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第10話 守れなかった命

 ルシアン殿下に過去をお話しすると決めた翌朝、私はいつもより早く目を覚ました。

 窓の外にはまだ薄い朝靄が残り、離宮の庭園も静まり返っている。私は寝台から起き上がると、いつものように身支度を整え、机の上に置いていた愛剣を手に取った。

 柄の根元には、殿下からいただいた深紅のリボンが結ばれている。銀糸で刺繍された月鈴草を指先でなぞると、昨日の出来事が自然と思い出された。

 殿下は私の顔に触れ、傷があることを知っても、何も変わらないとおっしゃってくださった。

 その優しさが嬉しかったからこそ、私は今日、3年前の出来事をすべてお話ししようと決めたのだ。


(……怖くないと言えば、嘘になるわ)


 あの日のことを誰かに詳しく話すのは、初めてだった。

 騎士団では作戦の報告書を提出したし、王宮でも戦況について説明した。けれど、それはあくまで任務の記録であって、私自身が何を感じ、何を失ったのかを語ったわけではない。

 殿下はきっと、最後まで話を聞いてくださるだろう。それでも、すべてを知ったあと、今までと同じように接していただけるのかという不安は消えなかった。

 私は剣を腰へ下げ、鏡の前で騎士服の襟元を正した。

 左頬から顎にかけて残る傷跡は、今日も変わらずそこにある。けれど、昨日のように目を逸らすことはなかった。

 私は小さく息を吸い、部屋を出た。


❀ ❀ ❀


 午前中の護衛を終えたあと、私は殿下に少しお時間をいただけないかと申し出た。

 殿下はすぐに了承してくださり、人の出入りが少ない私室へ案内してくださった。窓辺には小さな花瓶が置かれ、月鈴草の白い花が数輪飾られている。柔らかな日差しが差し込む、穏やかな部屋だった。

 殿下はいつもの椅子へ腰を下ろし、私にも向かいの席を勧めてくださった。


「セレナ殿。昨日のお話の続きでしょうか?」

「……はい。もしよろしければ、聞いていただきたいのです」


 私の声は、自分でもわかるほど緊張していた。殿下はそのことに気づいていらっしゃるのか、いつもより少しだけゆっくりと頷かれた。


「もちろんです。急がなくて構いませんから、あなたの言葉で聞かせてください」


 その穏やかな声に、私は少しだけ肩の力を抜いた。

 膝の上で手を重ね、ゆっくりと息を整える。何から話せばよいのか迷ったけれど、やはり最初からお伝えするべきだろう。

 私は静かに口を開いた。


「……3年前、私は国境近くの村々を守る任務に就いておりました。当時は21歳で、王国騎士団の副団長を務めていたのです」


 殿下は何もおっしゃらず、静かに耳を傾けてくださった。

 私は目を閉じ、3年前の記憶を辿った。


❀ ❀ ❀


 あの日、私たちの部隊は国境近くの街道を警備していた。

 敵軍が周辺の村々へ侵攻しているという報告を受け、避難民を安全な場所へ誘導するために派遣されたのだ。ところが、到着したときにはすでに街道の一部が封鎖され、数百人もの村人たちが取り残されていた。

 老人や子どもを抱えた家族、負傷して歩けなくなった者たち。彼らは敵軍の襲撃に怯えながら、狭い街道に集まっていた。

 私は部下たちに指示を出し、避難経路を確保するために敵の包囲を突破することにした。

 そのとき、私のそばには17歳の従騎士の少年がいた。

 まだ正式な騎士になって間もないような年齢だったけれど、彼は誰よりも真面目で、いつも一生懸命だった。剣の腕はまだ未熟で、訓練では何度も転んでいたけれど、それでも決して諦めない子だった。


「隊長! 俺も最後まで一緒に戦います! 絶対に足手まといにはなりませんから!」


 少年はそう言って、私の隣に立った。まだ幼さの残る顔には緊張が浮かんでいたけれど、その瞳は真っ直ぐだった。


「無理はしないこと。あなたには避難民の誘導をお願いするわ。特に子どもたちを優先して、安全な場所まで連れていって」

「はい! 必ず全員、無事に逃がしてみせます!」


 少年は力強く頷き、すぐに持ち場へ向かった。

 私はその背中を見送りながら、少しだけ微笑んだ。彼は以前から、いつか私のような騎士になりたいと口にしていた。剣術の訓練でも、誰より熱心に質問をしてきたし、任務のたびに少しずつ成長していることがわかった。

 だからこそ、必ず生きて帰してやりたかった。

 まだ17歳なのだ。これからもっと剣を学び、経験を積み、立派な騎士になっていくはずだった。

 私はそう信じていた。


 戦いは激しかった。

 敵軍は街道の両側から攻め込み、避難民の列を分断しようとしていた。私は部下たちと連携しながら敵を食い止め、少しずつ退路を確保していった。

 剣を振るうたびに腕が痺れ、何度も身体へ衝撃が走る。それでも、背後には逃げることのできない人々がいる。私たちがここで退けば、彼らは敵の手に落ちてしまう。

 私は必死に剣を振るい続けた。

 やがて、避難民の大半が安全な場所へ移動し、残るのは最後尾の数十人だけになった。

 もう少しだった。

 あと少しで、全員を逃がせるはずだった。


❀ ❀ ❀


 最後尾の避難民を守りながら、私は敵の追撃を食い止めていた。

 部下たちは負傷者を支え、少年も子どもたちを先導している。私はその様子を確認し、最後の一団が街道を抜けるまで持ちこたえようと剣を構え直した。

 そのとき、背後から悲鳴が上がった。

 振り返ると、負傷した男性が足をもつれさせ、道の中央に倒れていた。敵兵のひとりがその姿を見つけ、剣を振り上げている。

 私は迷わず駆け出した。

 男性の前へ飛び込み、振り下ろされた剣を受け止める。そのまま敵兵を押し返し、男性を部下の方へ逃がした。

 けれど、その一瞬の隙を、敵は見逃さなかった。

 街道脇の茂みから、伏兵が飛び出してきたのだ。

 私は気配に気づいて振り返ったけれど、間に合わなかった。敵兵の剣が、私の背後から迫っていた。

 その瞬間だった。


「隊長っ!!」


 聞き慣れた声が響いた。

 次の瞬間、私は強い力で突き飛ばされ、地面へ倒れ込んだ。視界の端で銀色の刃が閃き、左頬に焼けつくような痛みが走る。

 何が起きたのか、すぐには理解できなかった。

 けれど、顔を上げた瞬間、私は息を呑んだ。

 そこには、私を庇うように立った少年の姿があった。

 敵兵の剣が、彼の身体を深く貫いていたのだ。


「……っ!」


 私は反射的に剣を握り直し、敵兵へ斬りかかった。怒りと恐怖で頭が真っ白になりながらも、身体だけは動いていた。敵を倒し、すぐに少年のもとへ駆け寄る。

 少年は膝から崩れ落ち、私の腕の中へ倒れ込んだ。

 私は必死に傷口を押さえた。けれど、指の隙間から温かな血が溢れ、止まる気配がない。

 誰かに治療師を呼ぶよう叫びながら、私は少年の顔を覗き込んだ。


「しっかりして! すぐに治療するから、お願い、目を閉じないで!」


 少年は苦しそうに息をしながら、私を見上げた。

 その顔には、まだ幼さが残っていた。訓練場で何度も転び、それでも笑いながら立ち上がっていた、あの子の顔だった。


「……隊長。俺、ちゃんと……騎士になれましたか?」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が引き裂かれるようだった。

 私は必死に頷き、少年の手を握りしめた。


「ええ。あなたは立派な騎士よ。誰よりも勇敢で、優しい騎士だわ。だからお願い、目を開けて……!」

「……よかった。俺、ずっと……隊長みたいに、なりたくて……」


 少年はかすかに微笑んだ。

 そして、私の手を握っていた指から、ゆっくりと力が抜けていった。

 私は何度も名前を呼び、肩を揺さぶった。けれど、少年が再び目を開けることはなかった。

 治療師が到着したときには、もう手遅れだった。

 避難民数百人は無事に逃げ延び、作戦は成功した。

 けれど、私の腕の中で、17歳の少年は息を引き取ったのだ。


❀ ❀ ❀


「……その戦いのあと、私は王国から勲章を授かりました」


 私は静かに言葉を続けた。

 目の前には、穏やかな表情で耳を傾けてくださるルシアン殿下がいらっしゃる。けれど、私の胸の奥には、今もあの日の光景が鮮明に残っていた。


「数百人の命を救った英雄だと、皆が褒めてくれました。王宮でも大勢の方々から称賛され、騎士団の仲間たちも、よくやったと言ってくれたのです」


 私は膝の上で手を握りしめた。

 あの日、私たちは確かに多くの人々を救った。避難民の中には幼い子どもも、年老いた夫婦もいた。彼らが無事に故郷を離れられたことは、今でもよかったと思っている。

 けれど、どれほど称賛されても、少年が戻ってくることはなかった。


「……私は、あの子を守る立場だったのです。それなのに、守られたのは私の方でした」


 声が震えた。

 私は俯き、膝の上で握りしめた手を見つめる。あの日、少年の血に濡れた手。何度洗っても、あの感触だけは忘れることができなかった。


「戦いのあと、あの子のご家族にもお会いしました。何度も謝りました。私の判断が遅れたせいで、あの子を死なせてしまったのだと……」


 少年の両親は、私を責めなかった。

 息子は立派な騎士だったのだと、誇りに思っているとおっしゃった。最後まで任務を果たしたことを、きっと本人も喜んでいるだろうと。

 けれど、その言葉を聞くほど、私は苦しくなった。

 責めてほしかったのかもしれない。お前のせいだと怒鳴られ、恨まれた方が、まだ楽だったのかもしれない。


「何百人を救ったと言われても、あの子が死んだ事実は変わりません。私がもっと強ければ、もっと周囲に気を配っていれば、あの子は今も生きていたかもしれないのです」


 私は唇を噛んだ。

 ずっと胸の奥に押し込めてきた言葉が、少しずつ溢れ出してくる。


「……私が、あの子の代わりに死ぬべきだったのかもしれません」


 口にした瞬間、胸の奥が痛んだ。

 私は騎士団の副団長だった。多くの部下を率い、誰よりも強くあろうとしてきた。それなのに、まだ17歳だった少年ひとり、守ることができなかった。

 私はその事実を、3年間ずっと抱え続けてきたのだ。


❀ ❀ ❀


 しばらく、部屋には静寂が流れた。

 窓の外から小鳥のさえずりが聞こえ、柔らかな風がカーテンを揺らしている。私は俯いたまま、殿下の言葉を待った。

 やがて、ルシアン殿下が静かに口を開かれた。


「……とても、つらい経験をなさったのですね」


 その声は、いつもより少しだけ低く、穏やかだった。

 殿下はすぐに私を慰めようとはなさらなかった。ただ、私が語った出来事を、ひとつひとつ受け止めてくださっているようだった。


「その少年が亡くなったことを、私が簡単な言葉で慰めることはできません。あなたがどれほど後悔してきたのかも、すべて理解できるとは思いません」


 私はゆっくりと顔を上げた。

 殿下は私の方へ顔を向け、静かに続けられる。


「ですが、ひとつだけ、お伝えしたいことがあります」


 殿下は少しだけ間を置かれた。


「あなたが守れなかった命があることは、私には変えられません。ですが、あなたが守った命まで、なかったことにしないでください」


 その言葉に、私は息を呑んだ。

 殿下は穏やかな声のまま、ゆっくりと話を続けられる。


「あなたが救った人々は、今もどこかで生きています。家族と食事をして、笑い、明日を迎えているのでしょう。あの日、あなたが剣を握ってくださったからこそ、続いている人生があるのです」


 私は何も言えなかった。

 あの日から、私はずっと少年の死ばかりを考えてきた。救えた人々のことを思い出すたび、あの子を守れなかった自分が情けなくなり、喜ぶことなど許されないと思っていた。

 けれど、殿下はその命も大切にしてほしいとおっしゃったのだ。


「そして、その少年も、あなたを守りたいと願って剣を握ったのではありませんか」


 殿下の言葉に、私は少年の最後の顔を思い出した。

 苦しそうに息をしながら、それでも私に向かって微笑んでいた、あの子の顔。

 立派な騎士になれましたかと、最後まで自分の務めを気にしていた、あの子の声。


「もちろん、だからといって、その方が亡くなったことを仕方がなかったとは思いません。もっと生きていてほしかったというあなたの願いも、当然のものだと思います」


 殿下は静かに続けられた。


「ですが、その方が命を懸けて守ったあなたを、あなた自身が粗末にしてほしくありません」


 その瞬間、私は堪えきれなくなった。

 胸の奥で何かが崩れ、熱いものが込み上げてくる。私は両手で顔を覆い、必死に涙を堪えようとした。

 けれど、もう無理だった。


「……あの子に、生きていてほしかったんです」


 声が震えた。

 私はこれまで、少年を死なせてしまった自分への怒りばかりを抱えてきた。けれど、本当はただ、あの子に生きていてほしかったのだ。


「もっと剣を教えて、いつか立派な騎士になった姿を見たかった……! あの子が成長して、誰かを守れる騎士になっていくところを、ずっと見ていたかったんです……!」


 涙が次々と溢れ、言葉が途切れた。

 私は何度も息を整えようとしたけれど、胸の奥から込み上げてくる悲しみを抑えることができなかった。

 あの日から3年間、私はずっと泣くことを我慢してきた。騎士団の副団長なのだから、弱さを見せてはいけない。自分が泣く資格などない。そう思い込んでいた。

 けれど、今はもう、何も抑えることができなかった。


❀ ❀ ❀


 しばらく泣き続けていると、殿下が静かに声をかけてくださった。


「……セレナ殿。よろしければ、こちらへ」


 私は涙に濡れた顔を上げた。

 殿下は椅子に座ったまま、そっと両腕を広げていらっしゃった。その姿を見た瞬間、胸の奥がさらに熱くなる。

 私は少しだけ迷った。

 王子である殿下に、こんな姿をお見せしてよいのだろうか。護衛である私が、守るべき方に甘えてしまってよいのだろうか。

 けれど、殿下は何もおっしゃらず、静かに待ってくださっていた。

 私はゆっくりと立ち上がり、殿下のそばへ歩み寄った。そして、膝をつくようにして身を屈め、そっとその胸元へ顔を寄せた。

 殿下の腕が、優しく私の背中へ回された。

 温かな腕に包まれた瞬間、私はまた涙をこぼしてしまった。


「……申し訳、ございません……。こんな、情けない姿を……」

「情けなくなどありませんよ。あなたは、ずっとひとりで頑張ってこられたのでしょう」


 殿下の声が、すぐ近くで聞こえた。

 私はその言葉に、何も返すことができなかった。ただ、殿下の胸元へ顔を埋め、子どものように泣き続けた。

 殿下は何も急かさず、優しく背中を撫でてくださった。泣き止むまで、どれほど時間がかかったのかわからない。

 けれど、不思議なことに、涙を流すたび、胸の奥に溜まっていた重たいものが少しずつほどけていくような気がした。

 少年が亡くなった事実は変わらない。

 あの日の後悔も、きっと簡単には消えないだろう。

 それでも、私は初めて、誰かに悲しみを受け止めてもらうことができたのだ。


❀ ❀ ❀


 ようやく涙が落ち着いたころ、私は殿下の胸元からそっと顔を上げた。

 泣きすぎたせいで目元が熱く、きっとひどい顔をしているだろう。けれど、殿下は何も気にすることなく、穏やかに微笑んでくださった。


「……ありがとうございます、殿下。こんなにも泣いたのは、久しぶりです」

「少しでも気持ちが楽になったのでしたら、よかったです」


 私は小さく頷いた。

 胸の奥には、まだ痛みが残っている。少年のことを思い出せば、きっとこれからも悲しくなるだろう。けれど、今までのように、自分を責めることだけが彼を思い続ける方法ではないのかもしれない。

 私は殿下の胸元へ視線を落とし、そっと息を吐いた。


(……私は、まだ生きていてもいいのかもしれない)


 そんな考えが浮かんだのは、いつ以来だろう。

 私はずっと、あの日の自分を許せずにいた。生き残ったことを喜ぶ資格などないと思い、剣を握り続けることでしか、自分の存在を認められなかった。

 けれど、殿下は私が守った命も大切にしてほしいとおっしゃった。そして、少年が守ろうとした私自身を、粗末にしないでほしいと。

 その言葉を、私は忘れたくなかった。


「……殿下。私、これからも騎士として、誰かを守り続けたいと思います」

「ええ。あなたなら、きっと多くの方を守っていかれるのでしょうね」


 殿下はそうおっしゃって、少しだけ微笑まれた。


「ですが、セレナ殿。どうか、ご自分のことも大切になさってください。あなたが傷つくことを、悲しむ人もいるのですから」


 その言葉に、私は胸の奥が温かくなるのを感じた。

 私はこれまで、誰かを守ることばかり考えてきた。自分が傷つくことなど、騎士である以上は仕方がないと思っていた。

 けれど、殿下はそんな私のことまで心配してくださるのだ。

 私は小さく頷き、心からの感謝を込めて微笑んだ。


「……はい。ありがとうございます、殿下」


 窓の外では、秋の風が静かに木々を揺らしていた。花瓶に飾られた月鈴草から、ほのかに甘い香りが漂ってくる。

 私はその香りを感じながら、ゆっくりと目を閉じた。

 3年前のあの日から、私はずっと過去に囚われてきた。守れなかった命を思い出すたび、自分を責め、前へ進むことを恐れていた。

 けれど、今は少しだけ違う。

 過去を忘れることはできないし、忘れたいとも思わない。それでも、あの子が守ってくれた命を、これからはもう少し大切にしてみたい。

 そして、できることなら。

 この方のそばで、もう少しだけ未来を見てみたい。

 私はそんな願いを胸に抱きながら、殿下の温かな腕の中で、静かに微笑んだのだった。


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