105_永禄八年(1565年) 届かぬ茶碗の拾い方
急な質問だったためか、安休は少し首を傾げる。
「どう……とは?」
「はい。私の――殿の施策により、今浜や北近江は豊かになりました。民にも笑顔が溢れており、今まで行ってきたことは間違いではなかったと思っています。ただ……」
思いの丈を吐き出すように、遠くに聞こえる今浜の喧騒に押し出されるように。長政は続ける。
「ただ、それでもやはり限りがある。救える者の数にも限りがあり、全てを救う事はできません。或いは上手く事を運べば、もっと救えた者もいたかも知れない。そんな考えが浮かんでなりません。そう思うと、今浜の者たちは……私たちは、本当にこれで良いのかと考えてしまうのです」
心の奥に引っかかっていた、そんな思いがついこぼれ落ちる。
やり方が、出会い方が違えば、もっと救えたものが居たのではないか。
朝倉景垙が、内藤宗勝が、或いは他の者たちが。本当はもっと救えたのではないか。
未来を知る長政だからこそ、もっとできた事があるのではないか……と。
そんな者たちを見捨てて歩んできたこの道は、果たして間違っていなかったと言えるのだろうか。
天は、長政の運命は、もっと多くの者を救う事を期待して、長政に未来の知識を与えたのではないだろうか……と。
そう訴えると得心がいったのか、なるほど、と口だけを動かしてつぶやいた安休。それから少しばかり思案して、そして長政を見た。
「そうですね……まずこの北近江を訪れて初めに思ったのは……堺のような賑やかさだ、ということにございます」
「堺もやはり、賑やかですか」
「はい。毎日のように南蛮のものたちが出入りし、見たことのない物や動物たちで溢れております。しかし、すぐにひとつ、堺との大きな違いに気付きました」
それは何か、と目で訴えてみせると安休は静かに頷く。
「子供たちが多いということにございます。堺は確かに賑やかですが、ここまで子供がおりません。しかし今浜は子供たちで溢れている。聞けば、浅井様は浅井小屋と呼ばれる小屋を幾つもお建てになり、身寄りのない子供たちの面倒を見ておられるのだとか。そのお話を伺い、私は思いました」
そうして安休は穏やかに告げる。
「浅井様とは……なんと傲慢な方なのだろう、と」
「傲……慢……?」
それは思わぬ答えだった。
あまりのことに長政も言葉を失う。
一瞬、何を言われているのかがわからず思考が止まり、安休の言葉を噛み砕くも、やはり答えは変わらない。
長政は安休に、傲慢だと言われたのだ。
「はい。ご家来衆であられる浅元様を前に不躾でございますが」
しかし言った本人はと言えば、まるで間違ったことを言っていないとでも言いたげだ。そのせいで長政の中にも、多少なりとも反感が生まれる。
子供たちを救うことがそんなに傲慢か? 己が財を投げ打ち、人を救うことがそれほどまでに醜いことか? 様々な思いが駆け巡ったがそれらをぐっと飲み下す。
「それは……それはなぜ、そう思われた?」
生半可な答えや嘲りがあれば自分の正体を明かして怖がらせてやろうかとも思った。しかし、長政の問いに安休は答えることなく、それどころかふいと部屋の奥に視線を向けるなり言う。
「浅元様は、あそこに置かれている茶器の値打ちが一体いくらになるか、ご存知でしょうか」
「あ……? 茶器……?」
見れば部屋の奥の棚の上に茶碗がひとつ置かれていた。漆塗りの、縁が味のある湾曲を見せる茶碗だった。
「……生憎と、私に茶器の価値は……」
「あちらの茶碗は見るものが見れば五十貫(約750万)は降らぬ名物にございます。こちらの店主、甚兵衛様は、時折ああやって名物の茶器を拝見させてくださるのですが……もしあの茶碗が床に落ちそうになったなら、浅元様はいかにいたしますか?」
「……何の話だ?」
全く意味がわからず安休を見るも、安休は相変わらず柔らかな笑みを浮かべるばかり。それ以上口を開きそうにない。
どうやらこの、何を問われているのかわからない謎の問答を続けなければ、先ほどの答えは聞けないらしい。
仕方ない、と諦め気味に、長政は再び茶碗へ視線を向けた。
「如何にして、と問われてもな……落とすわけにはいくまい。割れれば一大事だ。普通に手で、落ちる前に拾うが……」
すると安休は一見すると柔らかな、しかし今という状況においては、まるでこちらを小馬鹿にしているようにも見える笑みで「なるほど」と頷いて。
「では、もしも浅元様がこの場から動けないとするならば、これ如何にいたしましょうや?」
またそんな問答を始めた。しかも今度は少し難しい。やや考え込んで長政は答える。
「……誰かを頼ればよい」
すると安休は、うん、と頷いた。
「それもよろしゅうございますな。では、誰も頼れず、浅元様お一人の力で器を拾い上げるには、これ如何にいたしましょうや?」
そこでついに我慢できなくなって、長政はすっくと立ち上がった。
「お坊よ、私は問答をしたい訳ではない。そうやって煙に巻くつもりならこのまま帰るぞ」
しかし安休は相変わらず微笑んだまま、長政を見上げるのみ。その目は真剣そのもので、それが余計に腹が立った。
このまま本当に帰ってやろうか。そんな考えが駆け巡るも、長政の性分からしてこのまま帰ったら後から気になるに違いない。
そうなってから後悔してももう遅いことはわかっていた。
――ええい、やらいでか。
大きなため息をひとつついて、長政は再びどかっと腰を下ろす。こうなれば最後まで付き合ってやろうではないか。湖北の鷹の意地を見せるは今ぞ。
そう思い、先ほどの問いであるここから動かず、誰にも頼らず、あの茶碗を拾う方法を考えてみる。しかしいくら悩んでみても、答えは一向に見つからなかった。
そして。
「……無理だ。私だけではどうやっても届かない。道具を使えばとも思ったが、それは道具が届く距離までで、それ以上はやはり無理だ」
ひとしきり考えた結論は、長政独力では不可能というものだった。
すると安休は満足したように頷いて「つまりそういうことにございます」と続ける。
「人の腕の長さには限りがございます。どんなに腕を伸ばしてみても、届くところにしか届きません。だというのに浅井様は、落ちる器全てをご自分で拾い上げようとされているようにお見受けしました。故にそれは、あまりに傲慢と申したのです」
何を言われているのかわからず、しばし考え込む。すると安休は、更に噛み砕いて続けた。
「人は、抱えられる茶碗の数に限りがございます。茶碗ひとつでその手がいっぱいになる者もいれば、山のように抱えられる者もいる。人はそれを器と呼びます。しかし、その本質はどちらも同じ。人は己の手の届くところにある茶碗しか拾えぬのです」
「己の……器」
長政は己の手のひらに視線を落とす。久方ぶりにじっと見た己の手のひらは、自分で思っているよりもずっと小さな物だった。
安休は続ける。
「目に届く全てのものを救ってやろうと大望を抱くのは結構ですが、己の器の外にあるものまで抱え込もう、救ってやろうとするのは、それ即ち傲慢というより他ございません。もしそれが出来る者がいたとしたら、それは神仏をおいて他にございますまい」
はっとして、長政は安休を見る。つまりこれは、長政の抱いた疑問に対するひとつの答えなのだ。
安休は言っている。長政が今救おうとしているのは、己の器の外にある物だ。長政の器に収まらぬ、ずっと先にある茶碗なのだ、と。
「あなた様の悩みは、人の身でありながら神仏と同じことをするにはどうすればよいか、どうすれば神仏になれるのかと思い悩んでいるのと同じ。しかし我ら僧は、その答えを見つけるために日々修行に励むのです。それを己の持つ力だけでどうにかしてしまおうとする振る舞いこそ、まさに傲慢」
「……だが、それでは余りにも残酷ではないか。己の腕が届かぬから、落ちる茶碗は全て見捨てよと。全て諦めろというのが仏の教えなのか?」
すると安休は静かに首を横に振った。
「さにあらず。あなた様はその答えを、先ほどご自分でお答えになりました。その腕の先にある、届かぬ茶碗を拾う術を」
何のことだと思い、先ほどの問答を思い返す。そして、答えが見つかった。
「あぁ……そうか。誰かと共になら……誰かを頼れば、この手の届かぬ茶碗も拾い上げることができるのか」
それは先ほど長政の言った、己の届かぬ場所にある茶碗を拾い上げる方法だった。
「さよう。神仏でなくとも……いいえ。同じ痛みを知る人の身だからこそ。拾える茶碗も、きっとございましょう。そうして同じ痛みを知る者同士、手を繋ぎ合えば。或いは日本全てにその腕を届かせることもできるやもしれません」
ああそうか、と思う。
手を伸ばし、手を繋ぎ、そうして己の腕をみなの力でもっと遠くへ届かせる。長政の知識が民を渡って、近江中に広がったように。
そうして初めて、人は誰かを救えるだけの力を持つのだ。
長政は何かを思い違えていたのかもしれない。これから先の未来を知る自分だからこそ、人より多くのことを成し、人より多くの者を救わねばならないのだと。
しかしそれはただの傲慢だったのだ。神仏へ至ろうとする、思い上がり甚だしい傲慢だ。
長政とて所詮は人。だからこそ限界があり、だからこそこぼれ落とす物もある。
故にこぼれた物の価値を知り、懸命に腕を伸ばそうと足掻き続けることが出来るのだ。
「……一人がみなのため、みなが一人のために手を伸ばせば、天下は自ずから良くなっていく……か」
「左様。さすればいずれ、あなた様の望むように、遥か遠くにある茶碗すらも拾えるようになるやもしれませぬ」
大一大万大吉。乱世を終わらせる方法が、漠然とだが見えた気がした。
人と人の手を繋ぎ合わせ、大きな腕を作る。そうして手の届く先で誰かを拾い上げ、また手を繋ぐ。
それを繰り返していくことで、いずれは長政の届かぬところにある茶碗すら拾えるようになるのだろう。
そうしてその腕が、日本全てに届いたなら。
「ご両人、茶の支度が出来てございます。どうぞ、奥へ」
そこへ支度を済ませた甚兵衛が現れたが、長政は立ち上がるなりすぐに答える。
「すまない甚兵衛、急用ができた。私には為さねばならぬことが……進まねばならぬ道が見えた。悪いが今日は失礼する」
「浅元様……!?」
「岡崎殿、礼を言う。今までの迷いが晴れた気分だ。おかげで己の進むべき道が見つかった」
「いいえ、私は何も。しかし……あなた様ならきっと、その腕をもっと遠くへ届かせることも出来ましょう」
「ああ、そのつもりだ。また近江を訪れた際は私の元を尋ねてくれ。その時は改めて礼をしたい。では御免」
何が何だかわかっていない甚兵衛をよそに、長政はさっさと部屋を後にした。
その背中を見送った安休は、やがて小さく呟いた。
「ええ、いずれきっと。またお会い致しましょう……浅井、長政様」
安休の声は、もう長政には届いていなかった。
◆――
相互利益。即ち経済の繋がりだ。長政の目指す泰平の形は、既に長政の中にあったのだ。
「みな決めたぞ! 今後の浅井が進むべき道を!」
屋敷に戻るなり、興奮混じりに大声を張り上げた長政は、ずかずかと執務室へ歩みを進める。そこへ何事かと、父の久政が顔を出した。
「何じゃ新九郎、随分と騒がしいな」
「父上! 決めました、我ら浅井は織田と盟約を結び、上洛致します! 我らの力で義秋様を征夷大将軍の座に押し上げるのです!」
ほう、と言う顔をして「しかし」と久政は続ける。
「その場合、朝倉は如何にするつもりじゃ。織田の下知に従うとは思えぬが」
しかし長政はすぐに頷いて答える。
「織田と朝倉、その両方と浅井を強く結びつけるつもりです。たかが仲違い程度では手を切れぬほどに、そして浅井を無視出来ぬほどに。強く、強く」
そう言って目の前で己の両手を組んで見せたが、久政には全く意味が伝わらなかった様子だ。何を言っているんだとばかりに片眉を上げるばかりだった。
だが、その思いは伝わったのか、久政は短く問う。
「出来るのか」
その問いかけに、長政はしっかりと頷き返した。
「私だけではきっと難しいでしょう。ですが……私たちであれば、必ず」
「左様か」
珍しく、久政がふっと笑みをこぼす。やや呆れ気味に、しかし言外に期待しているぞ、とでも言いたげに。その笑みに釣られて長政も笑った。
「そのためにもまずは若狭です。とにかく今は、浅井が力を持たねばなりません。そうしていずれは――とにかく、織田との同盟を呑みます。すぐにみなを集めます故、父上も評定の間へ」
「わかっておる、そう急かすでないわ」
そうして踵を返した父の横顔を見送って、何か引っかかるものを覚えた長政は少し立ち止まり。
「……あ」
ふと思い出した。あの時感じた、誰かに似ていると思った岡崎安休の面影。それが誰だったのか今わかったのだ。
久政だ。普段はむすっとしているため気付かなかったが、ふと笑った時の顔が二人は良く似ているのである。
「……他人の空似か」
ようやく胸のつっかえが取れた長政は、どこかすっきりした気持ちで評定の間に向かう。重臣らを集めたその評定にて、長政は織田と同調する旨を公表した。
史実と同じだが史実とは違う。浅井家は新たな未来への道のりを、今確かに歩み出したのだった。




