。
彼女は今まで見たことないほどの満面の笑みを浮かべ、全く笑っていない目で三人を見据えていた。
「確かに、元来世継ぎを為すことこそ当主の務め。そしてその務めを助けるのが正室の務め。子を産めぬ今のわたくしでは、そのつとめは果たせませぬ」
「お、奥方様……いえこれはその……言葉の綾、と申しますか……」
「さ、左様。何も奥方に落ち度があるなどと申している訳ではござらん」
途端に弱腰になった家臣二人を、しかし優しく宥めるように小夜は続ける。
「いいえ構いません。政澄や清綱の申すように、わたくしに落ち度があったのは事実ですから」
場の空気がどんどんと凍えて行く。政澄も清綱も先ほどまでの威勢はどこへやら。しずしずと小夜が歩み寄る度に声は小さく、目線は下へと落ちて行く。
そしてついに長政の目の前にまで辿りついた彼女は、ゆっくりと腰を下ろして長政に言った。
「ですからわたくしが探すとしましょう。浅井の事情を理解しており、兄様と子を成せる、そういう女子を」
「い、いえ奥方様。何も無理に側女を探さずとも……」
「いいえ政澄。あなたも先ほど申していたではありませんか。これは浅井家存亡の危機なのです。ならばその危機を何とかせねばなりません」
「しかし奥方様……」
「清綱。あなたにも心配をかけました。浅井のため心を砕くその姿勢、まさに忠臣とも言うべきもの。これからも兄様を頼みますよ」
「小夜、そなたが嫌なら私は全然このままでも……」
「兄様もこれから先、ずっと側室の話を持ち出されるのはお嫌でございましょう? どうぞご安心くださいませ。その話も本日限りで終わらせます故」
取り付く島無しだ。相変わらず朗らかに笑っているのに、目だけは凍えるような冷たさがある。
特に政澄や清綱を見る際の眼光は矢のように鋭い。震えあがる三人を他所に小夜はさらに笑みを深くする。
「どうぞ、この小夜めにお任せくださいませ。必ずやお務め、果たしてみせましょう」
もはやこの場には、彼女の言葉に否と言える者など一人も居なかった。




