第9話 あなたの顔を知りたい
ルシアン殿下から贈り物をいただいた翌朝、私はいつもより少しだけ早く身支度を整えていた。
鏡の前で長い深紅の髪を結び、騎士服の襟元を正す。そして最後に、机の上へ置いていた愛剣を手に取った。柄の根元には、昨日いただいたばかりのリボンが結ばれている。落ち着いた深紅の布地に、銀糸で刺繍された小さな月鈴草。何度見ても綺麗で、つい指先で触れてしまう。
剣に装飾を施すことなど、これまでほとんどなかった。けれど、このリボンは不思議と私の剣によく馴染んでいる。邪魔にならないよう長さも調整してあるし、何より、殿下が私のために選んでくださったものだと思うと、自然と大切にしたくなった。
(……今日も、殿下にお会いできるのよね)
そんなことを考えた瞬間、私は少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
護衛として毎日お会いするのは当然のことなのに、どうしてこんなにも楽しみにしてしまうのだろう。自分でも不思議に思いながら、私は剣を腰へ下げ、部屋を出た。
廊下を歩いていると、向こうからリネットがやってきた。彼女は私の姿を見るなり明るく挨拶をしてくれたけれど、すぐに腰の剣へ視線を向け、嬉しそうに目を輝かせた。
「セレナ様! さっそく使ってくださっているんですね!」
「ええ。昨日いただいたばかりだけれど、とても気に入っているの。色も刺繍も綺麗で、剣によく似合っているでしょう?」
「もちろんです! 殿下もきっとお喜びになりますよ。実は、色を決めるときも、刺繍をお願いするときも、すごく真剣に考えていらっしゃったんです」
リネットは嬉しそうに笑いながら、贈り物を用意していたときの様子を教えてくれた。
殿下は最初、どんなものなら私が喜ぶだろうかと、マーサやリネットに何度も相談していたらしい。剣の邪魔にならないこと、丈夫で長く使えること、それから、私の髪に似合う色であること。ひとつひとつ確かめながら、時間をかけて選んでくださったのだという。
「殿下、セレナ様が喜んでくださるか、ずっと気にしていらっしゃったんですよ。だから、昨日お渡しできて本当によかったです!」
「……そうだったのね。そんなに考えてくださっていたなんて、知らなかったわ」
私は思わずリボンへ視線を落とした。小さな贈り物の中に、殿下の優しい気持ちがたくさん込められていたのだと思うと、胸の奥がじんわりと温かくなる。
リネットはそんな私の様子を見て、何やら嬉しそうに微笑んでいた。けれど、私が顔を上げると、何でもありませんと言って軽やかに去っていく。
私は少し首を傾げながらも、殿下の執務室へ向かった。
❀ ❀ ❀
午後、私はルシアン殿下と庭園を歩いていた。
秋の空は高く澄み渡り、柔らかな日差しが花壇へ降り注いでいる。月鈴草の白い花々は今日も綺麗に咲き、風が吹くたびに甘い香りを漂わせていた。
殿下は私の腕に軽く手を添え、白い杖で足元を確かめながら歩いていらっしゃる。庭園の道にもすっかり慣れておられるようで、私が段差や曲がり角を伝えると、迷うことなく足を進められた。
「そういえば、セレナ殿。昨日の贈り物は、使っていただけましたか?」
「はい。さっそく剣に結ばせていただきました。今も身につけております」
「それは嬉しいですね。リネットが、あなたの髪によく似合う色だと言っていましたから、きっと素敵なのでしょうね」
殿下は嬉しそうに微笑まれた。私は思わず腰の剣へ手を添える。リボンは歩くたびに小さく揺れ、銀糸の刺繍が日差しを受けて輝いていた。
「本当にありがとうございます、殿下。こんなに素敵な贈り物をいただいたのは、初めてかもしれません」
「ふふ。そう言っていただけると、選んだ甲斐がありました」
殿下の声には、少しだけ照れたような響きが混じっていた。私はその横顔を見つめながら、自然と頬を緩める。
しばらく歩いたあと、私たちは月鈴草の花壇に近いベンチで休憩することにした。殿下が腰を下ろされたのを確認し、私も隣へ座る。花の香りが風に乗って漂い、遠くから小鳥のさえずりが聞こえてきた。
以前、初めて殿下と庭園を歩いたときは、何を話せばよいのかわからず、ずいぶん緊張していた。それが今では、こうして隣に座っているだけで心が落ち着く。少しずつではあるけれど、私たちの距離も近づいているのかもしれなかった。
「セレナ殿。私は、あなたの声や歩き方、剣を握る手を知っています。けれど、まだ知らないこともたくさんあるのでしょうね」
ふと、殿下がそんなことをおっしゃった。私は少し驚きながら、隣へ顔を向ける。
「……そうでございますね。私も、殿下について知らないことがまだたくさんあると思います」
「ええ。ですから、これから少しずつ知っていけたら嬉しいです」
殿下は穏やかに微笑まれた。そして、少しだけ迷うような間を置いてから、静かに続けられる。
「……セレナ殿。ひとつ、お願いしてもよろしいでしょうか?」
「はい。何でございましょう?」
「あなたのお顔に、触れてみてもよろしいでしょうか?」
その言葉を聞いた瞬間、私は息を呑んだ。
殿下はいつもと変わらない穏やかな表情で、こちらへ顔を向けていらっしゃる。けれど、私の胸の奥では、突然大きな波が立ったようだった。
顔に触れる。
それはつまり、私の傷にも触れるということだ。
「……私の、顔に……でございますか?」
「ええ。もちろん、嫌でしたら断ってくださって構いません。私はただ、あなたのことをもう少し知りたいと思ったんです」
殿下は優しい声でそうおっしゃった。無理にお願いするつもりはないことが、その言葉からよく伝わってくる。
けれど、私はすぐに返事をすることができなかった。
❀ ❀ ❀
私の左頬には、大きな傷跡が残っている。
3年前の戦場で負った傷だ。頬から顎にかけて走るその傷は、今ではすっかり塞がっているものの、以前のような滑らかな肌に戻ることはなかった。
傷を負う前、私は伯爵令嬢として、それなりに周囲から褒められることもあった。深紅の髪が綺麗だとか、紫色の瞳が珍しいだとか、そんな言葉をかけられることも少なくなかった。
けれど、傷を負ってからは、周囲の人々の態度が変わった。
騎士としての実力を称える者はいても、女性としての私を見る目は冷たくなった。顔をしかめる者もいれば、聞こえるように醜いと囁く者もいた。傷を隠した方がよいのではないかと、親切そうな顔で勧めてくる者さえいた。
私はそのたびに、何でもないような顔をしてきた。騎士なのだから、容姿を気にする必要などない。そう自分に言い聞かせ、剣を握ることだけに集中してきた。
けれど、本当は傷を見られることが怖かった。
誰かが私の顔へ視線を向けるたび、また何か言われるのではないかと身構えてしまう。鏡を見ることさえ、いつの間にか苦手になっていた。
(……殿下が、私の傷に触れたら)
殿下は目が見えない。けれど、指先で触れれば、傷の形や大きさはわかるだろう。
もしかしたら、驚いてしまうかもしれない。今まで優しく接してくださっていた殿下も、私の顔にこんな傷があると知れば、何か変わってしまうのではないか。
そんな考えが浮かび、胸の奥が苦しくなった。
けれど、同時に、これまで殿下と過ごした時間が思い出された。
初めてお会いした日、殿下は私の剣を握る手を褒めてくださった。庭園では、見えている景色を教えてほしいとおっしゃり、私の知らない花の香りを教えてくださった。
過去のことで気持ちが沈んでいたときも、無理に事情を聞き出そうとはせず、ただ静かにそばにいてくださった。そして昨日は、私のために時間をかけて贈り物まで選んでくださったのだ。
私は隣に座る殿下の横顔を見つめた。
この方なら、きっと大丈夫。
そう思いたい気持ちが、少しずつ恐怖を上回っていった。
「……はい。殿下でしたら」
私は小さく頷き、そう答えた。声は少し震えていたけれど、自分の意思で伝えることができた。
殿下はすぐに手を伸ばすことはせず、もう一度静かに尋ねられた。
「本当によろしいのですか? 無理をなさっているのでしたら、遠慮なくおっしゃってください」
「……大丈夫でございます。私も、殿下に知っていただきたいと思いましたので」
その言葉を聞いて、殿下は穏やかに微笑まれた。
「ありがとうございます、セレナ殿。では、失礼しますね」
❀ ❀ ❀
私は殿下の方へ身体を向け、少しだけ距離を詰めた。
殿下はゆっくりと手を伸ばし、私の位置を確かめるように指先を動かされた。私はその手にそっと自分の手を添え、顔の近くまで導く。
最初に触れたのは、額だった。
温かな指先が、髪の生え際からこめかみへとゆっくり動いていく。殿下の手つきはとても丁寧で、まるで壊れやすいものを扱うように優しかった。
私は目を閉じ、その感触に身を委ねた。誰かに顔へ触れられることなど、いつ以来だろう。少なくとも、傷を負ってからは、ほとんど経験がなかった。
殿下の指先が右の頬へ移り、輪郭をゆっくりとなぞっていく。私は緊張しながらも、じっと動かずにいた。
そして、指先が左の頬へ触れた。
傷のない部分をなぞっていた指が、やがて大きな傷跡に差しかかる。
その瞬間、殿下の手がわずかに止まった。
(……っ)
私は思わず身体を強張らせた。
やっぱり、驚かれたのだろうか。指先で触れれば、傷の凹凸ははっきりとわかる。どれほど大きな傷なのか、殿下にも伝わってしまったに違いない。
私は目を閉じたまま、次の言葉を待った。
けれど、殿下は何もおっしゃらなかった。
傷を避けることも、必要以上に確かめることもなく、ただ静かに手を添えていらっしゃる。その温かな感触に、私は少しずつ身体の力が抜けていくのを感じた。
「……ありがとうございます。触れさせてくださって」
殿下の声は、いつもと変わらず穏やかだった。
私はゆっくりと目を開けた。殿下は私の方へ顔を向け、優しく微笑んでいらっしゃる。そこには驚きも、戸惑いも、まして嫌悪など少しも感じられなかった。
そのことが、どうしようもなく嬉しかった。
❀ ❀ ❀
「……殿下。私の顔には、大きな傷があるのです」
気づけば、私はそんな言葉を口にしていた。殿下は静かに頷かれる。
「ええ。今、わかりました」
私は唇を噛み、膝の上で手を握りしめた。ずっと聞きたかったことがある。けれど、怖くて誰にも尋ねられなかったことだ。
殿下なら、きっと正直に答えてくださる。そう思ったからこそ、私は勇気を出して口を開いた。
「……醜いと、思われませんか?」
声が震えた。
こんなことを尋ねるなんて、騎士として情けないと思われるかもしれない。けれど、どうしても聞かずにはいられなかった。
殿下はすぐには答えず、少しだけ考えるような間を置かれた。そして、穏やかな声で話し始められる。
「私は、あなたの顔を目で見たことがありません。ですから、見た目について軽々しく言うことはできません」
その言葉に、私は静かに耳を傾けた。
殿下は私の手をそっと取り、温かな指先で包み込んでくださった。
「ですが、私はあなたの声を知っています。誰かを守るときの強さも、馬に話しかけるときの優しさも、よく知っています。庭園で花のことを教えてくださるときの楽しそうな声も、剣を握るときの真剣な気持ちも、私なりに感じてきました」
殿下は少しだけ微笑まれた。
「その傷があるからといって、私の知っているあなたが変わることはありません。あなたは、私にとって大切な方です。それは、これからも変わりませんよ」
その瞬間、胸の奥で何かがほどけたような気がした。
私はこれまで、傷のある自分を受け入れてもらうことなど、もう望んではいけないのだと思っていた。騎士として必要とされれば、それで十分だと。女性としての幸せなど、自分には関係のないものだと。
けれど、殿下は違った。
傷があることを知っても、何も変わらないとおっしゃってくださった。私がどんな顔をしていても、これまで一緒に過ごしてきた時間や、私という人間そのものを大切に思ってくださっている。
それが嬉しくて、胸がいっぱいになった。
気づけば、頬を温かなものが伝っていた。
「……あれ……?」
私は慌てて涙を拭おうとした。けれど、一度こぼれ始めた涙は、なかなか止まってくれなかった。こんなところで泣いてしまうなんて、殿下にご心配をおかけしてしまう。
そう思っても、胸の奥から込み上げてくる感情を抑えることができなかった。
「……セレナ殿。泣いていらっしゃるのですか?」
殿下が静かに尋ねられた。私は何とか返事をしようとしたけれど、上手く声が出ない。
「……申し訳、ございません。こんな……お見苦しいところを……」
「謝らないでください。泣きたいときは、泣いてもよいのですよ」
殿下はそうおっしゃって、私の手を優しく握り続けてくださった。
私は俯いたまま、しばらく涙を流した。殿下は何も尋ねず、ただ静かにそばにいてくださる。その温かな手の感触が、今の私には何よりありがたかった。
傷を負ってから、私はずっと強くあろうとしてきた。誰にも弱さを見せず、泣くことさえ許さないようにしてきた。
けれど、今だけは。
この方の前でだけは、少しだけ弱い自分でいてもよいのかもしれなかった。
❀ ❀ ❀
しばらくして、ようやく涙が落ち着いた。
私はハンカチで目元を拭い、ゆっくりと顔を上げる。殿下は変わらず穏やかな表情で、私の手を握ってくださっていた。
その温かさに、私はもう一度小さく息を吐いた。
「……ありがとうございます、殿下。少し、取り乱してしまいました」
「いいえ。少しでも気持ちが楽になったのでしたら、私は嬉しいです」
殿下はそうおっしゃって、優しく微笑まれた。
私はしばらく迷った末、静かに口を開いた。
「……殿下。この傷は、3年前の戦場で負ったものなのです」
「……そうだったのですね」
殿下は私の言葉を遮ることなく、静かに耳を傾けてくださった。私は膝の上で手を握りしめ、あの日のことを思い出す。
燃え上がる炎。逃げ惑う人々。剣を握る手に伝わった衝撃。そして、最後に聞こえた、あの子の声。
胸の奥が、再び痛んだ。
「そのとき、私は……大切な人を、守れませんでした」
言葉が詰まり、それ以上続けることができなかった。喉の奥が苦しくなり、また涙がこぼれそうになる。
殿下はしばらく黙っていらっしゃった。そして、静かに口を開かれる。
「……今は、無理に話さなくても大丈夫ですよ。あなたが話したいと思われたときに、聞かせていただければ十分です」
その言葉に、私は胸の奥が温かくなるのを感じた。
殿下は、私の過去を無理に知ろうとはなさらない。けれど、私が話したいと思ったときには、きっと受け止めてくださるのだろう。
私は少し考えてから、勇気を出して尋ねた。
「……いつか、私の話を聞いていただけますか?」
「もちろんです。あなたが話したいと思われたときに、何度でも」
殿下は迷うことなく答えてくださった。
私はその言葉に、心から安堵した。これまで誰にも話せなかったことを、この方になら伝えられるかもしれない。そう思えたことが、何より嬉しかった。
庭園には穏やかな風が吹き、月鈴草の甘い香りが漂っている。私は殿下の手の温かさを感じながら、静かに目を閉じた。
(……もう、逃げるのはやめよう)
3年前のあの日から、私はずっと過去に囚われてきた。守れなかった命のことを思い出すたび、自分を責め、傷を隠し、誰かに心を開くことを避けてきた。
けれど、殿下はそんな私を、何も変わらないとおっしゃってくださった。
だからこそ、私も少しだけ前へ進みたい。
私はゆっくりと息を吸い、胸の奥に小さな決意を灯した。
明日、殿下にすべてをお話ししよう。
あの日、何が起きたのか。私が何を失い、どうして今も剣を握り続けているのか。
すべてを知っていただいたうえで、それでもこの方のそばにいたい。
そう願っている自分に、私は初めて気づいたのだった。




